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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(8)

1933年(1)~(5)

 日本は1933年に国際連盟を脱退し国際社会から孤立する。そしてのち、1940年にドイツ・イタリアと同盟を結び世界大戦へと突き進んでいく。また、戦争遂行に向かって思想・教育への統制・弾圧もあからさまになってくる。従って今回からは国際的な政治の動向や文化への統制・弾圧の動きにも目を向けることになる。『残日録』からの選ぶ項数が多くなるので、1933年も2回に分けて掲載しよう。

(1)1月30日
ヒトラー、首相に就任


「われわれが彼を雇った」

 ナチスは1928年には国会にわずか12議席しかもたなかった。翌30年にはこれが一挙に107議席に。さらに32年には賠償などによる経済危機が決定的な後押しとなって、議席はなんと230にまでのぼった。

 これぞドイツのナチスの躍進ぶりなのである。  こうなってはヒンデンブルグ大統領も、「ベーメンの兵長」とよんで軽べつしていたヒトラーを首相に任命せざるをえなくなる。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任する。

 このとき保守主義者たちは、大衆的人気者であるチョビ髭のヒトラーを、うまくおだてて利用したつもりでいた。
 「われわれが彼を雇ったんだよ」といって。

 しかし、政治というものの魔力を彼らは根本的に見誤っていた。ヒトラーは首相になると同時に国会を解散、総選挙をやると宣言する。あらゆる宣伝力を駆使し、選挙でナチスが圧倒的勝利を収められるという計算のもとに。そして事実そうなった。その瞬間からヒトラーの独裁がはじまるのである。

 ここで私は安倍総理と同程度に無知にして無恥な麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」という発言を思い出した。ヒトラーの突然の国会解散と今回の安倍による国会冒頭での国会解散が同じ手口じゃないかと思った。

 麻生の発言については植草一秀さんが詳しく論じているので紹介しておこう。(麻生の発言の全文も読むことができる。)
『麻生太郎氏ナチスに学べ発言擁護論の意味不明』

 さて、理不尽な遣りたい放題は軍だけではなく、警察も加わっていった。

(2)2月20日
小林多喜二殺される


「身体中を紫色に滲ませて」

 「数日後に、身体中を無情な紫色に惨ませて殺されて帰った。久しぶりに、しかし変った姿で自分の部屋に帰ってきた小林多喜二は、私たちのシャツを脱がす下から、胸も両股も全体紫色に血のにじんでしまった苦痛のあとを、私たちの目と電灯の下にさらした」
 作家佐多稲子『私の東京地図』の一節である。  『蟹工船』や『党生活者』などでプロレタリア文学の先頭をきっていた作家小林多喜二が、築地警察署で長時間の拷問をうけて死んだのは、1933年2月20日午後7時。築地署は心臓マヒのため死亡と発表し、遺骸は三つの病院から解剖をこばまれた。

 佐多稲子は、さらにそのさきのことを書いている。
「小林の家に集るものは、逆に警察に検束されてゆき、葬式にさえ私たちは加わることが出来なかった」
 このため杉並署の留置場はいっぱいとなり、剣道場まで検挙者であふれた。大正末期から昭和へ、あれほど盛んであったプロレタリア文学運動は、小林を失って崩壊していく。ひどい時代であったことよ。

 戦争への道まっしぐらを最も強く煽ったのはマスゴミ(糞バエ)達であった。

(3)2月24日
日本、国際連盟を脱退


「脱退するまでもない」

 1933年2月24日、国連総会で、"満洲から撤兵"するように、という対日勧告案が、42対1で可決された。反対の一票は日本のもの。つまり日本のとってきた政策が、全世界の国々から「NO」といわれたのである。日本全権松岡洋右たちは「サヨナラ」を正式に表明し退場した。日本が栄光ある「世界の孤児」になった瞬間である。

 昭和天皇はずっと、連盟脱退には反対の意見をもちつづけていた。脱退ときまってからも「脱退するまでもなかったのではないか」といいつづけた。

 しかし、世論は強硬な新聞の論調にあおられ、孤立何するものぞと、大歓声をもって連盟脱退に賛成した。松岡全権が帰国したとき、まさかと思うほどの「万歳」「万歳」の歓呼をもって迎えられた。

 こうして日本国民は、一方的かつ確信的な新聞報道に吹きこまれ、被害者なのに国際的に"かがいしゃ"として非難されていると信じ、孤立にともなう強烈な危機感と、それにもまして排外的な感情とをつのらせていった。そのことが後に何をうんだか、昭和史が示すとおりである。

(4)2月27日
ドイツ国会議事堂の炎上


「国民と国家防衛のため」

 1933年1月30日、ヒトラーを首相とする連立内閣が成立した。ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の一党支配をもくろむヒトラーは、3月5日投票の総選挙にすべてを賭けて戦った。強敵はドイツ共産党であった。激しい選挙戦がくりひろげられている真っただ中の2月27日、ドイツ国会議事堂が60数ヵ所から火を発し、紅蓮の炎でベルリンの夜空を真っ赤にこがして燃え落ちた。

 首相ヒトラーの指揮をうけた警察は、犯人としてオランダ人の共産党員ルッペを現場で逮捕する。警戒厳重な議事堂に、いっぺんに大きな建物を燃え上がらせるほどの放火材料を、ひとりの男がもちこめるか、また60ヵ所のいっせい点火が可能なのか、そんな疑問は頭から無視された。

 事件は共産主義者の企てと宣伝され、翌日には「国民と国家防衛のため」の緊急令が交付された。これが歴史の転換点となった。これで共産党員をいつでもその名目によって処罰・追放できることが可能になったのである。共産党の選挙運動は、結果として、自由を奪われることとなり、ヒトラーのナチ党の勝利は確実となった。この日、絶望した劇作家ブレヒトはベルリンを脱出、デンマークに亡命していった。

 厚顔無恥の政治権力者が発するフェイクニュース(偽ニュース)が大手を振って流布されるのは現在でも同じだ。今日(10月29日)の東京新聞の日曜版が「世界中で拡散 フェイクニュース!」という特集を組んでいて、現在のフェイクニュースの事例を掲載している。フェイクニュースは今、インターネット(特にツイッター)内でもたくさん飛び交っている。ご用心!ご用心!

 次の記事はさらなる国家の教育支配の始まりを取り上げている。

(5)4月1日
国定教科書の改訂


「サイタサイタ サクラガサイタ」

 教育学者の唐沢富太郎の評によると
「この時代からはっきりと、教育目的は『臣民の道』の教化と、軍国における『忠君愛国』の精神の鼓吹にあることを示した。そしてこの教科書は、従来の国家主義的な教育にいっそう深い哲学的基礎を与えて………『肇国(ちょうこく)の精神』が唱導され、神国観念が強調されているのである」
ということになる。つまり、日本の軍国主義化はここに始まると。

 まあ、こんなふうに悪評高い教科書なんであるが、われら昭和っ子には困ったことに、それだけひどく懐かしくもある。
「サイタサイタ サクラガサイタ」
「ススメススメ ヘイタイススメ」
と一年坊主はまず「国語」で習ったのである。国花のつぎが兵隊と、なるほど「忠君愛国」の鼓吹は徹底化している。

 国定教科書の第4期にあたるこの教科書改訂の実施は、1933年4月1日から。そして1940年まで使われた。寿命は短かったが、影響力は目茶苦茶に大きかった。それにつけても、日本の明日のため教科書は大事なものと思う。

 こうした問題に興味をお持ちの方に紹介しておこう。
 このブログでは、戦時下の教科書については『国民学校の教科書』
で取り上げている。
 また、大事な教科書が現在も危機にさらされているが、この事については『『羽仁五郎の大予言』を読む』の(18)~(50)で「権力が教育を破壊する 教育反動」という表題で取り上げているが、その部分だけを取り出したものを紹介しておきます。
『権力が教育を破壊する』
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