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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(7)

1932年(4)~(8)

(4)3月1日
満洲国の建国


「五族協和」

 戦前の昭和日本は大ざっぱにいえば、満洲国の存立と権益をめぐって、当事国の中国と小ぜり合いをつづけ、諸外国とも衝突、調整のつかぬままに孤立化し、世界大戦への道をたどっていった、といっていい。その新生国家の満洲国が建国されたのが1932年3月1日である。

 独立宣言はこの日に発せられ、新首都ときめた長春を新京と改名、年号は大同とされた。つまりこの日が大同元年の第1日目。国旗は五族協和をあらわす五色旗である。ちなみに五族とは漢、満、蒙、鮮、日をいう。そしてこの五族協和が日本の大理想としてしきりに叫ばれる。

 日本の新聞は一貫して満洲新国家の成立をたたえ、国際連盟を中心とする国際的影響など眼中にはなかった。満洲国が関東軍の工作によって生まれた傀儡国家であるとする見方を「皮相の観察」と一蹴し、
「(日本の行動が)満蒙三千万民衆の心にひそめられた積年の希望を実行するに資したものであることは、中外のひとしく諒解するところである」
 そして
「生命線へ花嫁を男子と手を携えて満蒙の新天地へ」
とうたいあげた。

 この年には、軍の暴走を後押しするように、擬似愛国心にかぶれたテロリストがさらにはびこっていった。

(5)3月11日
井上日召の自首


「一人一殺」

 この年の2月9日、前蔵相井上準之助射殺さる。3月5日、三井合名の理事長団琢磨射殺さる。ほか暗殺目標としては政治家の犬養毅、若槻礼次郎や幣原喜重郎、財界からは池田成彬、岩崎久寿弥太、そして天皇側近の西園寺公望、鈴木貫太郎、牧野伸顕らの名があがった。

 この暗殺計画実行の指揮統制をとったのが井上日召である。警視庁は必死に日召を追いかけた。結局、自首ということになり、3月11日、新聞によれば「悠々と警視総監邸へ行き、大野総監に自首した」。まさに「国賓なみの逮捕劇」で、血盟団による「一人一殺」の暗殺事件は幕となる。

 日召の下にテロリストは13名いた。かれらは日召の説く革命的急進主義を信奉した。政党・財閥ならびに重臣たちは結託して私利私欲に没頭し、国家存立の大義を誤らしめている。これら諸悪の根源ともいうべき連中を「一人一殺で殺せば、世の中は良くなる」と信じたのである。

 いまの日本の、政党・財界・官界の腐敗の惨状をみると……。いや、世はなべてこともなし、か。いや、いや、何やら不穏な……。

 擬似愛国心に囚われた国民の悲劇は次のような戦争協力会を生むことにも現れている。

(6)3月18日
大日本国防婦人会の第一歩


「銃後の守り」

 1931年秋の満洲事変いらい、日本は戦時下になった。召集令状がしきりに出された。大阪の井上清一中尉に赤紙が届けられたとき、夫に心残りをさせないためと妻が自害、軍国主婦の鑑と大いにもてはやされた。

 井上中尉と親類筋にあった大阪港区の安田せい(金属部品工場主の妻)が、この事実に感激し、友人や隣組の婦人たちに呼びかけ、女だけの会の結成をよびかけた。これが国防婦人会の発足なのである。

 それは1932年3月18日のこと。白エプロンにたすきがけの女性40名近くが、新聞記者を前にさかんに気勢をあげる。
 「銃後の守りは私たちの手で」
 それが会の目的である。そのために出征兵士の見送りや慰問をすすんでやるとした。喜んだのは軍部である。女性のほうから積極的に戦争協力を推進するというのであるから。
 7ヵ月後には大日本国防婦人会へと拡大。やがて会員も700万人を超えるようになる。

 恐るべし、女性の力。

(7)5月15日
5・15事件のウラ


「話せばわかる」

 この日夕刻5時半ごろ、首相官邸に海軍士官が車で乗りつけ、首相犬養毅への面会を強要した。食堂にいた首相は逃げようともせず、彼らを迎えて、手をあげておだやかにいった。
「まあ持て、撃つことはいつでもできる。話を聞こう。話せばわかる」
 そして応接間に案内し、たばこに火をつけて話そうとしたとき、あとから入ってきた海軍士官が、
「問答無用、撃て」
といい放って老首相を撃ち倒した。昭和7年5月15日のこと、いわゆる5・15事件で、「話せばわかる」「問答無用」で有名である。

 しかし、一説に、この話にはウラがある、という。満洲の軍閥張学良の家から犬養の怪しげな領収書がでてきて、海軍士官が「キサマも張学良からカネをもらっておろうが」と詰問した。犬養首相が「そのことならば話せばわかるから」といったが、いまさら弁解無用とばかりに撃ち殺された、というのである。

(8)10月14日
満州開拓移民はじまる


「当初は係累のない者を送る」

 満洲(中国東北地方)開拓移民の源流は、日露戦争後にはじまるが、国家的規模でどんどん送り込まれたのは、1931年の満洲事変の後からである。のちには、疲弊する農村の救済と、満洲支配という隠された国策によって、"百万人移住計両″のもとに強力に推進された。

 その計画にもとずく第一陣の「満洲自衛移民」が、海を波って、満洲国北部のチャムスに着いたのは、1932年10月14日。「移住後、後ろ髪を引かれるような者は、思うように活躍が出来ぬことゆえ、当初は係累のない者を送る」ということで選ばれた約500名である。

 しかし、理想の国土のスローガンをよそに、その夜、彼らを迎えたのは反日ゲリラの襲撃であった。そして彼らは、先住の中国人400人を1人5円で立ち退かせたあとの土地に住み着いた。のちの「弥栄(いやさかえ)村開拓団」である。

 こうして1945年までに開拓団として、881団、約27万人余の日本人が満洲に渡った。その人たちが敗戦後に昧わった悲惨については、すでに多く語り尽くされている。国家の無責任さについては言葉を失う。

 前回から私は「擬似愛国心」という勝手に自作した熟語を用いてきたが、国家から煽られてのめり込む愛国心はすべて擬似愛国心ではないだろうか。

 私は「営業せきやんの憂鬱」というブログを愛読しているが、そのブログの2017年10月24日付の記事が、私が「『昭和の15戦争史(5)』で紹介した『戒厳令下のアキバ 「安倍辞めろ」を完全封殺』 を取り上げていた。その中に次のような文が引用されていた。

「愛国心とは、ならず者達の最後の避難所である」(サミュエル・ジョンソン)
「ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹である」(アルベルト・アインシュタイン)
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」(バートランド・ラッセル」

 この知の偉人たちは「愛国心」とは全て「擬似愛国心」なのだと見抜いていたのだと、私は読み取った。
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