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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(5)

1931年(1):満州事変

 満州事変が勃発したのは1931年である。この事変こそ日本が「昭和の15戦争」へと盲進していく切っ掛けとなった結節点であった。1931年の回顧はこの満州事変だけに絞って詳しく調べていこうと思う(少し長くなるかもしれません)。

 まず、『史料集』の「満州事変」という項を読んでみよう。この記事は「林奉天総領事の報告」と題されている。1931年9月19日の軍による奉天・長春など満鉄沿線諸都市を占領した事件について、総領事林久治郎から外相幣原喜重郎に宛てた9月19日付の暗号電信である。(出典は外務省蔵「日本外交文書」)

林奉天総領事の報告

第625号(至急極秘)……各方面ノ情報ヲ綜合スルニ、軍二於テハ満鉄沿線各地二亘(わた)リ、一斉二積極的行動ヲ開始セムトスルノ方針ナルカ如ク推察セラル。本官ハ在大連内田総裁ヲ通シテ軍司令官ノ注意ヲ喚起スル様措置方努力中ナルモ、政府二於テモ大至急軍ノ行動差止メ方ニ付適当ナル措置ヲ執(と)ラレムコトヲ希望ス。

(注)
「軍司令官」
 関東軍司令官本庄繁中将。当時旅順に司令部があった。
 このときの若槻内閣は事変の不拡大方針を決定したが、関東軍・朝鮮軍の軍事行動を阻止する措置をとらなかった。


第630号(至急極秘)参謀本部建川(たてかわ)部長ハ18日午後1時ノ列車ニテ当地ニ入込ミタリトノ報アリ、軍側ニテハ秘密二付(ふ)シ居(お)ルモ、右ハ或ハ真実ナルヤニ思ハレ、又満鉄木村理事ノ内報二依レハ、支那側ニ破壊セラレタリト伝ヘラルル鉄道箇所修理ノ為満鉄ヨリ保線工夫ヲ派遣セルモ、軍ハ現場ニ近寄セシメサル趣(おもむき)ニテ、今次ノ事件ハ全(まった)ク軍部ノ計画的行動二出テタルモノト想像セラル。

 政府はこの事変が軍による計画的事件であったことを把握していたようだ。

 前回、浜口雄幸首相の狙撃事件を取り上げたが、その後1931年に右翼による軍部内閣樹立を目指したクーデター2件起こっている。3月事件・10月事件と呼ばれている。このような右翼による愚行を煽っていたのは、もちろん陸軍の中枢部である。この事については『探索2』から転載する。

満州事変への道をひたすらに
 3月事件は、大雑把にいえば参謀本部の一部の急進派が中心となり計画されたものである。しかし、陸軍省側の協力がえられなかった、そこに不発の根因があった、とみることができる。では、その陸軍省側の革新派は何を考えていたのであろうか。じつは、そのリーダー的な存在である軍事課長永田鉄山大佐、補任課長岡村寧次大佐、陸大教官小畑敏四郎大佐たちは、まず何よりも満蒙問題を解決することが先決であり、この解決がうまくなされれば、国内改造は無理をせずともついてくる、軍部首班の内閣はできる、と判断していたのである。陸軍はそれほど「満蒙の危機」に直面して焦燥にかられていたのである。焦燥こそは戦争の原動力というが、彼らは戦争を決して厭おうとはしていなかった。

(中略)

 考えてみれば、昭和開幕していらい、陸軍の俊英たちは満蒙問題を語りつづけてきている。彼らがつねに口にするのは「十万の英霊、二十億の国帑」であり、「明治天皇のご遺業」についてである。日清・日露の国難といえる戦争に勝ちぬいて特殊権益としてわが手にした満蒙の地は、そのまま国防の第一線となり、失うことのできない日本の「生命線」となった。ここを守りぬくことが陸軍軍人の使命であり最大の任務なのである。

(管理人注)
 「国帑」という熟語に初めて出会った。手元にある漢和辞典を調べてみた。
【國帑】コウダウ・コクド
國の財寶を納めるくら。(帑は貨幣を蔵めるくら)
○国庫・府庫。転じて国家の財産。


 それなのにいま日本国内では、あいつぐ政党の汚職事件や共産党の活動が活発化。さらには、ロンドン軍縮条約の締結は、当然の流れとして陸軍軍縮をも予想させる。危機を前にしながら、腐敗した政党政治によって軍縮が強行されるようなことがあれば、国防をまっとうすることなど不可能である、と陸軍軍人はひとしく苛立ちを隠さず強く反発した。いまこそわれわれの手でこの危機的状況から国家を救いださなければならないと。

 とくに満州の曠野にあって、日本の政策を代行する形の関東軍司令部の参謀たちには、我慢がならなくなっていた。交渉相手の張学良が「外交は国家の外交であるから大問題は当然中央でやる。地方的な問題は自分がやる決心である」と、むつかしい問題はすべて南京の国民政府のほうへ回そうとし、その無責任さがいっそう参謀たちを激怒させた。そして、この憤慨のいきつくところとなれば、よし、それならば張学良にかえてより親日的な政権を樹立するか、さもなければ満州全土を軍事占領してしまうか、という二者いずれかの結論にみちびかれていった。そしてひそかにとるべき方針が検討されていく。さらには具体的な作戦計画の練り上げへと彼らをしきりに駆り立てていく。

 そして昭和陸軍特有の、動機を重んじ手段の性邪を問わない精神構造というものが、これに加勢する。動機さえ純粋であれば(それも往々にして主観的に)、手段と行動がかりに統帥を乱し、暴力をともなうものであったとしても正当化される、といった空気が陸車の中枢に瀰漫していたのである。関東軍参謀石原莞爾中佐の「満蒙問題私見」は、関東軍の作戦方針の基調となったもので、「解決ノ唯一方策ハ之ヲ我領土トナスニアリ」の文字が、あまりにもあっさりと書かれていることに、ただ驚嘆するばかりである。

 ともあれ、満州事変への道はここに大きく切り拓かれていった。

 このようにして決行された満州事変という愚行を、政府は国民には「中国軍によて引き起こされた」という虚偽ニュースで広めていった。その結果は……『残日録』の記事で締めくくろう。
(1)9月18日
満洲事変の教訓


「民衆の熱狂の声に消されて……」

 1931年9月18日夜、満洲事変がぼっ発した。戦前の軍事国家日本がスタートを切った日であり、大日本帝国がやがて世界中の国を相手に戦い滅びることを、最初に運命づけた日でもある。

 奉天郊外の柳条湖付近の鉄道爆破は、日本軍の謀略によるもの、という事実がいまは明らかになっている。主諜者が関東軍の本庄繁をはじめとする板垣征四郎、石原莞爾たちであることもハッキリしている。しかし当時は、中国軍によって爆破され、日本の鉄道守備隊も攻撃をうけ、やむなく開戦となった、という政府の発表を国民は信じた。新聞もラジオも、自衛のため立ち上がった、としきりに太鼓をたたいた。
「本来賑やかなもの好きの民衆は……満洲問題の成行きに熱狂した。すわこそ帝国主義的侵略戦争というような紋切型の非難や、インテリの冷静傍観などは、その民衆の熱狂の声に消されてその圧力を失った」
とは評論家杉山平助の報告である。

 この国民的熱狂がそれ以後の国の歩みを誤らせた。満洲事変から学ぶべき最大の教訓は、国民的熱狂の恐ろしさということなのである。

 21日に目を背けたくなるような愚劣なことが起こっている。国民的熱狂ではなく、愚民の最先端を行くネトウヨだけを集めて、その連中の熱狂に得意がって脂下がっている無知にして無恥な男が起こした事件だ。そのことを取り上げた「田中龍作ジャーナル」さんの記事を紹介しておこう。
『戒厳令下のアキバ 「安倍辞めろ」を完全封殺』

 このような愚劣なことを得意げに行なっている無知にして無恥な男がまた政権を担うという結果は愚民の最先端を行くネトウヨだけではできない。従順な国民という愚民のなんと多いことか。情けない、情けない。
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