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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(4)

1930年(1)~(4)

 日本では1929年10月から始まった世界的大恐慌の煽りを受けて、庶民の状況はどのようなことになっていたのだろうか。このことについては、『昭和史探索2』から転載する。
(1)
世界大不況下の日本


 1929年10月、アメリカのウォール街の株価暴落にはじまった世界大恐慌の嵐は、年が明けるとますます荒々しく激しく日本帝国を揺すぶっていた。生糸の最大輸出国アメリカの不況は、そのまま生糸の売れ行きに響いてくる。結果としての生糸の大暴落、つづいて米の価格が暴落する。とくに1929年は米どころ新潟が豊作で、さらに1930年の予想収穫高が「未曾有の豊作」とあって、暴落に歯止めがきかない惨憺たることになった。労働者の半数近くが繊維産業を中心とした女子労働者、そして農家の2、3男であるというそのころの国の経済基盤の根底がぐらつき、農産物全体の価格の下落は深刻の一途をたどっていく。

 いざとなれば農村にゆけば何とかなる、と夕力をくくっていた都会の失業者は、いっぺんにその行き場を失った。失業者すなわち「ルンペン」は都市にあふれかえった。全国の工業地帯ではストライキが続発する。東北の農村では娘の身売りという悲劇が当たり前になる。当然のことながら左翼運動はますます活発化する。

 ところが、政府はそれらにたいしては手のうちようもなく、まったくの無策といってよかった。

 朝日新聞の1930年9月3日の社会面の記事(当時は三面記事といった)は、見出しに「毎夜30人ずつ、寺の境内に野宿/遊行寺(藤沢)の麦飯一杯の振舞も、悲鳴をあげる繁盛」とつけて、その悲惨な光景をこう伝えている。
「職を失ってその日の糧にも窮し、都会の生活から完全に見放された哀れな失業者の群れが、郷里に帰るにも旅費がなく、とぼとぼと東海道を歩いて行く者が、今夏以来めっきりと殖えてきた。中には妻や子供を連れて乞食のごとく、道筋の人家で食を貰いながら、長い旅を続けている者もあり、沿道の程ケ谷、戸塚、藤沢等の警察署では、これらの保護に手を焼いている始末で、多い日には50人を超える位であるが、鎌倉郡川上村在郷軍人分会では、震災記念日の1日から1週間、同村旧東海道松並木付近に、お粥の接侍所を設けて、温かい食事を与えている」

 全国的にそんな様相であったがその反面で、首都の東京は奇妙なほど浮ついた気分で覆われていたのである。それも3月26日に催された帝都復興祭の煽りをうけてのものであったかもしれない。かの1923年の関東大震災から7年経って、東京の復興をお祝いする行事が大々的に行われたのである。底のほうは不況で冷えきっていたのに、いや、それゆえにかえって、といえるであろう。もう一度、朝日新聞の記事を引用する。3月27日のものである。それは社会面のほとんどを埋めて、賑やかに祝賀の様を伝えている。
「歓喜の乱舞の中に湧き立つ全帝都。昨日の人出、実に200万。素晴らしい復興の首途よ」
「銀座街を中心に殺人的な大群衆。電車、自動車、バスも動かばこその人の波」
「闇もこげよと打ちふる提灯の海。夜景を彩る花火に相和して、延々2万人の行列」

 明日のことを憂うるよりも、まずは今日の歓楽。この年の流行語が「エロ・グロ・ナンセンス」、そして「アチャラカ」、そして「銀ブラ」。大阪のカフェーが銀座に進出し濃厚サービスで、東京の和服に白エプロンを圧倒したのもこの年であった。

 この惨憺たる状況に対して「政府は……まったくの無策といってよかった。」と書かれているが、政府は唯一の政策を打ち出しているが、その結果が全くの逆効果となっているのだった。『残日録』から転載する。
(2)1月11日
金輸出解禁の決断
(1917年以来、禁止されていた金輸出を解禁し、金本位制に復帰した)

 「嵐に向かって窓を開ける」

 浜口雄幸内閣が、世界大恐慌からきた不況の打開策として、あえて金輸出解禁という強硬策の実施にふみきったのが、この年の1月11日のことである。ときの蔵相は井上準之助。

 円の切り上げなしに金解禁を実施すると、輸入はさらに増加、国際赤字は拡大し、金はたちまちに流出してしまうからと、反対の声は大きかった。反対派の旗頭の武藤山治はいった。
 「嵐に向かって窓を開けるようなものだ」

 しかし井上蔵相はあえて踏みきった。14年ぶりの解禁とあって、日本中がゴールド・ラッシュにわく。日銀につめかける人の波はひきもきらず、正午締め切りまでに2300人。中には、冥土のみやげに金貨を拝みたくて、という老婆もいる。1日で20万円の金貨が出た。

 しかし、結局は、おびただしい正貨の海外流出と、物価暴落で、不況は一層深刻化した。翌1931年12月13日、大養毅内閣の手で金輸出再禁止が実施され、この強硬策はわずか二年の寿命で終わる。

 ちなみに、井上準之助は1932年に血盟団員の小沼正(おぬましょう)に暗殺されている。

(3)10月29日
「中華民国」を正式呼称に

 「シナは正式な国名ではない」

 芥川龍之介は1921年3月から8月まで新聞から特派され中国を旅行した。それを綴った「文那游記」という紀行がある。すでにこのころ、中国においては、反日・排日・侮日の火勢が日一日と力をましている。歴史好きとしてはその意味からも面白い作品なのである。タイトルはもちろん、中身でも芥川は「支那」で押し通している。当然のことである。当時の日本人はだれもが、シナ、シナ人と呼び、シナそばといっていた。

 しかし、昭和に入って反省が生まれた。この年の10月29日、ときの浜口雄幸内閣は閣議で、この、「シナとは正式な国名ではなく、外交的にもはなはだ差し支える」、ゆえに「以後は正式に中華民国と呼ぶこと」を決定したのである。

 いま考えると、侮蔑をやめてこの決定を日本人がしっかりと受け止めてめていたら、日本陸軍の「シナー撃論」(一度ガツンとやればシナはヘナヘナとなる)が大手を振るうことはなかった。そして太平洋戦争への道を大日本帝国が闇雲(やみくも)に突き進むこともなかったであろうに。ちなみに、日本人がシナと呼びだしたのは1895(明治28)年の日清戦争に勝ったあとのことという。

(4)11月14日
浜口雄幸首相狙撃さる

 「男子の本懐である」

 昭和1930年11月14日の新聞の夕刊-、
「今朝、浜口総理大臣/東京駅頭で要撃さる/犯人は現場で直に捕縛」「『男子の本懐』と語る/応急手当をした平田医師談」……。

 ロンドン海軍軍縮条約の調印をめぐって、軍備をどうするかは帝国憲法にある統帥事項であり、政府が勝手にきめられないという、いわゆる統帥権干犯問題を、犯人は暗殺の理由にあげた。屈辱的な条約を締結したのは政府が統帥権を干犯したのだ、といい張るのに、取調官が「じゃあ、統帥権干犯とはどういうことか」とさらに踏みこんで問うと、犯人は答えた。
 「要は不敬罪であります」
 統帥権を侵害するものはつまり大元帥命令にそむくことになる、という勝手な解釈なのである。

 そしてこの事件が1932年の前蔵相の井上準之助射殺、三井合名理事長の団琢磨射殺、5・15事件と、政治的暗殺がつづく暗い世相への幕開けとなった。

 いまでも東京駅ホーム内で、浜口雄幸首相遭難の跡を目にすることができる。

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