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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(64)

思想や芸術は、国家や君主を言祝ぐのを本来拒むものだ

 上の今回の表題は辺見さんの本文の中に出てくる一文です。

 2003年10月23日に「でたらめ都知事」が学校の儀式での国歌・国旗の強制通達を出したが、これが私がブログを始めたきっかけだった。はじめの数ヶ月ほどはこの問題に関連した記事ばかりを書いていたと思う。その後も折に触れて国歌・国旗問題の記事をずいぶん書いてきた。ここでは、まだ読んでいない方に是非勧めたい記事を二つだけ紹介しておこう。
『「日の丸・君が代」強制賛成論批判』(ちょっと長いです)
『世界の国々での学校における国旗・国家の扱い』
 では「オペラ」を読んでみよう。

オペラ
深い思想や芸術というものは、人々をけっして直立不動や敬礼に導かないはずだと思うのです。それに、オペラと「君が代」の組み合わせはいかにも無粋です。
           (翻訳家Mの私へのEメールから)

 友人の翻訳家Mが女友だちとワシントン・オペラの「オテロ」を鑑賞しにNHKホールに行った。7月10日、水曜日、あの台風の夕に。オテロ役のプラシド・ドミンゴの「最上質の天鵞絨(ビロード)のような」テノールを聴くのを昨秋からずっと楽しみにしていたから、おりからの激しい雨も風も気にならなかった。それに、やっとのことで手に入れたS席六万五千円のチケットである、台風だろうが地震だろうがむだにするわけにはいかなかったという。ところが、六時半の開演直前、まったく予想もしないことが出来した。二階席から時ならぬざわめきと拍手が聞こえてきたのだ。はてなにかと見上げれば、首相コイズミ堂々の入場であった。ああ、興がそがれるじやないか、と内心舌打ちしたそのとき、指揮者のワレリー・ゲルギェフとオーケストラがMをさらに驚愕せしめる挙にでた。なんと、コイズミ入場に合わせるように「君が代」の演奏をはじめたのである。いうまでもなく、これは演目にはない。Mは大いに困惑したのだが、満員の客はそうせよというアナウンスもないのに一斉に起立し、声にだしてうたう者も少なからずいて、これまたMをたじろがせた。オーケストラは「君が代」終了後、米国国歌も演奏し、「オテロ」開演はそのあとになったのだそうだ。とんだ災難ではある。

 さて、Mとその女友だちの身体は、「君が代」プラス「ザ・スター・スパングルドー・バナー」(米国国歌)のダブルパンチにどう反応したのか。Eメールによると、「ずっと座っていました。いや、その長かったこと。隣を見ると、彼女も涼しげな顔で着席していました。そうするようにべつに二人で打ち合わせたわけではありませんが……」。眼をこらすと、右前方にもぼつんと一人だけ座ったままの男がいたけれども、ホールは見わたすかぎり直立者の群れであったから、着席したままのまつろわぬ者たちは、目立ちたくなくても目立ってしまう結果になったという。その風景に私は興味を抱いた。Mは起立しなかったわけについて冒頭のような文を書き送ってきたのだが、「無粋」だから立たなかったのだ、というごくあっさりしたものいいに私は感心した。オペラ鑑賞に行ったのに、なにゆえ予告もなく「君が代」を聴かされなければならないのか。まして、なぜに起立しなくてはならないのか。一万歩譲歩しても、コイズミに対するに「君が代」とはこれいかに、ではないか。そのように反発する少数者の気分と権利と身体動作もまた、嫌煙者の権利同様に護られなければならない――などと、私ならやや肩肘張っていいつのったかもしれない。

 だが、どう語りどう書こうが、この種のことは、いうは易く行うは難しなのである。同一方向を向いた数千人の直立者の樹林が現にここにある。樹林の多数の者たちが同じ歌をうたっている。その樹林に和するか和さないか。無心に起立し素直にうたうということのできない個体にとっては、まさに思案のしどころである。起立したところで、自分以外のだれも責めてくるわけではない。逆に、起立しなければ、周囲から譴責(けんせき)の視線を浴びる可能性がある。一方では、和して同ぜずといった、インチキ政治家ふうのいいわけだってないわけではない。つまり、しぶしぶ起立はするが、うたうまではしないといった中間的選択肢もありではないか。「君が代」に心の底から同調しているわけではないこの国の自称革新政治家や新聞記者や作家やテレビキャスターやオペラ評論家らの大方も、苦笑いするかしないかのごまかしの差こそあれ、起立くらいはしているのである。なに、ほんのちょっとの我慢じやないか。さあ、どうするか。

 私はやはり、Mたちの選択にくみする。すなわち、暗い樹林の底に身も心も沈めて、ああいやだ、ああいやだとあの憂鬱な歌の終わるのを首をすくめて待つほかないのである。かたくなにその姿勢をとるのは、だれのためでもない、自分のためだ。自分の内心の贅沢のためである。思想や芸術は、国家や君主を言祝ぐのを本来拒むものだ。Mのいうとおり、直立不動や敬礼を求めてくるとしたら、それは芸術でも思想でもありえない。あれは特別の歌だ。この国の歴史への反省というものをまったく欠いた歌である。あの歌の詞を私は好まない。あの歌が引きずっている途方もない暴力の歴史と、濡れた荒縄でじわじわ心を締めつけてくるような音律を私は好かない。まつろわぬ者への暴力をほのめかすような、あのドスのきいた音階が不気味だ。そのことを、おそらくゲルギェフは知らなかったにちがいない。ゲルギェフ・ファンの私としては、正直、少しばかり失望もしたのだけれど、彼にはなんの罪もないのである。あの歌をどう考え、どう対応するかは、もっぱらこちら側の問題なのだから。ゲルギェフの振るムソルグスキーやチャイコフスキーのすばらしさは、このたびの一件によっても減じられることはないだろう。ただ、私が聴きに行くコンサートでは、後生だから、あの歌だけはやめてほしいものだ。

 あの日、公務も台風被害もものかは、オペラ鑑賞を敢行した首相を当然ながら野党が批判した。それへのコメントを記者団に求められて、彼は「文化を理解しない人はそういうね」と一蹴したのだそうだ。差別的用語をこの際承知で用いるならば、この田舎センスまるだしのコイズミの得意満面ぶりを記者諸氏はもう少し深く解析してみたほうがいい。神風特攻隊や「海行かば」に涙し、靖国を愛し、かつジョージ・W・ブッシュの忠犬でもある御仁が、同時に、世人より文化を解するのだそうである。臍(へそ)で茶をわかすとはこのことだ。オペラに行くのは結構である。だが、人に迷惑をかけずに、もっと粋にひっそりとやれないものか。だれが演出したのか、「オテロ」開演前の「君が代」と「ザ・スター・スパングルド・バナー」ですっかり悦に入り、終幕後にはドミンゴらと握手して大はしゃぎ。このミーハー独裁者につける薬はどうやらなさそうである。

 心優しいわが友Mは、むろん、私のように口汚くコイズミをなじりはしない。六万五千円を返せともいいはしない。コイズミ登場に鼻じろみ、あの歌には座して耐えて、ずぶ濡れになって帰宅したのだそうだ。さんざんみたいなものだが、それでも行ってよかったという。ドミンゴの声にはやはり聴き惚れた、生きていてよかった、と興奮していうのであった。

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