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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(64)

横浜市議会での日の丸掲揚問題(2002年5月)

 辺見さんは『不服従』第1章②節で「わあがあよおは―」という表題で国歌「君が代」問題を取り上げている。私はこの論説を用いて《永遠の不服従のために(4)・(5)》で『「君が代」問題(1)』『「君が代」問題(2)』を書いている。

 ところで、『不服従』第6章の①「抵抗」と③「オペラ」はそれぞれ国旗問題と国歌問題を取り上げている。この2節を今回と次回に取り上げてカテゴリ『永遠の不服従のために』を終わることにする。


抵抗

さもなければ
この闇の誘惑から
逃れられるものとてなく 眼は
見出すだろう われわれが
われわれ以下になり下がったのは
ただわれわれのせいだと。何も言わい。こう言う――
われわれの生はまさしく
そこにかかるのだと。
  (ポール・オースター詩集『消失』の「信条」から 飯野友幸訳)

 たぶん高度の試薬だったのである、これは。民主主義の外皮をまとった抑圧的な政治と「民主主義的専制」の愚昧を検知するための。はたして、なにかが鮮やかに析出された。それは、民主主義は民主主義を破壊するというパラドクスであった。つまりこういえるだろう。形骸化した民主主義は本質的な民主主義を圧殺する、と。あるいはこうもいえよう。ファシズムはいま民主主義的にコーティングされつつある、と。

 横浜市議会の議会運営委員会が2002年5月末の議会から議場に日の丸を掲揚することを決めた。「市民の党」の議員だった井上さくらさんと与那原寛子さんはかねがね掲揚に反対していたが、少数会派ということで議運に出席できないため、本会議で議論するよう主張した。思想・良心の自由にかかわる重大な問題なのだから、少数会派もふくめたみんなで掲揚が妥当か十分に討議すべきではないかという理由からだった。ところが、意見は受け容れられず、同月29日、日の丸は掲揚された。彼女たちはこれに抗議、議長に発言を許可するよう求めたが無視されたため、掲揚をやめさせようと井上さんが日の丸のポールに手をかけた。それを咎めた議会事務局職員が井上さんにつかみかかり、議場外に強制排除。井上さんは手に負傷した。このことを理不尽とする二人は6月5日、約6時間にわたり議長席と議会事務局長席に座りこみ、再び職員らにより実力で排除された。市議会は同25日、自民、公明、民主各党などの賛成多数で、二人を懲罰のなかでももっとも重い議員除名処分とした。除名賛成の多数派によれば、彼女たちの行動は「議会制民主主義の否定」なのだそうである。

 時まさにW杯サッカーで国中がさんざめき、日の丸や「君が代」の風景が、第二次大戦以来もっとも事々しく、大々的に、またある意味ではかつてなく無邪気に演出されていたころだ。日の丸も「君が代」も、おのずと不可思議な"市民権"のようなものをえようとしていたともいえる。それだけに、白地に赤いあの旗の掲揚に異議を唱えるのには二人にとってそれなりの気合いが要っただろうし、逆に、彼女らの行動を誹(そし)る多数者側としては、時の勢いにでも乗ったつもりであっだろう。私個人はといえば、あの時期、数万の群衆が一斉に起立したり、声をそろえてひとつの歌をうたうというかおめくというか、おびただしい人間たちのそうした身体的同調が、おそらくその種のことをのべつやっていたかつての中国を知っているせいもあろう、正直、鬱陶しくてしかたがなかった。サッカーは嫌いじやないけれど、まつろわぬ者を許さない勢いの、あのさかりにさかった空気がなにより苫手である。だから、すこしもまつろわぬ女性二人の点景は、なんだか眼にとても心地よかった。

 井上さんたちの立ち居ふるまいをどう見るか、これはけっこう難易度の高いドリルである。期待される模範解答は、
「もとより二人の行為が穏当だとはいえない。だが、選挙で選ばれた議員の資格を失わせてしまうことの重さを、他の議員はどこまで真剣に考えたのだろうか」
「意見表明の場がなかったからといって、こうした行為が許されるはずはない。懲罰の対象にされるのもやむをえまい。しかし、いきなり除名とは何とも乱暴である」(朝日新聞社説)
あたりか。例によって、みずからは毫も傷つかない絶対安全圏からのご託宣である。けれども、極私的見解によるならば、これはかぎりなく屁に近い理屈である。だって、いつもながらひどく臭いもの。第一、社説は風景の中心を「処分問題」にすりかえてしまっている。処分が軽ければよろしい、とでもいうように。風景の中心には、しかし、あくまでもあの旗があるのだ。かりに100人のうち80人が日の丸掲揚に賛成したからといって、残り20人まで日の丸に恭順の意を表さなければならないいわれはない。100人のうち99人が「君が代」斉唱に賛成したからといって、反対する残り1人がともにうたうことを強いられるいわれもない。なぜか。旗の問題も歌のそれも、すぐれて大事な人間の内心の自由の領域に属するからである。それを侵すのは、一見民主的な手つづきをへたにせよ、暴力とすこしも変わらない。

 なにも議長席に座りこむことはないじやないか、6時間もがんばるとはやりすぎた、という議論は彼女たちを心情的に支持する側にもあるし、井上さん、与那原さんともに、それが最善の選択肢だったなどといってはいない。こうした身体的抵抗の程度の問題もまた、処分の軽重のみを論じるのと同様に、事態の本質を解析することにはつながらないだろう。どだい、ほどよい抵抗、歩どまりのいい表現など、どこの世界にもありはしないのだから。この国にはいま、多数意見による少数意見の切りすてが民主主義だとするまことに野蛮かつ原始的な思いこみが、国会から教育現場まで遍在している。こちらの倒錯のほうがよほど深刻である。今後、有事関連法案がまたぞろ態勢をよりいっそう整えて登場したらどうするのか。国会の手つづきをへて多数で可決されたのだから、みんなでこれを受容せよというのか。戦争構造を黙って支えろというのか。これに反対する政党が政権をとるまで100年ほど、ありとあらゆるでたらめを我慢しろというのか。戦争狂ブッシュが国会でさも偉そうに演説するのを、野次一つ飛ばさず、植民地国の怪しげな議員よろしく与野党ともに謹んで聴きたてまつる、ああしたやりかたが、議会制民主主義の「品位」というものなのか。女性二人の抵抗は、貴重な触媒となって、これら解答のけっして容易でない設問をも導きだしたと私は思う。

 米国は民主的な議会手つづきをへてブッシュに非道きわまる戦争発動権限をあたえた。全体主義的社会は福祉国家と戦争国家の特徴を生産的に統一する、とH・マルクーゼは指摘したことがある。ほぼ40年も前に。議会制民主主義と戦争国家の構築もまた、かならずしも矛盾しないのだ。今日ではとくにそうである。こうした時代にあっては、多数者を怖れて沈黙し服従することが、少数者としてどこまでも抵抗することより、何万倍ものひどい害悪を後代にもたらす。

 赤字部分はまさにアベコベ軽薄姑息うそつきカルト政権が作り出し続けている現在の「でたらめ状況」を予見した論調となっている。
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