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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(63)

有事法制(7)

 カテゴリ「有事法制」の最終記事として『不服従』の最終記事「仮構」を取り上げることにした。「仮構」はこれまで紹介してきた「有事法制」関連記事を集大成したものと考えられるが、さらに進んで「有事法制」関連法の中身を具体的に分析している。もちろん「有事法制」関連法の成立に加担しているようなマスゴミへの批判もさらに鋭くなっている。枕は次の通りである。
しかし、月と名づけられたきみを
あいかわらず月とよんでいるのは、もしかしたらぼくが
怠慢なのかもしれない。(フランツ・カフカ「ある戦いの記録」『カフカ全集2』から前田敬作訳)

 本文の冒頭に「クリシェ」という私の知らない言葉だでてくるが、どういう意味なのか。パソコンにインストールして利用している『英辞郎』は次のように説明している。
『cliche 【変化】《複》cliches、
【名】《フランス語》(陳腐な)決まり文句、月並みな考え、陳腐な表現』

 本文は次のように始まっている。

 例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた。引用したカフカの文は「ぼくがきみを〈奇妙な色をした、置き忘れられた提灯〉とよんだら、きみは、なぜしょんぼりしてしまうのだ」とつづく。そうだ、これが怠慢のわけである。失意や反感をおそれるあまり、すでにその名に値しなくなったものをその名で呼んでしまうことはしばしばある。そうするうちにも、仮構の風景は日々、無意識に、着実に、誠実に、勤勉に、鈍感に、露ほどの悪意もなくつくられている。その作業に言葉が動員される。言葉の芯に鬆(す)の立った言葉と、何日も野ざらしになった犬の糞みたいなクリシェが、大量に。それは風景の捏造(ねつぞう)というものだ、と何度声張りあげたことか。疲れる。まともにつきあっていると、こちらの言葉にも躰にも鬆が立ってくる。言葉が犬の糞になる。なじった相手から染るのだ。だから疲れる。黙すこと。黙しがたきを黙すこと。引きこもること。ほんとうはそれがいちばんだといつも腹の底では思っている。けれども、人間ができていないものだから、ついまた口にしてしまう。

 国会が有事法制関連三法案を継続審議とすることを与党の賛成多数で決めた。反対派の力で不成立となっだのではない。いわば「敵失」(与党にとってみればオウンゴール)でこうなっただけのことだ。早稲田大学で戦術核保有は違憲ではないというでたらめ発言をした安倍晋三官房副長官らは、なに羞じることなく、秋の臨時国会では有事法案をかならず成立させると力説している。その安倍がしきる内閣官房は、法成立後二年以内に整備するとして先延ばしした五つの追加法制案ごとに、関係省庁を横断した作業チームを設置するのだという。すなわち、

 国民の保護

 自衛隊の行動の円滑化

 米軍の行動の円滑化

 捕虜の取り扱い
⑤ 
武力紛争時における非人道的行為の処罰
――の五チームを編成、案文の検討などをはじめると新聞はごく地味に伝えているけれども、仮構の風景はこうして何気なくつくられていく。五チームの設置は「武力攻撃事態法案」第23条に基づくものだが、今後の追加法整備がどう推移し、この国にどれほど巨大な戦争法制システムができるかについては、専門記者だって正確なイメージをもっていないにちがいない。どだい、「国民の保護」だとか「国民保護法制」だとか、おぼっちゃま記者たちが官報よろしく役人からいわれたとおりに書いているようでは話にならない。有事の際の「警報発令」「避難指示、避難地確保」「被災者救助」「社会秩序の維持」……これが「国民保護法制」の中身なのだと、さも当然とばかりに若い記者たちは報じる。戦争も戦場も知らないのだ。いや、知ろうともしていない。言葉を巧みにすり替えた政府案が、そのじつ、灯火管制、夜間外出禁止令、立ち退き命令、疎開命令などの国民に対する命令・強制の法規であることに気づいていない。

 「社会秩序の維持」にしても、実際には、労働・社会運動の抑圧、思想・言論統制、スト禁止につながることに思い至らない。

 「国民保護法制」なるものの中核の一つには、民間防衛組織の確立があり、これが住民相互監視、告げ口、軍事教育、防衛訓練を導くことになることに思いをはせていない。

 要するに記者たちは、この面であきれるほど素人であり、ナイーブ(ばか)なのであり、不勉強であり、事態をなめてかかっているのである。なにが「国民保護」なものか。完全なる「国民強制法」ではないか。官製の言葉で風景を捏造するために記者になったわけではないだろう。この国で見る月はもはや月ではないかもしれないのだ。だとしたら、あの一見まるいものを以前と同じように「月」と呼ぶのは怠惰というものだ。以下の問題も、ただいわれたとおりに伝えるのなら、風景の仮構にすぎない。

 福田康夫官房長官が、衆院有事法制特別委員会の質疑で、有事における国民の私権制限についての政府見解を示し、
「国および国民の安全を保つという高度の公共の福祉のため、合理的な範囲と判断される限りにおいては、その制限は憲法第13条(個人の尊重)などに反するものではない」
と述べた。第19条(思想および良心の自由)と第20条(信教の自由)についても
「内心の自由という場面にとどまるかぎり絶対的な保障である」
という一方で、
「外部的な行為がなされた場合には、それらの行為もそれ自体としては自由であるものの、公共の福祉による制約を受けることはあり得る」
と語ったという。なにやら遵法(じゅんぽう)を衒(てら)っているようで、これほど憲法を虚仮にした話はない。小泉内閣においては、憲法に違反し戦争を構えるということが、「国および国民の安全を保つという高度の公共の福祉」だというのだから驚き、桃の木、山椒の木である。「それ自体としては自由であるものの、公共の福祉による制約を受ける」にいたっては、まるで判じ物であり、憲法だけではない、言語そのものの否定である。これを言葉として理解しろというのか。人を愚弄するのもたいがいにしたほうがいい。もっともらしい言葉の芯に、醜い鬆が立っている。新聞はその鬆入りの言葉にみずから同化し、それが広く伝播するにまかせているのだから罪深い。「外部的な行為」とは、どうやら、自衛隊法改正案第125条などが定める有事の際の物資の保管命令のことのようだ。思想、良心、信仰がどうあれ、拒否したら懲役刑だというのである。これは人の実存の根源にかかわるテーマにほかならない。

 有事法案とはすぐれて人の内面にかかわる問題である。いま構築されつつある巨大な有事法体系はこの国の骨格だけではなく人々の心性の質をもひどく変えてしまうことはまちがいない。奉仕活動促進や愛国教育を求める中教審の答申も有事法体系と無縁ではない。憲法9条だけではない、13条も19条も殺されようとしている。民主党は、自民党の思惑どおり、早晩有事関連法案修正協議に応じるだろう。日米新防衛協力指針(ガイドライン)、周辺事態法、テロ対策特措法成立の流れにマスメディアは無抵抗だった。それどころか、平和の風景を捏造してこれら戦争関連諸法案を過小評価してみせた。しかし、いまどんなに宣伝し操作しても、月は月ではない。なのに、まだあれを月だといいはる者が反対運動のなかにまでいる。これでは秋口以降、有事法案がとおりかねない。疲れる。沈黙したい。だが、やはり黙すことができない。月はほら、どう見ても月ではないのだから。まるい形をした狂気なのだから。

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