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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(62)

有事法制(6)

 前回、自由民主党の実態は「不自由民非党」だと書いたが,俵義文さんがサイト「ピースフィロソフィー」でその詳しい分析をしていた。紹介しておこう。
『第3次安倍晋三第3次改造内閣:相変わらずの極右内閣』

 さて、「でたらめ C」は「意識的にマスメディア化する権力と無意識的に権力化するマスメディアの融合一体化」がテーマだが、その論述は早稲田大学の「大隈塾」発足時(2002年4月15日)に来賓として招かれたポチ・コイズミに対応した田原総一朗と筑紫哲也に対する厳しい批判を軸に進められている。なお、その論述のキーワードとして「メディオロジー」という学術用語が使われている。私はこの学術用語にも初めて出会った。この学術用語については辺見さんの解説で充分だと思うが、より詳しく知りたい方のために私が読んだPDFファイルを紹介しておこう(どなたが書かれたのか、作者名が明記されていませんでした)
『メディオロジー概要』

 では、本文を読んでいこう。



 「メディオロジー」という聞き慣れない学域を拓いたのは、フランスの思想家・作家レジス・ドブレであった。じつにカラフルな生き方をする人で、かつては中南米でカストロやゲバラとともにゲリラ戦を戦った。かと思えば、ひとしきりミッテラン政権の中枢で働き、案の定というべきか、ミッテランとも結局、袂(たもと)をわかった。この過剰なる経験と才気の主は、しかし、権力内部での省察をとおし、「権力のマスメディア化」というきわめて重要な発見をしている。それに教えられたこともあって、「意識的にマスメディア化する権力と無意識的に権力化するマスメディアの融合一体化」が、いまの時代のファシズムを特徴づけている、と私は主張してきた。ファシズムとはきょうび、メディア・ファシズムでもある、と。要するに、権力とマスメディアはいま、戦前・戦中期とはことなる新しい位相のなかで、ハネムーン期というか、およそ慎みのない"交尾期”に入っている。メディアはときに権力との対立を装い、情報消費者の多くも、まるで猫の交尾の声を喧嘩と聞きちがえるように、手もなくだまされてしまっている。でも、仔細に見るならば、両者は、ほら、いつ果てるともしれないほど淫らにまぐわっているではないか。

 ドブレのいうメディオロジーは、単純なメディア論ではない。人間集団の象徴活動を、それを支える伝達・輸送・流通などの技術的角度からもとらえ直そうという知の新しい領域であり、かぎりなく多義的である。こうした観点からすれば、「大学」という名の象徴空間もまた、メディオロジーの好個の観察対象であるべきであろう。

 前置きがえらく長くなってしまったが、安倍晋三という人物が核兵器や憲法にかんしてでたらめな発言をくりかえした場となった早稲田大学の「大隈塾」なる装置についても、メディオロジー的方法によって考察されていいのではないかと私は考えた。まず、この「塾」がアカデミズムとはおよそ対蹠的なテレビ文化人を「塾頭」として立ち上げられ、テレビの討論番組と見まがうような演出で"講義"がなされていたことに注意しなくてはならない。そのこと自体、メディオロジー的にいえばなにも悪いことではない。2002年4月15日の塾発足にあたり、小泉首相が来賓として大隈講堂に招かれてあいさつし、田原総一朗塾頭や筑紫哲也さんが首相にいろいろ質問したこともまた、メディオロジー的考察からすれば、善悪判断の基準足りえない。「なぜ伝達するか」は人類学、「なにを伝達するか」は倫理学、「それをどう伝達するか」が「歴史学的メディオロジー」の問題だ、とドブレはいうのだから (『メディオロジー宣言』)

 メディアと権力にいかなる境界線もなくなりつつあるように、大学資本もまた早稲田にかぎらず、「学の独立」など今は昔、無意識にマスメディア化したがっているように見える。誠実で学識深く訥弁(とつべん)の学者よりも能弁なテレビタレント(ないし、タレント兼学者)を、よしや彼が香具師(やし)のような者であれ、ばか学生たちは喜ぶのである。ま、人間からなにを学ぶかという観点からするならば、これとてかならずしも排除すべきことがらではないけれども。資本としての大学当局も、少子化対策など難しい経営の先行きを考えれば、学生受けするけばけばしい目玉商品(授業、学内イベント)がほしいのである。大隈塾というものを、私はそうしたメディオロジー的視座でいったんは考えたのだった。つまり、今日的な大学経営がほぼ法則的におちいる滑稽な堕落であり、いかにもテレビ的な茶番でもある、と。

 だがここにきて理外の理みたいなものいいにわれながら飽きてきた。このたびの風景には、メディオロジーを超えて、やはり素朴に首をかしげざるをえないのである。取材記者や学生らのメモによると、4月15日、小泉首相をもちあげる田原氏の冒頭発言に対し、首相は「さすが田原塾頭の話は聞かせますね」「日本の政治家の質をサンプロ(辺見さんによる注:「サンデープロジェクト」のことか)が変えた」「田原さんの質問に答えられないと合格点じゃない」などと応じたのだという。田原氏はまた首相に対し、執政二年目を迎える「抱負と覚悟」について問うている。筑紫哲也さんもこれに関連し、一年間の仕事の「自己採点」を求めると同時に、「指導者にとっていちばん大切なものはなにか」と質問し、首相は「マックス・ウェーバーの言葉を借りれば、情熱、使命感、先見性、これだと思う」などと答えたのだという。

 読者は田原氏や筑紫さんのなにが問題なのだと反論するかもしれない。なにも問題ないではないか、と。そう、問題ないといえば問題ない。けれども、4月15日のやりとりの大要を読んでいて、私はなぜだか少しずつ顔が赤らむのを抑えることができなかった。メディオロジーの乾いた理屈を忘れて赤面したのである。怒りのためではない。なんだかわがことのように恥ずかしかったのである。二人の大先輩を前に、いまさらジャーナリズム論など語る気もない。ただ、この風景をこの時期、恥ずかしいと感じるか感じないか――それが、お二人と私を遠く遠く分かつ人間的な分水界なのだとは思う。

 察しのいい向きはもうお気づきかもしれない。4月15日とは、時あたかも4月16日すなわち有事法制関連三法案を閣議決定した夜の前日であり、小泉はいわずもがな法案推進の急先鋒である。歴史的メルクマールとなる日を翌日にひかえ、このブッシュの子分のような男に、抱負だの覚悟だの指導者にとって大切なことだの、あたかもデキレースみたいなことどもを、私ならとても訊けはしない。右とか左とかの話ではない。これはジャーナリズムの最低限の衿持(きょうじ)と、ごくごく初歩的な「恥」にかかわる問題ではないか。

 筑紫さんは安倍官房副長官の問題発言の後も、それが大きく報道されたことについて「授業内容をこういう形でリークされる、伝えられるというのは、私はなんというか、ルール違反だとは思うんですね」(6月5目、「NEWS23」)とコメントしている。そうであろうか。核兵器、憲法、先制攻撃……どれをとっても安倍発言は、聴いていて怒らないほうがむしろおかしい。学生運動の活動家だろうがノンポリ学生だろうが、これを聴いてなにも感じないようなら学生をやめたほうがいい。いわんやジャーナリストにおいてをや、である。安倍のでたらめ発言は当然、満天下に知らしめて正解だったのである。

 筑紫さんはいったいだれの側に立ってルール違反といっているのであろうか。ルール違反を批判するなら、安倍副長官らの超弩級の憲法違反についていいつのるべきではないのか。筑紫さんたちが小泉とともに大隈塾発足を言祝(ことほ)いだ翌日に閣議決定された有事法制関連三法案――これこそが、この国最大かつ最悪のルール違反ではないか。

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