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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(56)

チョムスキー(2)

 辺見さんは「チョムスキー2」ではチョムスキーの言葉と「マルスの歌」を巡って激しく動く心の葛藤を書き留めている。では「マルスの歌」とはどんな短編小説なのか。参考としてその冒頭部分を転載しておく(「わたし」はこの物語の語り手である)。

 歌が聞こえて来ると......だが、この感情をどうあらはしたらばよいのか。今、黄昏の室内でひとり椅子にかけてゐるわたしの耳もとに、狂躁の巷から窓硝子打って殺到して来る流行歌「マルス」のことをいってゐるのだ。

 神ねむりたる天が下
 知恵ことごとく黙したり
 いざ起て、マルス、勇ましく

 いぶり臭いその歌声の嵐はまっくろな煤となって家家の隅にまで吹きつけ、町中の樹木を涸らし洞らし、鶏犬をも窒息させ、時代の傷口がそこにぱっくり割れはじけてゐた......




 旅の途次でその旅の直接の目的にかかわる本を読むということはまずない。昨冬アフガニスタンに行ったときには岩波文庫の『アンティゴネー』を読み返したし、このたびチョムスキー氏に会いに行った際には、なにか企てたというのでなく、漫然と石川淳の作品集を携え、インタビューの前夜、ボストンのホテルで眠れぬままに「マルスの歌」を再読した。三十数年ぶりではなかったか。若いころにはそうでもなかったのに、いまという季節のせいなのだろうか、それとも私が変わったか、夜更けてなお収拾がつかぬほどつよく感応してしまった。

 「マルスの歌」は、国家総動員法が公布された1938(昭和13)年に『文學界』に発表されたが、反国家的だとして同誌が発禁処分、石川は罰金処分を受けている。同じ年に小林秀雄が東京朝日新聞に「支那より還りて」と題し、文学者を戦争報道に総動員せよだの思想統制に賛成するだのという益体もない文章を寄稿していたことを思えば、「マルスの歌」はほとんど無謀とでもいうべき反戦的隠喩に満ちている。この年にはまた、菊池寛らが内閣情報部や軍部と結託し、「ペン部隊」、すなわち作家たちによる戦争宣伝隊を組織して中国の戦地に派遣している。こうした背景を併せ考えるならば、「マルスの歌」は砂漠のなかの小さなカレーズのように素晴らしく知的だ。「神ねむりたる天が下/智慧ことごとく黙したり/いざ起て、マルス、勇ましく」とは、1930年代や40年代だけではない、日本のいまそのものでもある……と、これは常ならない夜半の感傷も手伝って、私の思いこみもいちだんと深くなったのであった。

(注記)
 「カレーズ」という言葉に初めて出会った。「アラビア語では「カナート」と言う。「カナート」を表題にしている百科事典マイペディアの解説を転載しておく。 「乾燥地帯で地下水を地表に導いて灌漑(かんがい)や用水に利用するための地下水道。中国新疆(しんきょう)では坎児井(かんじせい),アフガニスタンなどではカレーズ,北アフリカではフォガラという。」


 翌日、読後の気分も片づかないまま、マサチューセッツエ科大学のチョムスキー氏の研究室に向かった。「この幻燈では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場面をゆがめてしまう」。ファシズムの不思議な波動をとらえた、この見事な日本語のスケッチを舌がまだしつこく舐(ねぶ)っていた。ところが、74歳になる眼前の言語学者は、そのような表現におよそ関心を示しはしなかったのである。そのような表現とは、つまり、いわくいいがたい薄墨色の、間色系の、輪郭のゆるく潤(うる)けた心象のことだ。こちらが筆で柔らかくなぞるように話そうとすると、チョムスキー氏は焦(じ)れるのか、ペティナイフで肉にどんどん切りを入れていくように話を進めていく。「いったい、日本の知識人のどれだけが天皇裕仁を告発したというのですか」「(戦後日本は)だれもが知るところの真の戦争犯罪人である天皇の下、以前のファシズム体制を復活させて国家を再建しようとしていた。それも米国の覇権の枠組みのなかで」。容赦がないといえばない、それが正解といえばそうでもあるのだけれども、陰影も澱みもなく、単色の語句だけで論をひろげていく方法に、私はなにかが欠けているように思えてしかたがなかった。

 30分ほどで私は心づいた。ああ、この人は内面を(他のインタビューでもあらかたそうだが、私に対しても)語らないつもりなのだな。無意識にそうしているのではなく、意識的に、あるいは方法的にそうしているのだな、と。それがなぜかはわからない。わからないけれど、しかし、思い知らされることがいくつかあった。内面を投影しない話を、それがどんなに驚くべき事実を語っているものでも、聞く私はつまらないと感じていること。もうひとつ。内面を投影しない話というのは、個の内面を綿々と引きずり重ねた話を、往々、委細構わず力でなき倒してしまうということ。私としては、たとえば、「マルスの歌」を1938年にあっては数少ない表現の宝のように思っている。しかしながら、チョムスキー氏の論法と論理の力学からいえば、実際彼に問うたわけではないけれど、「マルスの歌」の良心や葛藤やそれらから眺められた当時のファシズムの朧(おぼろ)な風景など、ほとんどなにも意味しないことになるのであろう。そのことを私は口惜しくも思い、つまらなくも感じた。それと同時に、日本の反戦の歴史なんて、どうせその程度の、あるかなきかのかよわいものでしかなかったとも思いあたるのである。

 「マルスの歌」をチョムスキー氏と話したわけではない。だが会見の間中ずっと私の体内には「マルスの歌」があった。「マルスの歌」程度のかよわい反戦があった。「『マルスの歌』の季節に置かれては、ひとびとの影はその在るべき位置からずれてうごくのであろうか」のくだりが頭と胸のあたりを行きつ戻りつしていた。眼のすぐ先にデニムのパンツをはいたチョムスキー氏の細い脚があった。組んだ脚の先で、白いビニールの安っぽいスニーカーが、ときおりせわしなく揺れた。それを見ながら、「マルスの歌」っていいな、好きだな、と私は思った。だが、スニーカーの爪先で「マルスの歌」が軽く蹴飛ばされているような気もした。「マルスの歌」つて、あの時期、あの国では相当に重かったのかもしれないが、いま、ここでは紙みたいに軽いなと感じた。

 チョムスキー氏と会って教えられた事実は多数ある。ベトナム反戦やJ・F・ケネディ、さらには米国のメディア、知識人に関する日本側の過大な評価、幻想、郷愁。それらは今後も吟味し多少修正せざるをえないだろう。だが、私がいまでもひとつの当惑の感覚として記憶しているのは、チョムスキー氏が暴いた具体的諸事実などではなく、にべもなければ愛想もない彼のものいいで、ゆくりなくも反照され気づかされた、存外に単純ななにかだ。それは、当方がくどくどしく語り悩むほどには物理的に闘ってはいないこと。少しく闘ったにせよ、まだなにも深手を負うていないこと。肝心の自国権力とはろくな闘争もせず、その自堕落を反米論調でまぎらかし、自他ともに欺いていることである。反照されてはじめて周章狼狽したことはさらにある。ジャーナリスティクであることの恥ずかしさとでもいえばいいのであろうか、そんな種類の狼狽である。そうと露骨に指摘されたからでなく、対面すると、こちらのジャーナリスティクな商売根性が照らし晒されて、いたたまれなくなってしまうという人物はまれにいる。チョムスキー氏とは水と油だろうが、かつて串田孫一さんが私にとってそうであった。

 チョムスキー氏は串田さんのように恬淡としてはいなかった。瞋恚(しんい)の暗い炎のようなものがときに眼の奥に見えた気がする。やっかいな人だなと私は思った。好きにはなれないかもしれないと感じつつ、「マルスの歌」ほどの良心でお茶をにごすか、いや、それを強引に突破するのか、ここがたぶん思案のしどころだと私は心中つぶやいていた。

 最後に法政大学の「日本文學誌要第75号」に掲載されている『「マルスの歌」論』を紹介しておこう(上の「マルスの歌」冒頭の文はそこから転載しました)
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