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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(50)

糞バエ(1)

 私が書いてきた記事を検索したら、私が辺見さんの造語「糞バエ」を初めて用いたのは10年前で、『今日の話題:日韓海底トンネル』でだった。

 「糞バエ」は権力に媚び諂ったジャーナリストへの痛烈な批判語である。日本ではこの糞バエ達の保護と増殖に一役買っているのが「日本記者グラブ」である。その実態と仕組みを分かり易く詳細に論じている記事を一つ紹介しておこう。高橋是清会さんが「阿修羅」に投稿された次の記事である。
『記者クラブ制度は「マスコミ」と「官僚」の癒着の温床』

 ところで参考までに、日本のジャーナリストが糞バエとなっていく歴史的経緯には国家権力による長きにわたる狡猾な脅しと懐柔の取り込み作戦があった。このことは<『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(65):終末論の時代(1):ジャーナリズムの死(1)』~『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(76):終末論の時代(12):ジャーナリズムの死(12):戦後の言論弾圧(6)』>で取り上げている。

 さて、『永遠の不服従のために』に戻り、その第6章を読むことにする。第6章は次の5節が収められている。
① 糞バエ
② チョムスキー
③ 有事法制
④ クーデター
⑤ Kよ

 辺見さんは『年若い死刑囚A君(4)』でサッチー保釈どきに東京拘置所に群がった記者達を「糞バエ」と呼んだ。これに対して「人格まで貶める暴言」という批難を受けた。これに対して辺見さんが再びマスゴミのていたらくぶりを再論した。それが「① 糞バエ」であり、次の文章が枕が置かれている。
ファシズムには、いかなる精髄もなく、単独の本質さえありません。
ファシズムは〈ファジー〉な全体主義だったのです。ファシズムは
一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、
矛盾の集合体でした。(ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』から 和田忠彦訳)

 本文を読んでみよう。

 前回、記者のことを「糞バエ」と書いたら、現役の古参記者から、「人格まで貶(おとし)める暴言」ではないかとねじこまれた。私としては「いや、猩々(しょうじょう)バエでもツェツェバエでもなく、糞バエはやはり糞バエだよ」と答えるほかなかった。絞首刑が執行された2001年末のあの日、同じ東京拘置所に蝟集(いしゅう)して、死刑などどこ吹く風とばかりに、保釈されたサッチーにたかりついた連中が、糞バエでないとしたら、いったい、なんだというのであろうか。ただし、糞バエには大別して二種類ある。すなわち、身すぎ世すぎでゴミネタに群がる、いかにも糞バエ然とした糞バエと、はたからはそうは見えず、本人もそうとは自覚していない、いわば上品な糞バエである。メディア・ヒエラルキーからいうと、前者は低位、後者は高位に属するとされ、その幻想もあって、上品な糞バエは糞バエ然とした糞バエをしばしば軽蔑しがちだが、なに、同じ糞バエであることに変わりないどころか、傲然としている分だけ、糞バエ然とした糞バエよりもよっぽど質(たち)がわるく、また危害の程度も大きいということを付言しなければならない。いいかえれば、労働条件の劣悪なフリーランスや契約記者がもっぱらたずき(ヽヽヽ)のためにサッチーのたぐいを追いかけてぶんぶん飛びまわるのにはいささかの哀愁も漂わぬではないが、賢しげにジャーナリズム論などをうんぬんする一方で、そのじつ、のべつことの軽重をとりちがえ、権力を下支えしている大新聞の政治部、社会部記者のほうが、言葉のもっとも正しい意味において、糞バエの名に値するということだ。そのことを紙幅の関係で前回は書けなかった。

 代議士の公設秘書給与の流用疑惑って、いったいなんなのだろうか。マスメディアはどうしてあんなにいきりたっているのだろうか。現下の内外情勢にあって、あれほど大がかりな特別企画や特別番組を組んで対処すべきほどの歴史的大事件なのであろうか。これ、よく見ていると、どこか不審船騒ぎというやつに似ていないか。つまり、政府権力にとってじつに都合のいいタイミングで、事件”が出来(しゅったい)し、マスコミがわいわい騒ぐなかで、人々が本来全力で指弾すべきことがらに煙幕が張られ、いつの間にか権力が専横をきわめていくという、危険な時代にはいくどとなく行使された手法であり、なりゆきなのではあるまいか。1931年の柳条湖事件はこの国を中国との15年戦争に誘導していった。後の歴史は、事件が関東束車の謀略であり、民衆の意思に逆らい、戦争へと導いていったのは、あたかもひとり軍部であったかのように教えている。だが、軍部のお先棒をかついで戦争を大いに煽りたてたのはマスコミなのであり、盛んに踊りを踊ったのは民衆なのであった。こうした動きに異を唱える者らには隠然たる国家テロがなされたが、これに対してもメディアはたんに無力だっただけでなくおおむね無批判でもあったのであり、権力によって次から次へと屠(ほふ)られる異議申し立て者について、民衆は一般に無知か無関心か冷淡であった。かくして、この国は権力・マスコミ・民衆が自然に三位一体となった、ナチスドイツもうらやむほどの協調的全体主義を形成していったのであった。じつのところ、この国では全体主義の実現のために強権の発動は必要なかったのである。なんとならば、戦前も戦中も、メディアにはおびただしい糞バエたちが棲息し、もっともらしい顔をして、権力と民衆のよき仲介役をこれ努めていたからだ。

 それといまがまったく同じだなどといいたいのではない。タレント気取りでテレビ・メディアとじゃれあったり、ネオリベラル派といちゃついてみたり、実際の話、一部自民党議員からなぜか一目置かれてもいたツジモトという前国会議員が、不抜の異議申し立て者だなんてさらさら思わない。ツジモトを内心疎(うと)みつつ、ツジモトのお力にすがり、かつ一部党員が彼女にとって不利なネタを内部から流しもしたといわれる社民党が、あの安保容認のムラヤマの例を見るまでもなく、権力と戦闘的にわたりあってでも平和憲法を守り抜こうという底力を備えた政党とも、正直、思えない。だがしかし、こうした不信とはまったく別に、このたびのツジモト追放劇および党首ドイヘの攻撃、さらには共産党への非難の本質的背景が、ただに秘書給与の流用やその指南にかかわることだけにあるかのように伝えている報道は根本的なまちがいであるといわざるをえない。政府自民党にとってはまことに時宜にかなったこれは、実相としてはある種の国家テロではないのか。メディアの糞バエたちを最大限に動員した、戦後ではまれにみる政治的テロ行為ではないのか。報道はそれを見とおす視力を欠き、明らかに事態の肯綮(こうけい)をはずして、もちだそうとするならいつでもそうできるであろう秘書給与流用疑惑ごときをことさらに騒ぎたて、問題の軽重をひっくり返すことにより権力に協調している。糞バエの末裔はやっぱり糞バエであるということだ。朝日も毎日も読売も、まさに見渡すかぎり大小の糞バエだらけである。

 それみたことか、見事に機先を制せられて、肝心要の有事法制論議がすっかり霞んでしまったではないか。秘書給与流用疑惑という入り組んだ罠の肯綮は、こちらにこそあったのだ。個人情報保護法に反対する動きの足を引っぱっているのも、主として大新聞の傲岸な糞バエたちである。私の糞バエ発言を暴言というのなら、権力の意を体してゴミネタにたかりつくのでなく、有事法制をなんとしても通そうとする者たちにこそぶんぶんと群がって、欺罔(ぎもう)のひとつでもいい、奇怪な意図のほんのひとかけらでもいい、死ぬ気で暴いてみてはどうか。もっとも、その呆けた頭と視力では、風景の多様なコラージュからファシズムの輪郭を見抜くなど、とてもではないが、できない相談であろう。エーコのいうファジーな全体主義の借景には、常に「私」のいないマスメディアがたんに権力的な集団としてひかえている。だから、この国のファシストにはファシズムを誇示する集会も行進も必要でない。マスコミが毎日、その紙面、その番組でやってくれているのだから。しかも、ときおり大いに民主的で平和的な顔をしてみせながら。

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