2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(36)

国家テロリズム(13)

 「戦争ⅵ節」は谷川俊太郎の『詩ってなんだろう』の中の短歌を論じた一文の批判から始まり、教育現場における「君が代・日の丸の強制」という戦争構造完成の一翼を担う大問題を取り上げ、続いて最後に「悪徳政治家ムネオ」事件をめぐるマスゴミの体たらくぶりを批判している。辺見さんはそこに「裏返ったファシズム」を読み取っている。

 繰り返しになるが、私のブログは石原沈タロウ仕掛けてきた「君が代・日の丸の強制」をきっかけに書き始めた。その書き始めの記事を紹介しておこう。
『イシハラの教育支配の実態』

 では辺見さんの論説を読んでみよう。

 谷川俊太郎の文章に「たんか」という不思議なひとくさりがある。『詩ってなんだろう』という本のなかに、短歌の解説の体裁でさりげなく収められている。はじめて眼にしたとき、半透明の灰汁(あく)のようなものを感じ、考えこんだ。なんだか油断がならないのである。一部を紹介すれば、ざっとこんな調子である。
 あきののに さきたるはなを ゆびおりて
  かきかぞうれば ななくさのはな  山上憶良

 わがきみは ちよにやちよに さざれいしの
  いわおとなりて こけのむすまで

 かすみたつ ながきはるひを こどもらと
  てまりつきつつ このひくらしつ  良寬

 たんかは、はいくよりながい。五、七、五、七、七のおとのくみあわせ。  こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい。  たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち。(後略)

 「君が代」にひっかけて第二首についていいつのりたいから引用したのではない。「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」というのが気持ち悪いので、引いてみたのである。思いすごしであろうか、私にはこれが脅しのように聞こえてくる。結構ドスのきいた脅しに。実際、山上憶良と良寛の間に、「君が代」の原歌といわれる『古今和歌集』の「賀歌(がのうた)」にある歌をそっと配列したのが、詩人のいかなる作意からきたのかはわからない。ただ、なにかがこれにより効果的に整合することになったのは事実である。そのなにかは、見端(みば)の穏やかな言葉の水面にはあらわれていないけれども、よくよくのぞきこむと、水底のあたりで、おびただしい糸蚯蚓(いとみみず)のように、うごうごとしているのである。あるいは、気づくのが容易ではない灰汁、渋み、えぐみのようなものが水全体に漂っている。それに私は怖気(おじけ)だつ。「わがきみは」が「きみがよは」に変わったところで大差はない。したがって、「君が代」だって「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」とあいなるわけであり、この押しつけがましい情緒を、「たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち」と断じて補強し、文句はいわせないぞという語調になるからしまつがよくない。どだい、短歌を「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」というのが私にはわからない。次の二首(宮柊二『小紺珠』から)はどうだろうか。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ
  雪中にひたひ射抜かれて死ににたる彼

 応答に抑揚ひくき日本語よ
  東洋の暗さを歩み来しこゑ

 これらも「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちいい」だろうか。第一首はおそらく日中戦争の想い出、第二首は極東国際軍事裁判における被告人が英語による詰問に重く答えるようすであろう。これらとて「にほんにむかしからある、詩のかたち」だが、試みにやってみるといい。とてもではないが音吐朗々(おんとろうろう)と読めるものではない。私としては、詩の朗読だの詩の絶叫だの、詩のボクシングだのよりは、べつに思想ということでなく、趣味として
「百の手に觸れんよりは、十の眼に觸れん。十の口に上らんよりは、あはれ一の胸に上らん。朗讀せられんよりは、黙讀せられん」(斎藤緑雨『半文銭』)
のほうにくみする。この世には、喉の浅いところからの発声を拒む、なににせよたやすくはまつろわぬ言葉だって多数伏在しているのである。朗読や唱和による詩の「運動化」を私は怪しむ。詩人らは、かつてこの国に「国民士気の昂揚」という国策に沿った「詩歌朗読運動」というものがあったことを忘れてはならない。発声したい者はひとりでそうすればいいのであり、黙したい者に発声を強いてはならない。教育委員会のように強圧的に命じてはならないし、『詩ってなんだろう』の著者のように猫なで声で強いてもいけない。沈黙も発声と同等の大事な表現なのだから。
 ちょっと横道へ。私は宮柊二に『小紺珠』という歌集があることを知らなかった。だいたいこの歌集の表題はなんと読むのだろうか。気になるので、手元にある漢和辞典で調べてみた。
 「紺珠」の読みは「かんじゅ、こんじゅ」であり、その意味は
「手でなでれば記憶を呼び起こすという不思議の宝珠。唐の張説(ちょうえつ)が人から贈られたもの」
と説明されている。この故事の出典は「開元天宝遺事」となっている。

 辺見さんの論考に戻ろう。

 無口でとても気の弱い友人の中学教諭が、卒業・入学式を前に、独り衝動的に学校長に会いにいき、緊張でぶるぶる震えながら"君が代"は歌う自由も歌わない自由もあると生徒たちにいってやってください」と申し入れたのだそうだ。校長は満面笑みをたたえ、しかし、瞳は少しも笑わずに応じたという。
「みんなで歌うという気持ちが大切です。みんなで歌う感動を生徒たちに教えてやってください。批判は学校の外でやってください」。
 友人の気合い負けだったようだが、私は彼の勇気を尊いと思う。この種の発声は群れてやるより、つまり唱和するより、へどもどしながらもひとりですることで、発声主体としてはなにがしか得心するものがあるものなのではなかろうか。惨めでひどくつらくはあるけれども。

 学校では教員が校長の意向に沿うているかどうかを待遇に反映させる人事考課制度が導入されようとしており、「思想および良心の自由」も「表現の自由」もほぼ根こそぎ奪われつつある。見た眼は谷川俊太郎の詩のように優しく、何気ないのだけれど、この国のどの領域よりも早く不可視の戦争構造を完成しつつあるのが、教育現場といえるかもしれない。楯突く教員らは次から次へと処分されており、組合は日に日に反発力を失っている。そこでは「いみはよくわからなくても、きもちがいい」ことと「みんなで歌う感動」が、澄明で無臭のゼリーのように、先生たちの心と毛穴を塞いでいる。ウンペルト・エーコのいう永遠のファシズムはここにもある。

 校外ではいま、悪徳政治家ムネオ叩きが頂点に達しつつあり、まことに同慶の至りではある。戦争狂ブッシュの国会演説では野次一つ飛ばさず静聴した野党がこの時とばかりに勢いづいて、まるで鬼の首でもとったかのようにテレビその他で大はしゃぎ。マスコミはマスコミでなにを書いても大丈夫とわかるや、ムネオにさんざ呑まされ食わされした記者たちをふくめ一斉に薄汚れた手のひら返して、まあ、これでもかこれでもかと叩くこと叩くこと。しかし、何年も前からわかりきっていたことを、かつては書かず、いまになってみんなで一斉に報じる謎と恥については触れずじまいなのだ。「みんなで叩く感動」と「いみはよくわからなくても、きもちがいい」ことがここに横溢している。よく見ると、ファシズムが裏返っている。

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この記事へのコメント
お礼
拙ブログにお立ち寄り頂き、ありがとうございます。
私も都高教組合員として、長年、日の丸・君が代の強制に反対してきました。
2017/07/12(水) 03:54 | URL | 福田元昭 #-[ 編集]
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