2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(30)

国家テロリズム(7)

 『不服従』の第3章の読み込みは前回で終わった。第5章の表題は「戦争」であり、小文字のローマ数字が付された8節で成り立っている。辺見さんはアフガニスタンに行っている。そこで体験したことを盛り込んが記述もあり、全体として第3章を補完するような論考となっている。「国家テロリズム」の続きとして第5章をむことにする。枕は

過ぎてゆく日ごとに、悪の前進が見てとれる。(ル・クレジオ『戦争』から 豊崎光一訳)

である。

 私はル・クレジオという作家を知らなかった。2008年にノーベル文学賞を受賞しているフランスの小説家だった。

 さて、「国家テロリズム5」の引用文の最後で、辺見さんは
「問題は、むろん、NHKだけではない。この国の全域を、反動の悪気流が覆っている。日常のなにげない風景の襞(ひだ)に、戦争の諸相が潜んでいる。人々のさりげないものいいに、戦争の文脈が隠れている。さしあたり、それらを探し、それらを撃つことだ。でないと、気づかずに加担させられ、悪しき波動に無意識に呑まれてしまう。もう手遅れの感もあるけれど。」
と書いていた。この全世界を覆い始めた悪気流の正体をさらに詳しく分析することから第5章を始めている。では本文を読んでいこう。

 まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。まず善なるものの座に悪が居座り、次に悪がいけしゃあしゃあと善面(ぜんづら)をし、さらには善面の悪が本来善なるものを悪だといいつのり、この勢いに負けて、善でありえたものがどこまでも退化し、いまや、それは蕩(とろ)けくずれた寒天のような無意味のみを残してほぼ消滅するにいたったのだ。善なるものがなくなったからには、悪はもはや悪たりえない。単体としての悪は、単体としての善が存在不可能なように、それ自体の意味をなくし、同時に、それ自身の闇を失う。善なるものの反照のない悪は、闇でさえないし、むろん、光でもない。世界は善でもなければ悪でもない、やけに白々した無明長夜(むみょうじょうや)を迎えている。もう何人(なんぴと)も悪を証明できはしない。できるのは、悪の反転としての"望"をひたすら主張することのみである。悪の、これこそが完成直前の姿なのではなかろうか。悪の、それこそが計画的変態過程なのではないか。いま、2002年2月、戦争は、ともあれかくもあれ、つとにはじまっている。

 私は「無明長夜」という四字熟語に初めて出会った。手元の『四時熟語の読本』(小学館)の解説を転載しよう。
<意味>
仏教で、衆生が根本的な無知のために煩悩に迷い、生死流転していることを長い夜にたとえた語。

<参考>
「無明」とは存在の根底にある根本的な無知をいい、迷いの中にあって悟りを得ない状態、煩悩にとらわれている状態をさす。

<出典>
1.
三帖和讃ー正像末
「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな」(13世紀中)
2.
太平記ー一五・三井寺合戦「無明長夜の夢を驚かして、慈尊出世の暁を待」(14世紀後)

 次々に「?」が出てくる。<出典>1.の中の「灯炬」。意味はそれぞれの漢字の意味から推定できるが、読みは「てんきょ」か「てんこ」のどっちかだが、手元の国語辞書・漢和辞典を調べたがどれにもこの熟語はない。現在では使われないに言葉なのだろう。ネット検索してみたら、上の<出典>1.と同じ文章が出てきた。読みは「とうこ」で、意味は「大いなる光明」と解説されていた。

 今回の辺見さんの文章には私にとっては難しい言葉が多く使われている。分からないのは私だけかもしれないが、今後は短く解説できる場合はその言葉の後ろに小文字で追記することにしよう。

 本文の続きを読もう。

 これから、そこここにある戦争について語ろうと思う。まず、私は戦争の概念をかぎりなく広げなければならない。なんとならば、
「政治が生活の集約であり、戦争が政治の集約であるかぎり、戦争にはまた生活にあるすべてのものがある」(埴谷雄高『幻視のなかの政治』)
からだ。このアフォリズムは、「生活には戦争にあるすべてのものがある」とも読みかえができる仕掛けになっていることに注意すべきである。死屍累々(ししるいるい)たる戦場だけではない、欠伸(あくび)がでるほど退屈な生活のなかにも、じつは、戦争がある。職場の男子トイレの床の、胃腸薬くさい小便染みのあたりに、戦争は知らん顔して浮遊している。月夜の乾ドック(カンドック(dry dock)通常は単に「ドック」と呼ばれているものと同じ。つまり、船舶の製造、修理などに際して用いられる設備のこと)の気だるい油のにおいにくるまれて戦争が気障(きざ)に鼻歌をうたっている。満員の通勤電車の熱気に戦争がじとじとと汗ばんでいる。職場のくずかごの芥のかげに戦争はかさこそと忍び隠れている。腐った牡蠣(かき)のような眼をした男たちが、会議の途中でもらす含み笑いを戦争が喜んで聞いている。私の不眠症とそれにともなう譫妄(せんもう)、また、ひどい譫妄にともなう人間関係の失調を戦争がそしり笑っている。そうした勘でも懸命にはたらかせないかぎり、戦争の潜む日常の、悪でも善でもない、だからこそ根源的に悪であるところの貌を発見することなど金輪際できはしないであろう。私は、それゆえ、変哲もない生活のなかに戦争のもつすべてのものがあるという前提で、この原稿を書いていくつもりだ。

 本稿では、さらに、「戦争は頭の裏側にいる、今日、戦争は頭の裏側に口を開き、囁きかける」とル・クレジオが記した(1970年)ような心象風景としての戦争も視野にふくまなければならない。「戦争が始まった」と書き起こし、「戦争は途に就いており、1万年も、人間たちの歴史より長く続こうとしている」と述べて、世界を、いわば全面的"戦争体"として、あくまでも詩的に開示してみせたル・クレジオの、いまから30年以上も前の直観は、かえりみれば、ずいぶん正しかったのだ。人の内面にだって戦争がある。無意識の戦争願望だってあるかもしれない。われわれの内面の戦争は、内面の国家、内面の暴力同様に意識されなくてはならない。それらのことどもに心を用いて、稿を進めようと思う。

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