2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(29)

国家テロリズム(6)

今回が第3章の最終節である。表題は「堕落」で、前節までに探ってきた「反動の悪気流」に無意識に加担している"元凶"たちのワースト3の吟味が行なわれている。そして、枕には次のような面白い歌の一節が引用されている。
とうとうたらり/とうたらり/あんまりがっつく/にんげんは/とうとうたらり/とうたらり/あたまーわって/塩つけて/えーじゃー川へ/ぶちながせ/とうとうたらり/とうたらり……(長谷川四郎『とうとうたらりの歌』から)

長谷川四郎(1909-1987)さんの『とうとうたらりの歌』を全文読みたいと思い、ネット検索してみたら、陽羅義光という方の論文『絶対文感【忘却篇】 「第一章 長谷川四郎」』に全文が紹介されていた。転載しておこう。

とうとうたらり
とうたらり
あんまりがっつく
にんげんは
とうとうたらり
とうたらり
あたまーわって
塩つけて
えーじゃー川へ
ぶちながせ
とうとうたらり
とうたらり
えーやるまいぞ
やるまいぞ 西の海へサラリ
サラリ


 では、本文に入ろう。

 今日のような体たらくをもたらしたものは、ぜんたい、なんなのかという、気のふさぐ議論が、この期におよんで、社会のかたすみでひっそりとなされている。体たらくとは、国家主義化、全体主義化、ネオリベラリズム、戦時体制化、憲法解体、民主主義の安楽死、抵抗勢力の去勢化……といった、ファシスト・コイズミやイシハラ、ナカソネたちにとってはまことに喜ばしい事態のことである。議論のなかで挙げられる"元凶"は、当然のことながら、論者によって異なるのだが、ワースト3くらいまでは、おおかた見方が一致する。そぞろ虚しいけれども、列記し、少しく吟味してみる。

 まず、マスコミが悪い。そりゃそうだ。でも、マスコミがよかったためしなんてこれまであっただろうか。ごく少数のまつたく例外的で個人的で偉大な抵抗を別にすれば、マスメディアが総体として戦争推進勢力でなかったためしなんぞ、歴史的にありはしない。いまの翼賛報道は、むしろ、マスメディアの法則的帰結といってもいいのではないか。

 マスメディアを、ときどきによくなったり悪くなったりする、一個の人格のように考えるのは、批判者のナイーブな錯覚というものである。あれは、同種の動物個体が多数集まって共通の躰(からだ)を構成する、つまり、全体としては無人格な、海綿とか腐った珊瑚とかの、群体としてとらえるのが、より客観的なのだ。一個体としてはまっとうな者が少なからずいるのに、群体化するから、見事なまでに阿呆に変じる。大組織ほどそうである。入社、入局後たかだか数年のお兄さん、お姉さんまでが、まるで臈(ろう)たけた役員かなにかのように、「うちは……」などと自称し、(翼賛報道のことではなく)もっぱら部数や視聴率や受信料のことを、経営者よろしく案じたりするのが、不遜をとおりこし、どれほど滑稽至極であるか、オツムまで群体化しているがゆえにわからないのだ。したがって、マクロのメディア批判など、現場で働く者たちには屁の河童である。やるなら、個別の記事、番組、その責任者を(十分な理由と根拠をもって、かつ躰をはって)指弾すべきだ。それは有効である。権力と"権威"に庇護されている者ほど、差しの喧嘩には弱いからだ。

 第二に、若者元凶説。これはまったくお話しにならない。彼らには、「反動」や「変節」や「堕落」の意味どころか、おおよその語感さえアフリカのアムハラ語みたいに理解できないのだから、責めるのは酷というものだ。問題は、ジジイとオヤジ。かつてはそれらの言葉を他者に浴びせかけていたくせに、その後宗旨替えし、みんなで反動を支え、みんなで変節し、みんなで堕落し、しかも、それを組織や時代のせいにして、のうのうと生き延びている年寄り連中をこそ、構うことはない、容赦なく撃つべきである。もっとも、その一部はリストラでつとに痛めつけられているのだが。

 第三に、1980年代総体を元凶とする説、ポストモダン主犯説、75年「スト権スト敗北」起原説、総評解散・連合結成主因説、村山内閣の(安保・自衛隊問題にかんする)裏切り起因説――などなど。ここまでくると犯人捜しも焦点がぼやけてくるのだが、これらはみな地つづきの反動要因と見ておいたほうがよさそうだ。最近のジヤツク・デリダふうに、お上品に、そして無責任にいうならば、「だれもが無実ではない」のである。

 だが、答えにならない答えならば、ある。たとえば、憲法がずたずたに引き裂かれ、自衛隊がはじめて参戦し、有事法制整備が本格化し、アフガンでは避難民の子どもらが飢えに泣いている秋のよき日、久保亘氏(元社会党書記長)と田英夫氏(元社民党国際委員長)が、ああ、めでたくも、勲一等旭日大綬章を受章した。ご同慶のいたりではある。同時に、へっ、なーんだ、そうだっだの、である。この <なーんだ、そうだっだの> のたぐいが、戦後ずっと、とりわけ、この20年ほど、うちつづいてきたように私には思える。戦後民主主義とは、なーんだ、この程度だったのか、ということ。民主主義の堤防が決壊し、いま、反動の濁流がこの国を覆っているのだが、もともと「堤防」をもって自任していた先生たちが <なーんだ、そうだっだの> 的人間なのである。決壊は、端(はな)から推して知るべしであったのだ。

 試みに、秋の叙勲の受章者リストを見るといい。改憲派の政府・法曹関係者ばかりではない、かつての護憲派の元学長さん、現役護憲派の名誉教授様、芥川賞作家まで名前をつらね、あたら晩節を汚し、じゃなかった、輝かしきものとしているのである。これにかつての褒章受章者を加えれば、反権力を標榜していた映画監督や著名俳優、反戦歌を詠んだことのある歌人もいたりして、意外や意外どころのさわぎではない。革新政治家、かつては"社会の木鐸(ぼくたく)"を気どっていたはずのマスコミ経営者、万人平等を教えていたはずの学者ら、その他諸々の、ひとかどの人物たちが、ま、いっとき色に耽(ふけ)るのもよろしかろう、お金をもうけるのも結構でしょう、名前を売るのもどうぞどうぞではあるのだけれども、強欲人生の最後の仕上げと夢なるものが、勲章・褒章と、おそれ多くもかしこくも、宮中にての親授式だと知ってしまえば、「なーんだ、そうだっだの」というほかはない。

 受賞と反権力は矛盾しないだろうか。受賞と護憲は矛盾しないだろうか。私は、ごく単純に、矛盾すると思う。しかも、権威への欲が矛盾をなぎ倒し、国家主義を直接に手助けして、今日的反動の土壌をこしらえている。そのことに恥じ入りもしない受章者、彼らを嗤(わら)わず軽蔑もしない文化、受章の大祝宴を正気で開くアカデミズム、言祝ぐジャーナリズム――民主主義の安楽死も憲法破壊も必然というべきであろう。という話を、某日、学園祭でやったら、学生に「あなたも芥川賞を返上したら」と皮肉られた。筋がちがうようでいて、しかし、一理はある。

 私も「ジジイとオヤジ」の一人だが、幸いこれまで「宗旨替え」をしていない。もう相当の歳なので、一生「宗旨替え」しないで終われそうだ。「目出度し目出度し」と言っておこう。

 ところで、最後に挙げられた叙勲・褒章受章者(これに私は「園遊会も加えている)に対しては私も大きな違和感を持っていた。この事に関連して今までに次のような記事を書いる。紹介しておこう。

『米長の憂鬱』(園遊会のことを取り上げた。)
『戦後教育の民主化(2) 教育勅語の廃止』(田中耕太郎の数々の受勲を取り上げた。)

 最後に、共謀罪法強行採決の翌日(6月16日)、加藤哲郎さん(一橋大学名誉教授)が『いま、ファシズム前夜の日本!』という記事を書いているが、それを「ちきゅう座」の紹介で知った。『世界的に「ファシズムと戦争の時代」に向かっている』とのべていて、これまで連載してきた「国家テロリズム」と共通する認識を基調とする論文なので紹介しておこう。
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