2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(26)

国家テロリズム(3)

 今回の表題は「第五列」であり、枕は次の通りである。
「……あなたがたの来ることに待ち疲れたもうた神は、
災禍があなたがたを訪れるのに任せ、およそ人類の歴史なるものが生まれて以来、
罪ある町のことごとくに訪れたごとく、
それが訪れるのに任せたもうたのであります。あなたがたは今や
罪の何ものたるかを知るのであります……」(カミュ『ペスト』の、パヌルー神父の説教から宮崎嶺雄訳)

 『ペスト』は、ペストという病魔に襲われた街を舞台に、不条理に覆われた世界に生きる人たちの苦難の生き方を描いた小説である。

 ところで、私は「第五列」という言葉を全く知らなかった。辺見さんは本文中で詳しく解説しているが、その中で「いまでも広辞苑に載っている言葉だけれど、もう死語だろうと私は思っていた。」と書いているので、予備知識を得ようと、手元にある広辞苑(第二版)を調べてみたが無かった。念のため、パソコンで利用している広辞苑(第六版)で調べたら、有りました。次のように説明されていた。
だいご‐れつ【第五列】
(fifth column)(スペイン内戦の際、4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ将軍麾下(きか)のモラ将軍が、市内にもこれに呼応するもう1個の部隊すなわちフランコ派がいると揚言したことに基づく)敵方に内応する者。内通者。第五部隊。

 辺見さんはこの節で、アメリカのアフガンへのテロ行為をめぐるアメリカ・ジャーナリズムの体たらくぶりを取り上げている。そして、その中で最もまともな言説を貫いた人が「第五列」扱いされてバッシングされた事件を解説している。

 それでは本文を読んでみよう。

 遅ればせながら、9月11日の米中枢同時テロを特集した『ニューヨーカー』誌(2001年9月24日号)を繰ったら、本文にいく前に、いきなり見開きページの金髪白人女性の写真が眼に飛びこんできた。沈痛な表情をしているので、テロ犠牲者の遺族かと思ったら、ちがっていた。写真には「彼は、お前が悪いから殴ったんだ、というの」という言葉と、写真の女性の名前、そして「ドメスティク・ヴァイオレンス・サヴァイヴァー」という、彼女に関する説明が記されていた。「家庭内暴力被害者」あたりが妥当な日本語訳なのだろうが、原文では、「生存者」。暴力の実態がそれほどにひどいということだ。見開きページは、フィリップ・モリス社などが支援している「全米家庭内暴力ホットライン」の広告だったのだ。

 DVと略称でいわれると現実感が薄れるが、ドメスティク・ヴァイオレンスとくると、イメージが過剰に喚起されて、
〈あんたがたは、ドメスティクでもアフガンでも、暴力ばっかりだな。いったい、タリバン支配社会における女性の地位を非難する資格があるのか〉
と毒づきたくなった。DVは、もっとも、日本でも大変に深刻な問題だから、保安官ブッシュの国だけを叱るのは、公正ではないのだが。

 私が読みたかったのは、この広告ではなくて、作家スーザン・ソンタグの文章であった。9・11テロと米国の対応について、ボスニア紛争も経験している彼女が、どう考えているのか知りたかったのだ。たった千字ほどの短いエッセイであったが、気合いは入っていた。のっけから、政治指導者やテレビ・コメンテーターらの「独善的たわごと」や「公然たる人騙し」をやりだまにあげ、連中はテロ攻撃を「卑怯」などというが、この言葉は、自爆攻撃者ではなく、報復の範囲を超えて空爆をする者らを形容してこそ、より適切なのである――と、挑発的だ。そして、旧ソ連共産党大会恒例の「満場一致」は軽蔑すべきものだったけれども、9・11以降の米政府当局者とマスメディアの協調関係だって、事実隠しのレトリックにいたるまで一致している、とソンタグは怒り、これは「成熟した民主主義」の名に値しないと難じている。

 読んで、ま、小気味はいいのだが、『ラディカルな意志のスタイル』や『ハノイで考えたこと』(いずれも1969年)の著者であることを思えば、とくに、驚くにはあたらない。米国内でも、またソンタグがソンタグらしく吠えているという程度に受けとめられているのだろう、と私は想像していた。ところが、やはり、時代がちがうのだ。彼女はいま、この『ニューヨーカー』のエッセイがもとで、かつてない袋叩きに遭っているらしい。右派系メディアから「国賊」呼ばわりされ、ある雑誌からは、ウサマ・ビンラディンとサダム・フセインとソンタグは同類か、などと書かれた。また、インターネット情報によれば、彼女を「フィフス・コラムニスト」と呼ぶ者もいるのだという。これは、五番目のコラムニストという意味ではない。「第五列」、つまり内通者を意味する、いやはや、なんとも古い言葉なのである。

 「フィフス・コラムニスト」を、日本語では、そのまま「第五列」という。いまでも広辞苑に載っている言葉だけれど、もう死語だろうと私は思っていた。スペイン市民戦争(1936年~39年)で、フランコ将軍麾下(きか)のモラ将軍が四つの部隊を率いてマドリードを攻めたが、フランコ派が密かに同市内に潜んでいて、モラ将軍の部隊に内応していたことを指して、その内通者を第五番目の部隊、すなわち「第五列」と呼んだのである。米国のアホな論者は、テロリストと内通する国内の「第五列」であるというレッテルを彼女に貼ろうとしたわけだ。しかし、いかに罵倒されようとも、どうやら彼女は意気軒昂であるらしく、このままいったら米国は「警察国家」になってしまうなどと怯(ひる)まず警告したりしている。同感である。

 とまれ、「第五列」という陰湿きわまる言葉は、第二次大戦後、米国でマッカーシズムが吹き荒れたときに、多く用いられたのではなかったか。1950年2月、国務省内にいる共産党員の工作により、米国の外交が損害をこうむっているとして、マッカーシー上院議員が"赤狩り"を提唱し、政界だけでなく、思想、文化・芸術界での異端排除がはじまった。そのさい、外国共産党の「第五列」というでたらめなレッテルを貼られ、多くのリベラルな人々が職を追われた。その精神的傷は、いまでも映画界を中心に癒えずに残っているのだが、そういえば、米国社会はいま、まるでマッカーシズム再来といった雰囲気ではある。ハリウッドが政府の意を受けて、当局の政策にとって都合の悪い映画の公開を控えてみたり、政府に批判的なテレビ・コメンテーターが番組を降ろされたり、反戦・厭戦的な歌の放送を自粛してみたり、ベトナム戦争でも湾岸戦争でもなかったような統制と言論抑圧がはじまっている。アフガン報復戦争と炭疽菌騒ぎが拡大するなかで、米国は、ソンタグの懸念するとおり、ますます警察国家と化しつつあるようだ。

 じつのところ、私は、ソンタグがコソボ紛争のときに、NATO軍の空爆ばかりか地上軍動員まで訴えたことに、つよい疑問を抱いたことがあり、不信はなお消えていない。だが、いま米国内で袋叩きに遭っていると聞けば、彼女に味方したい気分にもなる。スーザン・ソンタグは、セルビア軍包囲下のサラエヴォで、『ゴドーを待ちながら』の演出をしたこともある勇気の持ち主だから、味方なんかいらないだろうけれども。

 「第五列」をいうなら、日本には真性のそれがたくさん生まれている。マスコミにも、作家のなかにも、思想界にも。ただし、やつらは、フアシスト・コイズミとその権力の「第五列である。気をつけよう。

 ポチ・コイズミのときにその萌芽があったわけだが、「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」政権下の現在の日本は、辺見さんが描く2001年頃のアメリカ社会(赤字部分)と、なんとますます瓜二つではないか。
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