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永遠の不服従のために(25)

国家テロリズム(2)

今回取り上げる辺見さんの論考の表題は「社説」であり、国家テロリズムをめぐっての新聞の社説の体たらくぶりを抉っている。

 私もいろいろな記事で「マスゴミ」という語を使ってジャーナリズムの体たらくぶりを書いてきたが、まとまった記事としては「ジャーナリズムの死」と題して取り上げている。興味ある方のために紹介しておこう。《『羽仁五郎の大予言』を読む》の(65)~(77)で取り上げた記事だ。(日付では2015年4月19日~2015年6月9日までの記事です。)

 さて、辺見さんは「枕」として、渡辺一夫さん(フランス文学者 1901年9月25日 - 1975年5月10日)の1945年7月6日の日記から次の一文を引用している。
どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし。(串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』から)

 では本文を読んでいこう。

 ごく稀な例外を除き、新聞の社説というものが発する、ときとして鼻が曲がるほどの悪臭。読まなくても、べっして困ることはないのだし、中身のつまらぬことはわかりきっているのだから、いっそ読まずにおけばいいのだけれど、ひとたび向きあってしまえば、かならず鼻につく、独特の嫌み、空々しさ、絵に描いたような偽善、嘘臭さ……。あれは、いったい、なにに起因するのだろうか。つらつら考えていたら、さほどに解析すべき価値すらないように思えてきた。なにに起因するか、と問うより、世すぎとして言説をもてあそぶ者たちの、無責任な論法と卑怯な立ち居振る舞いを、なによりも新聞社説が象徴していると、まずは難じたくなる。あの古く酸化した表現の土壌では、言説のおおかたが、つとに根腐れしているのである。

 好個の例は、米英両軍によるアフガニスタン空爆開始に関する、各全国紙社説(2001年10月9日付)であろう。これらがこの国の標準的言論であるとするならば、残念ながら、日本にはすでに本格的な全体主義が到来しているといっていいのかもしれない。保安官ブッシュお得意の、「文明対野蛮」という単純図式にのっとるなら、日本は「野蛮」を通り越して、文化的には依然"未開"の段階にあるというべきであろう。なにぶんにも、金持ち連合軍による、飢餓に苦しむ超最貧国への報復爆撃という、子どもでもわかる非人間的構図に、憤激するどころか、なにがしか異論をていする社説さえ皆無だったのだから。

 おぞましさに耐えつつ、各社説のさわりをなぞれば、語調のもっとも激しかったのが、読売社説。「……国連憲章が認める自衛権の行使であり、正当だ。強く支持する」という。しかし、この「強く支持する」には、主語がない。「読売新聞は」という主語が省略されているということであろうか。そうではあるまい。社運をかけてまでこの報復戦争に肩入れするほど、察するに、同紙は愚かではない。むしろ、社説というものの、これが、常套手段なのだ。主張者ないし表現主体を意図的に消して、言説の責任の所在を曖昧にしてしまう、文章表現としてはもっとも卑劣な手法である。すなわち、個人としての筆者も、法人としての読売も、アフガン軍事攻撃を「強く支持する」という言説に、なんらの身休的かつ財政的責任も負いはしないということ。社説は、だから、謬論(びゅうろん)でも正論でも、人の心を打ちはしないのだ。

 読売社説は、この時点で、テロ対策特措法の成立を急げと訴えており、「……旧態依然とした神学論争のような憲法解釈論議をしている場合ではない。自衛隊の活動に不要な制約をつけることなく、実効ある新法にしなければならない」とも述べている。多くの人々がテロ対策特措法などを重大な憲法違反ではないかと議論していることについて、新聞人みずからが「神学論争」と揶揄(やゆ)する神経にはあきれるほかないが、この憲法解釈論議=神学論争という低劣な比喩は、よほど気脈が通じているのかしらん、ブッシュの子分コイズミによっても野党攻撃の際、用いられたことがある。さすれば、昨今の社説とは、やれ情けなや、権力者の提灯もちということか。

 毎日社説の見出しは「対テロ長期戦の心がまえを」であった。まるで米国民に対するブッシュ演説そのままであり、なんで毎日の読者までが長期戦の覚悟をせんならんの、といい返したくなる。この社説は「……人類社会に対する無法行為を処罰するやむを得ない強制措置として武力攻撃を位置づける必要がある」と、論証抜きの粗雑なロジックでアフガン爆撃を正当化するのだが、タリバン全体が人類社会に対する無法行為をしたという証拠はどこにあるのか。忍耐づよい話し合いを避け、飢えに瀕した人々の頭上にいきなり爆弾を投下することが、「やむを得ない強制措置」か。そのように「位置づける必要がある」と託宣する、いかなる資格が、社説執筆者にはあるというのか。

 私の周辺でそれなりに話題になったのは、朝日の社説であった。同紙記者をふくむ私の友人たちは、異口同音に「限定的な武力攻撃はやむを得ない、と考える」という論旨(ここにも主語がない)に愕然としたというのだ。やんぬるかな、である。ひと昔前にくらべれば、ずいぶん目減りしてきたとはいえ、永遠に報われることのない朝日幻想というものを、裏切られても裏切られても、捨てきれない者の、それでも、いかに多いことか。それは、たぶん、おのれの偽善と新聞の偽善が、うまくつり合うからでもあろう。にしても、この社説の「『アフガン国民を攻撃している』と言われないためにも、米国が食糧や医薬品を投下するのは一つの方法だろう」のくだりは、後世に残る暴論である。アフガンに詳しい国連関係者やNGOメンバーによれば、投下された食糧にたどりつくのに、人々は、場合によったら、百個の地雷を踏まなくてはならない、という。つまり、この社説の筆者はまったくアフガン現地を知らないというのだ。

 いや、アフガンを知らなくても、人間として理解すべき哲理というものがあっていい。それは、殺しながら、同じ手で、食べ物をあたえ、慈しむことこそ、もっとも非人道的行為であり、人間への差別だ、ということだ。その意味で、この社説は、他紙同様に、人倫の根源への深いまなざしを欠いているといわなくてはならない。朝日にファンの多い丸山眞男はかつて「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向からはじまる」と書き記しているけれど、これは、今日的には、朝日社説に向けられた、もっとも適切なアフォリズムであると思う。

 戦争という、人の生き死にについて論じているのに、責任主体を隠した文章などあっていいわけがない。おのれの言説に生命を賭けろとはいわないまでも、せめて、安全地帯から地獄を論じることの葛藤はないのか。少しは恥じらいつつ、そして体を張って、原稿は書かれなくてはならない。現場の若い記者たちの多くは、いま、社説とのひどい乖離に悩んでいるのだから。

 冒頭の言葉は、1945年7月6日の日記からの引用である。その数日後、渡辺一夫は「ラジオ・新聞は依然我々を欺瞞し続く」と書き、8月31目には、「聯合軍は進駐してきた。新聞記事は一変しての親米或は迎米主義になるらしい」と記している。今日の社説は、当時のそれらと、どこかで通底している。

 私は2006年に長く購読していた朝日新聞を止めて東京新聞に替えた。その理由を『今日の話題「朝日新聞の欺瞞」 2006年12月17日』で書き留めていた。しかし、新聞のマスゴミ化は社の上層部たちの政治権力へのゴマすり(今はやりの言葉で言えば「忖度」)の所為であり、一般の多くの記者はその体たらくに苦しんでいた。そのことは『今日の話題「朝日新聞問題:こころある記者は苦しんでいる。」 2006年12月20日』で取り上げた。

 このような新聞社上層部の体たらくぶりはいつ頃から始まったのかは分からないが、辺見さんが「現場の若い記者たちの多くは、いま、社説とのひどい乖離に悩んでいるのだから。」と書いているように、その状況は辺見さんが上の論考を書いた2001年の段階ではすでにその事態は当たり前になっていた。

 冒頭で紹介した「ジャーナリズムの死」の中の『ジャーナリズムの死(7):戦後の言論弾圧(1)』を読み直してみたら、その兆候は1967年ころから出始めていたようだ。
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