2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(24)

国家テロリズム(1)

 今回から第3章に入る。この章のテーマは国家テロリズムであり、それを色々の観点から更にその核心に迫る論考が展開されている。そしてまず、その第1節では「国家とは何か」を問いなおしている。

 辺見さんが付けた表題は、ずばり「国家」であり、枕にはモンテーニュの『随想録』(関根秀雄訳)第三巻の一文をを引用している。
国家の存続はどうやら我々の理解を越えたことであるらしい。(中略)それはしばしば、内部の致命的病弊にもかかわらず、不公正な法律の害悪にもかかわらず、暴政にもかかわらず、また役人どもの専横と無知、民衆の奔放と反乱にもかかわらず、存続する。

 では本文を読んでみよう。

 国家とはいったいなんなのだろう。ブッシュやコイズミが、まるで自分の持ち家かなにかのように語る「わが国」とは、ぜんたい、なにを意味するのだろう。国家とは、たとえば、手で触ることのできる、ひとつの実体なのであろうか。そこには、なんらかの中心があるものなのだろうか。それは、この眼で、全体像を見とおせるものなのだろうか。人間にとって、ほんとうに必要なものなのだろうか。それは、私の心を解くものなのか、縛るものなのか……。

 視圏の彼方の海市(かいし)のように、国家は浮かんでは消え、消えては浮かび、結局、考えあぐねて、ここまで生きてきた。いまだに腑に落ちないのだ。なのに、この世のあらゆる闇の発生源には、国家と資本と性の問題が、たがいに深く結ぼれ絡まりあう、三匹の種類の異なる毒蛇のように、かならず、どっかりと居座っているものだ、と私は信じている。そのうち、いちばん御(ぎょ)しやすそうに見えて、もっとも御しがたいのが、国家の問題だ。

 古くからの問いを、いま一度、自分に問うてみる。国家とは、可視的な実在なのであろうか。最近、私は、こう思う。国家は、たしかに、可視的な実在でもある。だが、国家は、それを視覚的にとらえようとする者のすべてに、なぜか、"錯視"のような曲解を余儀なくさせるものだ――と。たとえば、エンゲルスが、「実際はしかし、国家というものは一階級による他階級の抑圧機関以外の何ものでもない」(ドイツ版『フランスにおける内乱』第三版への序文)というとき、軍隊や警察などの暴力装置をふくむ、可視的な実在もイメージされている。それはそれで国家の明証のようなものなのだけれども、やはり、錯視のような一部分の極大化、他部分の極小化があるのではなかろうか。

 私は教育反動の動きを問題にしてホームページを立ち上げたのだが、この問題は必然的に「国家とは何か」という問題につながった。「国家とは何か」を考える記事をずいぶん書いてきた。それらの記事の大元となった最初の記事が吉本隆明さん・秋山清さん・滝村隆一さんの論考をたより書いた『国家について』であった。そこで到達した認識は上のエンゲルスの認識と同じである。

 次の辺見さんの論考に出てくる「観念領域」は吉本さんが言う「共同幻想」と同じことを意味していると思う。

 国家が、本質的に抑圧機関であることは疑いない。けれども、まったくそうではなく、あたかも救済機関や理性(真理)体現機関のように、魅力的に見せかける欺罔(ぎもう)に長(た)けているのも、近代国家の特徴ではある。要するに、ひどく見えにくい。国家の、そうした不可視性こそが曲者である。なぜ、見えないのか。それは、国家というものが、断片的な実体とともに、非実体である〈底なしの観念領域〉を併せもつからではないだろうか。換言すれば、国家とは、その図体のほとんどを、人の観念領域にすっぽりと沈みこませているのではないか。極論してしまえば、国家は、可視的な実体である以上に、不可視の非在なのではないか。

 極論をさらに、進めてみる。国家は、じつのところ、外在せず、われわれがわれわれの内面に棲まわせているなにかなのではないか。それは、ミシェル・フーコーのいう「国家というものに向かわざるをえないような巨大な渇望」とか「国家への欲望」とかいう、無意識の欲動に関係があるかもしれない。ともあれ、われわれは、それぞれの胸底の暗がりに「内面の国家」をもち、それを、行政機関や司法や議会や諸々の公的暴力装置に投象しているのではないか。つまり、政府と国家は似て非なる二つのものであって、前者は実体、後者は非在の観念なのだが、たがいが補完しあって、海市のように彼方に揺らめく国家像を立ち上げ、人の眼をだますのである。そのような作業仮説もあっていいと私は思う。

 ひとつの例としては、「国挙げて奮い起つべし大君のみまえに死なむいまぞこの秋」と、真珠湾攻撃後の1942年初頭に、北原白秋が激(げき)してうたったときの「国」。それもまた、もともとは彼の内面の国家なのであって、それが、実体としての帝国軍隊の"勇姿"に刺激されて膨張し、膨張したまま、実体的軍隊や天皇や戦闘機や軍艦に投象されたのだ、と私は推理する。この歌のくだらなさは、したがって、白秋が体内にふくみもっていた国家像の、とんでもない貧困に起因するのであろう。

 内面の国家像の貧困については、このところ、日々にいよいよ新型のファシストめいてきたコイズミとて同じである。彼は彼の内面の国家の領袖をもって任じているはずである。それはそれで構いはしない。ただ、察するに、コイズミにおける内面国家には、右翼少年のような情念はあっても、守るべき憲法がない。失業者、貧困者、弱者への思いやりに著しく欠ける。彼ら彼女らが生活苦と絶望のあまり、いくら自殺し、一家心中しようとも、コイズミはいささかも憂えるということがない。コイズミの内面国家では、"敗者"ではなく、"勝者"こそが主人公でなければならないのである。いいかげんな構造改革による非受益者層の命運がどうあれ、米国としっかり手を携えて、"悪"に対する戦争をすることのほうがよほど大事なのだ。だが、彼の内面国家においては、"悪"とはなにかの想像力が、彼の大好きな保安官ブッシュ並みに、欠如している。靖国神社、神風特別攻撃隊、「海行かば」、エルビス・プレスリー、ゲーリー・クーパー、保安官ブッシュ……など、刺身とハンバーガーと山葵(わさび)とマスタードが渾然一体となったような、不気味な味にまみれて、ひとり悦に入っているだけである。

 その低劣な内面の国家を、現状に投影して、強引に通してしまったのが、テロ対策特別措置法、すなわち、戦後はじめての「戦争参加法」である。コイズミがどのようにいいつのろうと、この悪法が、周辺事態法よりもさらに踏みこんで、自衛隊の戦争参加に大きく道を開くものであることは、一目瞭然である。そうまでして、親分ブッシュに取り入ろうとする彼の心性は、ひとつの謎である。私の言葉ではないけれども、これは、古風に表現するなら、いわゆる"売国"というやつではないか。

 国家を語ろうとして、怒りのあまり脱線した。エンゲルスは前述の序文のなかで書いている。「もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわいである」と。内面の国家についても、外在する国家についても、これ以上正確な表現はない。にもかかわらず、わざわいとしての国家は存続する。ならば、私は、せめて、私のなかの国家を、時間をかけて死滅させてやろうと思う。

 何度も指摘してきたが、現在のトランプに揉み手をしている「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」売国奴の知性も政策も、更に醜悪になったブッシュのポチ・コイズミのコピーである。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2260-2fbad112
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック