2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(20)
9・11同時多発テロ後の世界(2)
今回使用する辺見さんの論考の表題は「善魔」である。手元にあるどの辞書にもこの熟語はない。本文中にこの言葉の由来が次のように書かれている。(本文の構成順を替えて引用している。)
ではまずはこの論考の枕を読んでおこう。
この枕の元になっている戯曲もその著者も私には初耳だが、辺見さんは次のように解説している。
今(同時多発テロ後)のひどい悪辣さを作り出したのは、前回用いた言葉で言えば、「保守反動ブタ」どもである。辺見さんはこのことを「善魔」という言葉を用いて、さらに突っ込んだ評論を展開している。
もちろん、このアメリカの善魔ぶりは同時多発テロ以前にも連綿と行なわれていた。「るいネット」さんの記事『アメリカの侵略戦争史年表②』 から、ベトナム戦争から同時多発テロまでの年表を転載しておく。
辺見さんは、この中から「グレナダ侵攻」と「ソマリア派兵」を取り上げて、ならず者国家アメリカの「善魔」を指弾している。
9・11同時多発テロ後の世界(2)
今回使用する辺見さんの論考の表題は「善魔」である。手元にあるどの辞書にもこの熟語はない。本文中にこの言葉の由来が次のように書かれている。(本文の構成順を替えて引用している。)
「善魔」という言葉を、私は、だいぶ以前、ある日本人神父から聞いた。身勝手で薄っぺらな「善」を、むりやり押しつける者を意味する造語で、神父は「悪魔よりも程度がわるく、魅力がない」と吐き捨てるようにいったものだ。彼としてはヴァチカンを批判したかったのかもしれないが、いまや世界最大の「善魔」とはローマ教皇庁などではなく、ブッシュを頭目とする米政府なのではないか。私は、正直、この「善魔」大統領と彼に手もなく仕切られている世界が不快でならない。ベトナム戦争当時より、湾岸戦争のころより、米国の唱える「善」には、今日、厚みも道理もなく、よくよく考えれば、それは限りなく悪に近いのである。
ではまずはこの論考の枕を読んでおこう。
この枕の元になっている戯曲もその著者も私には初耳だが、辺見さんは次のように解説している。
この詩を、私は埴谷雄高著『罠(わな)と拍車』のなかの「自由とは何か」で知った。文中、埴谷はこれを「私が古くから愛好しているブレークの詩」として紹介している。学生時代に読んで以来、埴谷がそう記しているし、私は不勉強だから、当然、ウィリアム・ブレークの詩だとばかり思いこんできた。ところが、今回、ブレークを調べてみたら、まだ調べたりないのか、この詩がなかなかでてこない。意地になって追いかけていたら、ブレークよりはずいぶんマイナーな作家、グレヴィル(1554~1628年)の作品であることがわかった。ブレークがこの詩を引用したのか、単純に埴谷雄高の勘ちがいなのかは、依然、不分明である。
そんなことは、しかし、どうでもいい。記憶力のあまりよくない私が、この詩にかぎっては、おぼろではあるものの、ほぼ34年間も胸の底の薄暗がりに、なんとなく言葉を残してきた、そのことにわれながら驚く。正確にいえば、
「おお、堪えがたき人間の条件よ」
と
「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」
の二つのフレーズだけを忘れずに生きてきた。たぶん、私は、大いなる矛盾を露呈する時代のときどきに、「おお、堪えがたき人間の条件よ」と嘆息し、「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」と、心のうちで、この世の成り立ちを呪ってきたのだ。だが、いま振り返れば、それまでの嘆息にも呪詛(じゅそ)にも、まだなにがしか余裕があった。そうなのだ。世界は、かつても、人間が病まずにはいられないようにしつらえられていたけれども、いまほどひどく悪辣(あくらつ)ではなかった。
今(同時多発テロ後)のひどい悪辣さを作り出したのは、前回用いた言葉で言えば、「保守反動ブタ」どもである。辺見さんはこのことを「善魔」という言葉を用いて、さらに突っ込んだ評論を展開している。
ニューヨーク・タイムズの社説によれば、世界史は、あの同時多発テロの「前」と「後」に、つまり、B.C.とA.D.みたいに、「9・11前」か「9・11後」に分かれることになったよしである。まことに独り善がりで傲岸な新史観ではあるが、私の眼には、世界は9・11後こそ、9・11前の千倍も狂気じみて、かつ愚かになったとしか見えない。なぜかというと、9・11を境に、ブッシュというとんでもない「善魔」が、あろうことかあるまいことか、善と悪、文明と野蛮について、世界中に偉そうな説教を垂れ、絶大な武力を背景に、史上最悪の"善"の強制的グローバル化を開始したからである。それに腹をたてたとき、私はまたぞろ、「おお、堪えがたき人間の条件よ」を思い出したわけだ。
包み隠さずうち明けるならば、面相からして、私は「善魔」ブッシュよりも(もちろん、子分の「小善魔」コイズミよりも)、「悪魔」ウサマ・ビンラディンに万倍も人間的魅力を感じる。いま、どちらと会って話したいかと問われれば、いわずもがな、後者なのである。前者には、「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」の意味が、どうあっても理解できないであろう。病むべく創っておきながら、健やかにと命じているのが、ほかならぬ、「善魔」たちだからである。米国に対する外部世界の計り知れないルサンチマンとは、米国が世界を私物化しようとし、まさに人が病むほかないシステムをつくる一方で、米国式正義を強いてくるから、生じているのではないか。
もちろん、このアメリカの善魔ぶりは同時多発テロ以前にも連綿と行なわれていた。「るいネット」さんの記事
辺見さんは、この中から「グレナダ侵攻」と「ソマリア派兵」を取り上げて、ならず者国家アメリカの「善魔」を指弾している。
いま、つくづく思う。米国ほど戦争の好きな国はない。1776年の独立以来、対外派兵がじつに二百回以上に上り、しかも、原爆投下をふくむ、非人間的作戦行動のほとんどについて、これまでに国家的反省をしたことがない。にべもなくいうなら、人類史上最大の戦争国家なのである。二百回のなかには、たとえば、グレナダ作戦(1983年)というのがある。グレナダ政権内の親ソ連派クーデターに怒った米国が、七千人もの部隊を動員して侵攻、クーデターを鎮め、首謀者を逮捕した。マスコミは挙げて米特殊部隊を英雄扱いした。私は、当時、カリフォルニア州に住んでいて、この作戦成功に米国中が異様なほどわき返るのを、おののきふるえて見つめたものだ。なぜって、グレナダの人口は当時、たったの九万人ほど。軍隊などといっても数百人くらいの、弱っちい貧乏国だからだ。勝ったからといって、決して威張れるような相手ではない。この点、米政府の好戦的官僚は、一般に羞恥心というものをもたない。
1993年からのソマリア作戦もひどかった。壊すだけ壊し、殺すだけ殺して、なにもつくれずに撤退した。後は頬被(ほほかぶ)り。同年の暑い夏、ソマリアで取材したから私は知っている。米軍はただの"壊し屋"たった。
いままた、米国とその同盟国は、象千頭で蟻十数匹に襲いかかるような非道をはじめつつある。ブッシュ大統領の以下の言葉は、米国を唯一無二の善とした、ただの脅しでしかない。
「世界のあらゆる地域のあらゆる国家が決断しなければならない。われわれとともにあるか、さもなくばテロリストといっしょになるかだ」(「2001年9月20日、上下両院合同会議での演説)。
なにも好きこのんで人々がテロリスト側にくみするわけがない。さりとて、ブッシュの語る「善」の側に立つのは、「堪えがたき人間の条件」なのである。
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