2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(18)

9・11同時多発テロ

 辺見さんは「コヤニスカッティ」という表題を付けている。枕は次の様になっている。
あのテレビ映像を見ていたら、ついつい、映画『コヤニスカッティ』を思い出してしまいました。フィリップ。・グラスの鎮魂曲が、十数年ぶりに耳の奥で低く鳴り響きました。
悲しみと不安と、そして、裏腹に、
快哉を叫びたくなる気持ちが胸にわきでてくるのを、
どうしても、どうしても抑えることができませんでした。(友人K・Sの葉書から)

 私は『コヤニスカッティ』という映画があることなど全く知らなかった。ウィキペディアがその映画のBeginningからEndingまで内容を詳細を紹介している。私は全文読んでみた。
『コヤニスカッツィ』
 辺見さんの本文にも書かれているが、映画の表題「コヤニスカッティ」はアメリカ先住民ホピ族の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活。平衡を失った世界」という意味だという。映画の形式は「ナレーションや台詞が一切挿入されず、一連の映像とバックに流れる音楽の提示という形式で統一されていて、」映し出される現代人の生活様式がコヤニスカッティな映像となっているという。

 では、辺見さんの論考を読んでみよう。

 私には既視感があった。なぜだか、ずっと思いだせなかった。そうだった、あの映画だった。旅客機に突っこまれたニューヨークの世界貿易センタービルが、地響きたてて崩落する、これ以上はない大嘘のような光景。それが、フランシス・コッポラ製作、ゴッドフリー・レジオ監督のドキュメンタリー『コヤニスカッティ』に重なったのだ。あれを、1980年代にサンフランシスコと東京で都合二度観た。大都市のビルの取り壊しシーンばかりが、ひたすら繰り返される。栄華を誇っていた巨大構造物が、ダイナマイトで一瞬にして破砕され、醜い瓦礫の山と化してしまう。上空を絶え間なく雲が流れていく。高速度で影のように通り過ぎていく人と車。たしか、ところどころにロケットの打ち上げ風景もあった。破壊は悲しいけれども、いっそ爽快で、ロケットはなんだか滑稽に思えた。

 生々流転(しょうじょうるてん)というほど静かではない。やみくもにエネルギーを蕩尽(とうじん)しては、創造と破壊の両方に狂奔する人の世を、カメラは、嘆きも怒りもせずに、ほとんど虚無の眼で見つめていた。台詞もナレーションもスーパーインポーズもない。思いは、映像を見る者の胸にゆだねられた。サンフランシスコでは、スクリーンを見上げたまま、とめどなく涙を流している老婆がいた。あれは、喪の映像だったのだろうか。

 K・Sの正直な表現は、マスコミの偽りの常識を標準にするならば、不穏当とされるかもしれない。だが、じつのところ、少なからぬ人々の偽らざる内心を表しているように私には思える。葉書には
「多くの人の命を道連れに、米国の象徴的建物に突っこんでいったテロリストたちの、絶大な確信が哀しい」
ともあった。同感である。いく千人もの罪もない犠牲者を悼む気持ちは、この場合、むろん、前提なのである。さはさりながら、私は別の思いを抑えることはできない。それは、ある種の絶望である。すなわち、テロリストの「絶大な確信」のわけと、米国に対する、おそらくは億を超えるであろう人々のルサンチマンの所以を、あの、C級西部劇の主人公のような大統領は金輪際考えてみようとはしないであろう、ということだ。

 「コヤニスカッティ」とは、アメリカ先住民ホピ族の言葉で、「平衡を失った世界」という意味なのだそうだ。米国主導のグローバル化がいま、途方もない貧富の格差、環境・文化破壊を生み、グローバル化か進めば進むほど、逆にナショナリズムや原理主義が台頭するという反転現象が世界各地で起きている。まさに、コヤニスカッティなのである。グローバル化とは、「世界の米国化」の謂(いい)なのかと、われわれはここにきて気づきつつあるわけだが、件のカウボーイ大統領は人々の怨嵯などまるで眼中にない。温暖化や人種差別反対などの国際社会の努力に対し、米国の利害のみを中心にして反対し、一方ではパレスチナを武力攻撃しつづけるイスラエルの強硬姿勢を、事実上、積極的に後押ししている。

 このような人物から、世界の「善と悪」「文明と野蛮」について説諭され、指図されるくらい、不幸で不愉快なことはない。イスラム世界に偏頗(へんぱ)きわまる原理主義があるとしたら、ブッシュ大統領は、それにまさるとも劣らない米国原理主義者でなくて、いったい、なんであろうか。この男の標榜する、世界でもっともチープで身勝手で傲岸な「善」の側に、疑りもせずに身を置くこと、それこそが、さらなるコヤニスカッティを生むのである。保安官ブッシュの、極東における手下コイズミは、そのことを心すべきではないか。

 テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く超えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高なる確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならないというのは、べつにまちがっていないけれど、あまりに容易すぎて、ほとんど意味をなさない。そのようにいおうがいうまいが、米国による覇権的な一極支配がつづくかぎり、また、南北間の格差が開けば開くほど、テロルが増えていくのは火を見るよりも明らかなのだ。圧倒的な軍事力で激しく叩かれれば叩かれるほど、貧者による「超政治」として、あるいは弱者の戦略として、テロルはより激しく増殖していくはずである。だとしたら、ここは一切の感傷を排し、ニューヨークとワシントンにおける最初のスペクタクルを、より深く吟味してみるほうがまだ意味かあるだろう。

 あの同時多発テロにより損なわれたものとは、おびただしい人命のほかに、はたしてなにがあるであろうか。国家の安全、米国の威信と神話、絶対的軍事力の象徴、世界資本主義のシンボル……あるいはそれらすべての共同幻想……がことごとく、深く傷つけられた。だが、ハリウッドの監督たちも腰をぬかした、あの超弩級スペクタクルが意味したものは、それだけであろうか。私はもっともっとあると思う。

 それは、仮構の構成能力、作業仮説のたてかた、つまりはイマジネーションの質と大きさにおいて、今回の事件を計画・策定したテロリストたちが、米国の(そして世界の)あらゆる映像作家、思想家、哲学者、心理学者、反体制運動家らを、完全に圧倒したということではなかろうか。世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといっていい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。そして、サルトルやジル・ドゥルーズがあれを見たならば、なんといったであろうかと、くさぐさ妄想したことであった。

 同時多発テロが起こったのは2001年であり、『不服従』の出版は2002年だから、その頃にはまだ同時多発テロ陰謀説は広く知られていなかったかもしれない。実は私は陰謀説が論拠としているさまざまな事実から陰謀説を受け入れている。そのさまざまな事実はウィキペディアの『アメリカ同時多発テロ事件陰謀説』で確認することが出来る。さらに私は、度々サイト「マスコミに載らない海外記事」の記事を紹介してきたが、つい最近(2017年4月26日)の記事『アメリカを破壊した9/11』を読んで、その感がますます強くなった。
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