2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(17)

不敬(4)

 辺見さんの著書『恥』の第3章「いまここにあることの恥」(これは2006年4月27日、毎日新聞社の「毎日ホール」で行なわれた辺見庸講演会「憲法改悪にどこまでも反対する」の講演草稿を修正補充したものだという)に「公共空間と不敬瀆神(とくしん)と憲法」という表題で「不敬」を取り上げている一節がある。その中から、『不服従』の「不敬1~3」を補強している「瀆神せよ、聖域に踏み込め」という一節を転載しておこう。

 不敬瀆神。神を汚す。これを私はネガティブにいっているわけではなのです。不敬瀆神は、思想や芸術表現のひとつの作法として、必要であるといっているのです。たちの悪いなにかが増殖拡大し、いわゆる聖域は温存され、あるいは新たにつくられ、その一方で公共空間が権力ないし権力化した住民や群衆に囲いこまれ狭められていく。私か客員としていっていた大学には、キャンパスのど真んなかにこういうことが書いてあった。「学内で反社会的な行為をすることを禁ずる」。私は久しぶりに大学へいったものですから、反社会的行為を禁ずるっていったいなんだろうと驚きました。なぜかというと、大学とはもともと、反社会的存在たることを余儀なくされている面があるし、それはそれで正常だと私は考えるのです。だからこそ私のような者も客員となったりもするわけですから(笑)。そんな大学構内で学生が反戦ビラをまく。また学生以外の人間がイラク戦争反対のビラをまく。それは反社会的行為なのだろうか。教職員がすっとんでくる。警察に躊躇なくすぐ電話する。パトカーがすぐきて捕える。そんなばかなと思う。大学という公共空間(であるべき場所は学生や教職員らの信じがたい無自覚もあって、どこも、そういうかたちでどんどん狭められている。いまやますますそうなりつつあります。こうした例は数えきれない。社会の動きにうとい私が知っているだけでも、たとえば、2003年4月、東京・西荻窪の公園の公衆トイレにスプレーで「戦争反対」「反戦」などと落書きした青年が現行犯逮捕され、あろうことか44日間も勾留されて、建造物損壊容疑で起訴されている。これは、2006年1月に最高裁判決がでて、たしか執行猶予つきながら懲役1年2ヵ月が確定しています。戦前、戦中ではあるまいにいくらなんでもひどい。2004年2月にも、東京・立川の防衛庁官舎で反戦ビラまきの市民グループ3人が住居侵入容疑で逮捕、起訴されていますが、枚挙にいとまがありません。全民的公共空間はどこでもなくなりつつある。

 日本では三権分立は絵に描いた餅にすぎない。下級審ではまともな良い判決が行なわれても最高裁まで行くと全くの詭弁判決でひっくり返ってしまう例が沢山ある。その嚆矢となったのが砂川事件である。この問題は《『羽仁五郎の大予言』を読む》の中の
『裁判は階級的である(1):過去の判例二つ』
で取り上げた。また、「全民的公共空間はどこでもなくなりつつある」判例の一つとして
『裁判は階級的である(3):新宿騒乱事件(1)』
を紹介しておこう。
 そのことと瀆神は関係があるのか。私はあると思います。靖国も皇居もそうですが、聖域というものが設置されれば、理の当然、公共空間はなくなる。私のいう「公共空間」とは、たんに外部的な地図上の空間のことではありません。われわれの内面にもある、だれもが共有できる公共空間、全民所有の公共空間のことです。そういう場所がもっともっとあるべきです。

 本来、新聞社も放送局も病院も大学も議会も、だれもが自由に出入りできる公共空間であるべきなのです。しかし、すべてを特権的閉域にしてしまった。まず皇居です。私たちは高い税金を払って、おそれおおくも皇室を維持したてまつっている。にもかかわらず、私たちは皇居にそもなにがあるかを知らない。若いときには「反戦」を唱えていた文化人が老いてから紫綬褒章かなにかを受勲して、平気で皇居にもらいにいく。旧社会党の議員でも反権力と見なされていた映画監督でも平気でいく。晴れがましい顔をしていく。ここには恥も含羞も節操もなにもあったものではない。そして聖域との共犯関係をつくっていく。自らも聖域の住人になった気になる。こうして公共空間は狭まる。共産党をえらいと思ったことはあまりないけれども、ちょっといいな、というより当然だと思うのは、受勲、それだけはお断りしますという態度です。他にも受勲を秘やかに拒んでいる人物たちがいる。私はそれが最低限の節操、廉恥だと思います。

 瀆神。「神」というのは聖なるもの一般です。別に天皇だけではない、いまよりも一歩進んで、サンクチュアリに踏みこむことが大事ではないかと思うのです。もし憲法を語るなら、憲法に保障された表現の自由を語るなら、あるいは思想および良心の自由を語るなら、なにものか聖なるものにまつらうのではなく、意識的に瀆神しなければならない。われわれの内面にある「開かずの間」をこじあける必要がある。

 欧州を理想化するつもりはまったくありませんが、たしか一部の国では、瀆神の権利が法律の原理としてある、神を汚す権利が人間存在の権利として法的に保証されていると聞きました。瀆神の権利。これは信教の自由とともに共同体の原理であるべきではないでしょうか。瀆神することによって、真の意味で人間の公共空間が広がっていくのではないでしょうか。

 辺見さんは「私たちは高い税金を払って、おそれおおくも皇室を維持したてまつっている。」と書いているが、「私たちは…どのくらいたてまつっているのだろうか」。『週間金曜日1135号』(5月12月号)に中嶋啓明さんが「天皇の"時給"っていくら?」という論考を書いている。生活費だけでもたいへんな金額になる。その論考の冒頭の部分を転載しよう。

「天皇の時給っていくら?」
 最近、ある集会でこんな話が出た。私も試算してみた。

 天皇、皇后と皇太子一家の「私的生活」費をまかなうとされる内廷費は年間3億2400万円。かりに1日8時間、年間260日の労働時間で1人あたりの"時給"を換算すると、3万円余。かなり単純化した上、彼らには宮廷費からも金がつぎ込まれる。実際はもっと高いだろう。

 集会は、反天皇制や反戦などを訴えるグループや個人でつくる実行委員会が4月29日に開いた「沖縄にとっての天皇制と日米安保」。天皇の"時給"は、非正規労働者らを支援するフリーター全般労働組合のメンバーが話題にした。反貧困を掲げる組合ならではの問題意識だ。

 集会の呼びかけ団体の一つ「反天皇制運動連絡会」は前日に出した声明で
「社会保障・セーフティネットの格下げを余儀なくされているこの社会で、特権階級は庶民感覚では想像もできないほどの税金を使って世代交代を行う」
「天皇の代替わりとは、皇室内部の身分を再編し、『格の高い』身分を増やし、庶民のなけなしの税金が湯水のように使われる、という話だ」
と指摘している。

 だが、こうした問題意識は、大手メディアにはかけらも見られない。相も変わらず、自らに都合よく憲法を利用し、オベンチャラに結びつける。……(以下略す。)

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