2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(15)

不敬(2)


"不敬者"を、公権力になりかわって痛めつける不可視の組織 ― その所在を、どこまでもたどつていくならば、もしかしたら、私自身の神経細胞に行き着くのではないでしょうか。(T氏のメールから)



 編集者T氏から再びメールが入った。前回の私のエッセイを読んでの感想である。まったく予想もしない内容であった。「"不敬者"を、公権力になりかわり、肉体的、精神的に痛めつける、不可視の組織が、この社会のどこかに常に存在する」と、前回、私は書いた。T氏はそこに集中的に反応してきた。そのような組織などこの国には存在しない、と反論してきたのではない。視えざる組織の存在は、私同様、彼にとっても思念の前提であるらしかった。私か舌を巻いたのは、その先である。

 断っておかなくてはならないが、彼は私と同世代ではない。たしかめたわけではないけれども、私より十歳は若いのではないか。法学部をでて法律専門誌を編集しているのだが、法曹界のにおいを感じさせるのは、野暮ったい形(なり)くらいなもので、法律については、当方から尋ねでもしなければ、ろくに語ることもない。おそらく心の底からの興味はないのであろう。ただ、たまに、セシル・テイラーの何年何月だかの演奏がいかにずぬけているかとか、じつはジャズ喫茶のマスターになるのが夢だとかを、まるで国家の最高機密でも打ち明けるように、身をよじりよじり披瀝するときに、T氏の声調はやや高くなり、眼は不思議な光を帯びるのである。

 そんなT氏からきたメールを順を追って、考えてみる。彼によれば、前回の私への質問は、「万が一、天皇ないし皇族の身体にかかわるテーマを書きこんだ、辺見さんの原稿を受け取った場合、自分はどうすべきか」という自問でもあった、という。問うたびごとに、不可視の者たちによる監視と暴力を想像し、怯えた。だが、自分は、かりそめにも、憲法を精神的支柱とする法律専門誌の編集者である。「不敬」は法的には断じて成立しないはずであり、しかも、憲法21条というものがあるではないか。後退してはならない。そういい聞かせても、やはり怯(ひる)んでしまう。この怯えとは、いったい、なんなのだろ ― メールの前段はこのような展開であった。ここまでは、乾いた言葉でも、ま、説明できる。しかし、この先は、湿り絡まり粘りつく、ゼリー状の表現とならざるをえない。

 T氏はいう。
「怯えをふりきって、踏んばろうとしても、日常生活の思わぬところに伏兵が潜んでいるのではないか、いや、それどころか、自分自身も、蓋を開けてみれば消極的であれ積極的であれ、伏兵の側に与していて、自分自身に裏切られることになるのではあるまいか、と考えてしまいます」。
 彼は自分という井戸の底を、長い時間、覗きこんだのであろう。そうした上で「私は想定せざるをえないのです」と切りだし、冒頭に抜きだした重大な推論となるのである。

 読んでいて気息が乱れた。たまげたのである。私より、一世代若い編集者までが、こうした怯えをもっていることに。そして、そのことを少しも隠さなかったことに。いや、もっと、目玉が飛びでるほど驚いたのは、"不敬者"への監視とテロルをもっぱらにする、不可視の組織への、T氏の見事というほかない想像力に、である。その言を私なりに敷衍(ふえん)すれば、こうなる ― 透明な気根のように、不気味に生えでた不可視の組織の末端を、おそるおそるたぐり寄せてみると、外部にあるとばかり思っていたそれは、あろうことか、わが体内の闇の神経細胞にもつながっているらしい。

 いうまでもないことではあるが、T氏はたとえ生まれ変わったって、赤字つづきのジャズ喫茶のマスターではありえても、意識的な天皇制主義者にはどうあってもなりえない人物である。したがって、彼のいう「神経細胞」とは、直接に、彼の「内なる天皇制」を指すのではなかろう。また、「一木一草に天皇制あり」(竹内好)といった意味合いでの神経細胞でもなさそうだ。では、不可視の組織につながる自身の神経細胞とは、ぜんたい、なんであろうか。

 それは、否応なく実質上の天皇制国家に生きるわれわれが、それと気づかず体内の情念領域に胚胎(はいたい)し、育てている「幻想の抑止機制(システム)」のようなものではないだろうか。この幻想の体内機制が、自ら己の"不敬性"を、ほとんど無意識にチェックし、公権力になりかわり、それを懲らしめてしまうのである。換言すれば、「自己抑圧装置」でもあり、これが、怯えの発生源となる。意識的な天皇制主義者は、むろん、こうした幻想の体内機制をもつ必要がない。彼らは機制を常に露出させているのだから。幻想の体内機制は、じつのところ、天皇制を決して支持はしないけれど、それと身を賭して闘いもしない知識層の体内深くに埋めこまれている、と私は目星をつけている。とりわけて、マスメディアで働く人間たちの大半が、そうなのである。目先では天皇制反対をいう学者たちにも、おそらく、こうした者が少なくない。

 いわゆる「慰安婦」問題におけるこの国の非道や、昭和天皇の戦争責任を堂々と論じたために、不可視の監視・暴力組織が動きだし、勇気ある論者たちを、陰に陽に痛めつける事件は、マスコミで大きく報道されないにせよ、いまも引きつづいて発生している。これに対し、「闇の神経細胞」すなわち幻想の体内機制をもつ者たちは、一応は憂い顔をしてみせ、結局のところ、見て見ぬふりをするのである。甚だしくは、暴力にさらされている彼ら彼女らを「やりすぎ、いいすぎ」と見なし、なにもしない自己を、内心、正当化したりもする。T氏のいう「伏兵」とは、このことであろう。「伏兵」は、外部だけでなく、自己体内にも潜んでいるということだ。

 私はT氏を非難しているのではない。まったく逆である。外在する不可視の監視・暴力組織と自己体内の神経細胞の意外な関係性を見きわめて語ること、それ自体が大した勇気である。怯えを隠さず表現すること、それは断じて怯儒(きょうだ)ではない。怯えの根源を徹底的に解析し、体内の抑止機制を徐々に解体しなければならない。それは、とりもなおさず、象徴天皇制下における途方もない暴力の存在を明らかにすることになるだろう。口先で、「表現の自由」を喋々(ちょうちょう)するだけなら、この益体もない憲法違反列島においては、昼下がりの茶の間で一発ケチな屁をひるくらい、造作も意味もないことなのだ。

 メールはまどろっこしい。今度は、直接T氏と会って話そうと思う。

 赤字部分の様な「闇の神経細胞」は私の体内にもあると自覚している。しかし、《『羽仁五郎の大予言』を読む》の中の記事『ジャーナリズムの死(7):戦後の言論弾圧(1)』に出てくる赤尾敏の講演に拍手を送る人たちほどには病んでいない。なお、前回「右翼の理不尽な暴力と真っ正面から対峙した人」として岡留安則さんを取り上げた記事を紹介したが、上に紹介した記事の中の矢崎泰久さんの右翼青年との対応も見事である。
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