2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(13)

ディストピア

 ディストピアは、ユートピア(理想の社会)とは正反対の社会のことである。ユートピアについては『吉本隆明の「ユートピア論」』という表題で取り上げたし、この言葉は色々な記事で使ってきた。ディストピアという言葉を用いるのは今回が初めてである。

 今回読む辺見さんの論考は「二重思考(ダブルシング)」という表題が付けられている。そして、枕にはジョージ・オーウェル著『一九八四年』(新庄哲夫訳)の次の一文を用いている。

『平和省は戦争、真理省は虚構、愛情省は拷問、豊富省は飢餓を所管事項としている。これらの矛盾は偶発的なものではなく、また通常の偽善から発生したものでもない。孰れ(いず)も二重思考の意識的な実践なのである。それというのも、ただ矛盾を調整させることによつてのみ権力は無限に保持して行けるからだ。』

 「二重思考」の意味は『一九八四年』中の文を引用すると「相殺し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉する」思考能力のことである。オセアニア(小説の舞台になっているディストピア国)が社会を支配するために住民に実践させている。

 では、辺見さんの論考を読んでいこう。
 かつてソマリアを取材したとき、国連の「平和執行部隊」に所属する米軍が、病院に平気でロケット弾をぶちこんだり、罪とがない市民を射殺したりするような乱暴狼籍を重ねているのを知って、なにが「平和執行」なものかと、怒りが収まらなかったことがある。

 次元はまったくちがうが、この国の「動物愛護センター」なる自治体の施設が、捨て犬、野良犬をたくさん殺すのを業務としていたりもする。はたまた、「人権救済機関」が、権力介入誘導機関となったりもする。言葉と現実が裏腹であり、名辞が概念を裏切り、実態が名称をあざける。警察に盗聴捜査を許す法律を「通信傍受法」といいなすのも、名称と実態の大いなる矛盾だ。言葉の堕落もここまでくると倒錯としかいいようがないのだが、困ったことには、眼と耳が慣らされると、堕落とも倒錯とも感じなくなる。消費者金融関係のまことに明るく、お優しい商品名がそうだ。

 これらは、オーウェルが未来小説『一九八四年』で予言的に描いたとおりだ、などと、いまさらいいたくはない。この小説の発表以来、半世紀以上にわたり、ときに反共主義者が旧ソ連や中国を非難するよりどころとし、またときには、リベラリストが管理社会を難じる際に牽強付会の材料としつづけた、いわば手垢のついた手法だからだ。ただ、ひとつの国家における法律や制度、組織の美名が、実態と裏腹であればあるほど、その国の国家主義的な病は、なべて重篤なようではある。まさに、オーウェルが『一九八四年』で極端化してみせたとおりなのだ。

 思えば私がこのブログを始めた動機は、この国の「国家主義的な病」をえぐり出すことであった。『一九八四年』の文を引用している記事もある。しかし私の『一九八四年』からの引用は決して「牽強付会」ではないと自負している。それは次の記事です。
『石原が恋い焦がれている「国家」』 (同じ文を
『大日本帝国皇軍の惨状』
でも用いている。)
『「君が代日の丸」が「考えるな、服従せよ」と恫喝する』

 続けて辺見さんは「国家主義的傾向が加速している」一例として「個人情報保護法」を取り上げている。

 その伝でいえば、日本もこのところ、国家主義的傾向が加速している。名称と実質がまるっきり異なる法案を、またぞろ政府が通そうとしているのだ。「個人情報保護法」が、それである。ほら、一見、ほんとうに良さそうな名称でしょう。ところが、全六十一条で構成されるこの法案、よく読むと、「個人情報の保護」どころか、戦後例を見ない規模の言論規制を細かに明文化しており、国家による社会全域の情報管理・統制をねらったものとしか解釈できないようなシロモノなのだ。

 同法案第五章の「個人情報取扱事業者の義務等」に注目したい。
① 個人情報を扱う事業者は利用目的を明確にし、本人にも通知しなければならない
② 第三者への提供が利用目的を超え、個人の権利、利益を侵害する恐れのあるときは本人の同意をえる
③ 第三者から情報を取得することが必要かつ合理的な場合を除き、原則として本人から同意をえる
④本人の求めがあれば、開示や訂正、利用停止、消去をしなければならない
―等々とある。悪徳名簿業者らの存在を前提にすれば、一応、なるほどという法案のようだが、かりに、私か政治家や官僚の不正疑惑について取材、発表しようとしたら、彼らにその目的を通知しなければならない、というわけだ。記事として発表するにも本人の同意が必要となる。さらに、本人から記事内容の訂正を求められたら、それに応じなければならず、拒否すれば主務大臣から勧告または命令がだされ、これに背けば、六ヵ月以下の懲役か三十万円以下の罰金刑に処せられる。これでは、ろくな取材も発表もできるわけがない。

 ただし、「放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関」が「報道目的」で個人情報を使用する場合は、右の規定は適用されない。国家権力に和解的で、体制内化したような大マスコミは、記者個人がよほど跳ね上がったりしなければ、お目こぼしというわけだ。いわゆる報道機関以外の「個人情報取扱事業者」が対象なのだが、これに明確な定義はなく、私のような作家やフリーライターはもとより、NPOもNGOも企業も市民運動組織も、要するに犬やハムスターなどを除けば、論理的には、だれもがこの法律の適用対象となる可能性がある。

 そのことも恐ろしいのだけれども、もっと戦慄するのは、この法案が、政府各機関、警察など公権力が抱えている膨大な個人情報に関して、保護義務を課していないということだ。国家はあらゆる個人情報を専有し、それをどのようにでも使用できる ―― と宣言しているようなものではないか。一説によると、法案の究極目的は、日々乱れ飛ぶインターネット情報の完全な国家管理だともいう。国家の統制機能というのが、過剰情報化社会という今日的風景に合わせ、不気味に強化され、拡大しつつあることは疑いない。

 これに対し、お国からお目こぼしの恩恵にあずかる新聞、放送メディアは、いまのところ、おありがとうござーい、というわけで、大きな反発を示していない。「報道と人権委員会」(これも、『一九八四年』的な、内容と裏腹の美名である)といった"報道検証機関"をこれ見よがしに設けたり、しきりに殊勝顔をしてみせて、全体としては、やるべき報道をやらない自己規制に傾いているメディアが増えている。げに、世も末である。

 「個人情報保護法」は2003年5 月23日に成立した。この「過剰情報化社会」の行き着いた地点が2015年に成立した「マイナンバー」制度だ。「マイナンバー」と言っているが、ここにも言葉の詐術がある。これは個人情報管理のために押しつけられた「ユアナンバー」だ。私はこんなもの使わないし「マイナンバーカード」の申請はしない。この問題については、「澤藤統一郎の憲法日記」のとっても為になるブログ記事を紹介しておこう。
『マイナンバー さわらぬかぎりは 祟りなし』

 さて、辺見さんの論考は次のように締められている。

 冒頭の引用に戻ろう。『一九八四年』が描いた全体主義国家では、報道や教育、娯楽、芸術は、すべて「真理省」の管轄である。わが方の情勢にぐいっと引きつけていえば、新聞もテレビも文部科学省も、「真理省」に属するというあんばいだ。そこでは、「真実」が国家管理下におかれ、政府に不都合な歴史的事実、統計などは、消去されたり、変造、捏造されたりする。個人が過去を正しく記憶したり、反省したりするのは「思想犯罪」にあたるのだ。一方、党員たちは、「二重思考」、すなわち「一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる能力」を身につけなければならない。白を黒といいはり、本気でそう信じるのは、大事な能力なのだ。言語も改造されており、「新語法(ニュースピーク)」ですべての表現を簡略化し、人間の意識、感情の量はできるだけ減らすべきこととされる。

 やはり、『一九八四年』の全体主義国家は、くやしいけれど、どこかの国に似ている。いや、どこかの国がこの小説に似てきているのだ。新聞社やテレビ局のビルの壁に、真理省のこんなスローガンが大書されていないか、われわれはいま、しっかり眼を凝らす必要がある。

 戦争は平和である
 自由は屈従である
 無知は力である
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