2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(8)

未必の故意の罪

【未必の故意(みひつのこい)】
 行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図ないし希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生する『かもしれないと思いながら、発生しても仕方がないと認めて、あえてその危険をおかして行為する心理状態。(「広辞苑」より)


 「倒錯」、「残忍」と右に書いた。それはしかし、彼ら戦争犯罪人たちだけのものではない。米英指導者により予告され、大禍をだれもが予想し、事前から具体的被害規模さえ計算されていたこの戦争犯罪を、確実に起きると知っていながら阻止できなかった、いや本気では阻止しようとはせずに、まるで集団処刑を遠巻きにするように環視した今日の社会もまた大いに倒錯的であり、たとえようもなく残忍なのである。いわば「未必の故意の罪」をわれわれは例外なく負うているといってもいい。風景は透明だが、ある意味で直接に人を殺害する以上に重い人道の罪が日本でもそれと知らず犯されている。

 たとえば、「テレビ東京系の株番組が開戦日に過去最高の視聴率を記録した」という何気ない記事(2003年3月31日、中日新聞)を読んで私は眩暈(めまい)さえ覚えた。法的には犯罪ではないし、むろん犯意はだれにもない。だが、より深いまなざしを注ぎ、よりつよい内省をするならば、これは人倫の根本を侵す残忍な罪であり倒錯でもあろう。人間集団の透きとおった倒錯、無痛かつ無意識の残忍性だからこそ罪深い。

 この文脈で、バクダッド猛爆の最中にさいたまスーパーアリーナで開催された格闘技戦に数万の観客が押しかけ、殴り合い、蹴り合いに熱狂し、これを放送したテレビ番組が29.1%もの瞬間最高視聴率を記録した事実も、倒錯とはなにか、残忍とはなにかを考察するうえで貴重である。この疑似イベントの放送時間帯に他のチャネルでは米英軍の正真正銘の大量殺戮を報じていた。同じ日、都内で行われた反戦集会には格闘技戦の数分の一程度の人々しか来なかったのだ。無意識の残忍と集団倒錯は社会のすみずみにまで広がっている。

 マスコミという「意識産業」は情報を消費する人びとの意識を収奪し、現体制を維持するために新しい意識を誘導していると喝破したのは1960年代初期のエンツェンスベルガーだったが、40年後の現在も事態は基本的に変わってはいないようだ。人びとは真正の出来事よりも疑似イベントに"リアリティ"を感じつつあり、またそうなるようにし向けられてもいる。疑似イベントは「リアル」をしきりに演出し、日本の戦争報道の一部はおおむね米国のフィルターを通して「リアル」を極度に薄める、というより「米国の正義」という途方もないフィクションをリアルに演出しようとするのである。

 余談だが、そうした質の報道がこのたびももっとも顕著なNHKの集金人が某日、大殺戮戦争の最中に私の友人の家を訪れ、受信料の支払いを求めた。友人は(集金人にぶつけても詮方ないと思うのだが)NHKワシントン支局長らのコメントをはじめとするいくつかのブッシュ政権寄り報道などを例に挙げ、報道が「公正を欠く」し「虫酸が走る」として支払いを拒否したところ、集金人は「あんたみたいな人が増えたら日本は北朝鮮のようになる」と捨てぜりふを残して退散したのだそうだ。軽度の倒錯はこの風景にもある。ただし、同支局長らの罪はさておき、日本国策放送協会に意識を収奪された薄給の集金人氏には、いうまでもなく本質的罪はない。

 日本の主要メディアの特派員らは本社の「慈愛に満ちた」業務命令を受けて、みなバグダッドから退去した。かわりに、下請けプロダクションやフリーランス記者らと契約して取材を肩代わりさせている。高給の自社記者の命は大切に、ろくな保障もない外部記者らの命など二の次という非情の構造のなかで現在の戦争報道はなりたっている。在バグダッドのフリーの記者らはいま、文字どおり死線をさまようがごとくの取材を余儀なくされている。大メディアのデスクらは安全圏に居すわり、フリーの記者らの情報を自社のそれのように伝えている。「人道」を語るメディアの無意識の残忍性がここにある。加えて、残虐な死体の映像は流さないという日本メディアの「人道的配慮」が非人道的殺戮への怒りを薄め、米軍のいう「きれいで迅速な戦争」という実際にはありえもしない宣伝の手助けをしているのである。いったい、メディアはかつてのベトナム報道や前次の湾岸戦争報道の過誤からなにを学びなにを教訓として受か継いだのだろうか。皆無ではないのか。

 経験の浅い記者が送稿したのであろうか、4月はじめに朝日新聞に大きく掲載された「従軍取材自問の日々」という記事を読んで絶句した。疑いもなくこの記者は率直で正直で良心的である。それは裏を返せば、言葉のもっとも悪い意味でナイーブにすぎ、哀しいほど不勉強でもあるということだ。記事によると、彼は同行した米海兵隊とは別の米軍部隊がイラク軍陣地を迫撃砲で攻撃し、それが命中したのを見て、まわりの米兵らとともに思わず「歓声を上げ」たと告白している。一方で、
「私は中立であるべきジャーナリストであり、攻撃の成功を喜ぶべきではない」
「しかし、『やった』という感情は無意識のうちにわき上がった」
と悩む。しまいには
「今回の戦争をどう考えるか、という結論を私は出せずにいる。米国にもイラクにも問題がある、ということまでしか言えない」
とまことに素朴に述懐するのである。年季が浅いということだけで、これは済む話ではない。記者が「ストックホルム症候群」に陥っているのではシャレにもならないのではないか。

(注)ストックホルム症候群
 被害者が加害者に同情や連帯感をもつこと。1973年にストックホルムの銀行に強盗が入り一週間にわたり職員らを人質に立てこもった際、こうした現象が起きたという。


 私もかつてソマリアで米軍側から戦闘を取材したことがある。だが、「武力による平和の執行」と称して人を殺す米軍の作戦行動には激しい怒りを覚えるのみで一瞬たりとも共感したことはない。「中立であるべきジャーナリスト」とは果たしてだれが教えたのか。「中立」とは狡猾な政治的概念なのであり、記者が戦争や人道を表現するときの普遍概念ではありえない。まして、圧倒的な兵力が一切の国際法を無視して侵略を強行し、無辜(むこ)の人びとを殺しつづけているとき、記者にいかなる「中立」がありえるのか。末尾の「判断保留」にも驚き入るほかない。同紙の読者のほとんどはつとに「結論」をだし、米英への怒りを露わにしているのである。メディアの度しがたい錯誤がここにもある。

 ポチ・コイズミはイラク特措法に基づく自衛隊の派遣地について、国会で「自衛隊がいるところが非戦闘地域」「どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない」という無責任極まる答弁をしている。現在南スーダンに派遣された自衛隊の任地についても「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」政権が「戦闘行為ではなく散発的な衝突」などといった詭弁を繰り返している。

 戦争で死ぬのは直接戦闘に立ち会った者だけではない。間近に戦争を体験したトラウマの所為で自死する人たちもいるだろう。イラク特措法に基づき派遣された隊員のうち在職中に死亡した自衛隊員数(2007年10月末現在)を防衛省が発表している。

陸上自衛隊 14人(うち自殺7人、病死1人、死因が事故又は不明6人)
海上自衛隊 20人(うち自殺8人、病死6人、死因が事故又は不明6人)
航空自衛隊 1人(うち自殺1人)

 これらの人たちの死因が間近に戦争を体験したトラウマの所為かどうかは即断は出来ないが、『イラク派遣隊員29人が自殺 帰還隊員らが語ったPTSDの恐怖』(週刊朝日 2015年8月28日号)が次のように報じている。
『10万人当たりで換算すると、陸上自衛隊のイラク帰還隊員の自殺者数は38.3人。これは、一般職の国家公務員の21.5人、自衛官全体の33.7人(いずれも13年度)に比べても高い値だ。』
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