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383 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(37)
「ヤマト王権」の出自(5) ― 失意の兄弟
2005年9月5日(月)


 「高千穂の宮」の所在地は宮崎県でない。これまでの定説をくつがえすこの結 論に、古田さん自身がびっくりしている。
 この帰結にわたしは戦慄した。それはあまりにも、わたし自身の「予想」を 越える事態だったからである。そこで〝「高千穂の宮」というのは、「高い立 派な宮殿」という意味の普通名詞ではないだろうか″などと考えまどうた時期 のあったことを告白しよう。要するに、それによって神武の場合、「高千穂の 宮」を「日向」(宮崎県)に求めようとしたのだ。
 しかし、後代の先入観や予見を排し、原文面の表記のルールに従う、という、 わたしの根本の方法論は、ついにこのような逃避の道を許さなかった。

 「原文面の表記のルールに従う」方法によって、古田さんさらに次のような 注目すべき事柄を読み取っている。

第一
 「高千穂の宮」ではイワレヒコらが「天下を統治」していた場所とは書かれていな い。その地に自分たちが入り込める可能性がないことに危機意識を抱いて、 、イワレヒコと長兄・イツセが「どこか他の地へ新天地を求めよう」と語り 合った場所として描かれているだけだ。

 それなのに、天皇家をもって「日本列島永遠の主権者」と信じた宣長は、 「高千穂の宮」における〝神武らの統治″を疑わなかった。そしてその点、 現代までのすべての学者もまた、いわば〝宣長の亜流″でありつづけてきた、 といわざるをえないのではないだろうか。″宣長は『古事記』の記事をその まま事実と信じ、かつ主張した″と、よくいわれる。しかし、宣長は思想的 立場、すなわちイデオロギーからして、〝『古事記』のいわざるところ″ にまですすみ、もって後代の定説を支配してきた。-わたしの目には、その ように見えたのである。

第二
 では、なぜイワレヒコは「高千穂の宮」にいるのか。この宮に各地 (九州及び瀬戸内海西域)からの「豪族」が参集していた。その中の 一人としてやてきていたのだ。。一応は「天照大神→二二ギノ命」の 血統をひく一族として参加資格を主張していただろう。しかし、山幸 の漂泊時の子の系列、つまり傍流あるいは分流だとみずから主張して いたのだから、当然、ここで「天下統治」などするはずはなかった。

第三
 イワレヒコらはここ(高千穂の宮)で、なにを見たのか。それは語られ ていない。しかし、明らかにその見聞の結果、「どこか他の所へ移動しなけ ればだめなのでは」と戸惑い、「新天地を求めよう」という決意をもつに いたる経過が書かれている。

 ここでは、「 」内の部分において、直接法に似つかわしからぬ、一種の 「敬語法」が使われている。
  「何の地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ」
 これは後代(7,8世紀)の近畿天皇家の史官が後来の神武天皇〔橿原宮 (かしはらのみや)の即位者〕にふさわしく書き改めた、大義名分上の イデオロギー的表記なのである。実態は、さきにのべたような〝失意の青 年の率直な惑い″を表現しているにすぎぬのだ。
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