2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
382 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(36)
「ヤマト王権」の出自(4) ― 高千穂の宮はどこか
2005年9月4日(日)


 イワレヒコの誕生で記紀の「神代」の巻は終わる。これからイワレヒコの説話 の解読に入ることになるが、『イワレヒコとその後八代のヤマト王権の説話は 虚構』というのが「定説」だ。従っていわゆる「神武東征」についてもさまざ まな説が成されている。古田さんはそれらの説一つ一つを反論しているが、それ は必要に応じて紐解くことにして、ともかく「イワレヒコ説話」の解読を読んでいく ことにする。

 神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄(いろせ)五瀬命と二柱、高千穂宮に坐(ま) して議(はか)りて云(の)りたまひけらく、「何地(いずこ)に坐さば、平 らけく天(あめ)の下の政(まつりごと)を聞し看(め)さむ。猶東に行か む。」とのりたまひて、即ち日向より発(た)たして筑紫に幸行(い)でましき。 (『神武記』岩波、日本古典文学大系本)

 「神武記」の冒頭は従来このように読まれてきた。この読みについて 古田さんは原文「猶思東行」を「猶東に行かむ」と「思」字を省略して読 んでいることを問題にする。

 これは宣長が「別に思ノ字をば読むべからず」(『古事記伝』十八)とい ったのに、後代の学者たち(岩波文庫本、角川文庫本も同じ)は従っている のである。これを「猶、東に行かんと思ふ」と読んだのでは、直接法「 」 内の文章として、なにか〝落ち着かない″のだ。だから、切り捨てたのであ る。
 だが、わたしの読み方からすると、〝この一字が邪魔になる。だから読ま ない。″これは正当な態度とはいえない。やはり、この「思」字が〝変でな い″ような読み方をすべきなのだ。

 古田さんはこの「思」という字の『古事記』での用例を調べあげている。 その結果『「直接法の中の第一人称の意志」(I will,we will)の用法 』はなく、『「思」の主語は第三人称(he,she,they)なのだ。』と結論 している。つまり、この一句は地の文であり、次のように読む。

 神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂の宮に坐して、議し て云ふ。「何の地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ」と。猶東 に行かむと思ひ、即ち日向より発して、筑紫に幸行す。

 つまり、高千穂の宮で〝もう、ここにはいられない。どこに行ったらいい だろう″という話がはじまったのだ。そしてその後、「やはり東へ行こう」と いう意思が生まれ、その実行として日向を発して筑紫に向かうこととなった、 というのである。

 このように、いささかうるさく文脈の解読の正確を期したのには、理由が ある。
 従来は、右の「高千穂宮」を自明のこととして南九州の「日向国」にありと してきた(五ヶ瀬川の上流に高千穂町、高千穂峡があり、鹿児島県と宮崎県の 県境に高千穂峰がある。また宣長はこれを「大隅国」にありとし、そこも 「日向」と見なした)。
 しかし、『古事記』の表記のルールを一貫して辿ってき、確かめてきた今、 そのように見なすことは決してできない。なぜなら、「神武記」(中巻冒頭) のこの文の直前に当る、「神代記」(上巻末)の末尾につぎの文があった。

 故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳坐しき。御陵は即ち其の高 千穂の山の西に在り。

 この「高千穂の宮」について、わたしは筑紫(筑前)内と解した。その理由 は、一に日子穂穂出見命(山幸)は海神の宮への漂泊ののち、故国(筑紫) へ帰ったと記され、〝その後の出国″を記さないこと。二に、山幸の父、 二二ギノ命の項の「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」 (天孫降臨の地)の記事と分離して読むことはできないこと。この二 つだった。
 そうしてみると、その直後に出てくる、この神武記冒頭の「高千穂の宮」 (この宮の名の出現は『古事記』全篇の中でこの二箇所だけだ)を、別の場所 の、別の宮殿と解することは、いかにも不自然なのである。つまり、〝同じ 名前の両宮殿は、同一宮殿だ″――この率直な理解に立つとき、その帰結は、 意外な事実をさし示す。それはこうだ。

〝神武と兄とが話し合ったのは、筑前(糸島郡、もしくは博多湾岸)の宮殿に おいてだった″と。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
山陰の候補例
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
2008/10/18(土) 00:23 | URL | 大和島根 #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/221-c4519efb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック