2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
(第一次安倍内閣の発足は2006年9月26日だった。勿論この頃から安倍は「無知にして無恥」だった。「美しい日本を取り返す」はこの時からの彼岸だった。では、この「無知にして無恥」な総理大臣の頭の中にある「美しい国」とはどんな国なのだろうか。「戦後レジームからの脱却」などと叫んでいるから戦前・戦中の日本国を指しているのだろう。10年ほど前、私はこうしたスローガンが「無知にして無恥」な結果の所産だと思っていたのだろう。2007年3月25日~27日の今日の話題はそれをテーマにしている。「無知にして無恥な歴史認識」というカテゴリをもういけて掲載し直すことにする。)

2007年3月25日(日)
軍神の母

 大日本帝国は敗戦が決定的となったにもかかわらず、国体護持の思惑ゆえに降伏を長引かせ、破れかぶれの無謀な作戦を立てては若者たちを死へと駆り立てていった。その無謀な作戦の典型が神風特別攻撃隊であり、人間魚雷回天であった。

 「天皇陛下バンザイ!」といって死んでいったものはいない、みな「おかあさん!」と言って死んでいったと、誰からか、少年の頃に聞かされたことがある。

 佐高信さんの『許されざる者、筆刀両断』で、『「軍神の母」と喧伝された』特攻隊員の母親・加藤まさ(仮名)さんの悲痛なエピソードに出合った。吉武輝子著『死と生を見すえて ー 娘あずさへの手紙』で知ったものだという。

 軍人一家の長男に嫁いだ彼女は、続けて三人、女の子を生み、男がほしかった加藤家の者たちに舌打ちされた。ようやく四番目に男子が生まれ、掌を返したように喜ばれたが、彼女はその息子を立派な軍人に育てるべく、厳しく教育した。

 中国とだけでなく、アメリカとも戦争することになった日本は、やがて、特攻という作戦とも言えない作戦を開始する。

 加藤まささんの息子もそれに出発する前、最後のあいさつに帰宅した。その息子に彼女は、先祖伝来の短刀を渡し、
「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」
と告げる。

 捕まるくらいなら自決せよということである。そんな〝護国の鬼″と化した母親に、息子はまるで上官に対するような敬礼をし、戦場に発って行った。22歳の誕生日を迎えたばかりだったという。

 そして一週間後、玉砕の知らせが届く。
「後に続く者を信ず」
これが遺書と伝えられた。

 しかし、敗戦後、息子の戦友だったという若者が訪ねて来て、母親は「もう一つの遺書」があったことを知る。

 仏壇に供えられたそれを開いて、彼女は慟哭した。そこには、震えるような文字で、
「僕はただ、母さんに抱いてほしいと願っていただけなのです」
と書いてあったからである。

 彼女はその後、88歳で亡くなるまで、「わが子の命を奪うことに手を貸してしまったという痛恨の思い」から逃れることができなかった。

 せめてもと、特攻の残骸を求めて南の島々を行脚し、それを見つけると、まるで、わが子を抱きしめるように、かき抱いたという。

 私が知っていた無謀な作戦は神風特攻隊と人間魚雷回天であったが、さらにむちゃくちゃな作戦があったことを知った。その名は人間潜水艦「伏龍」。次回で詳しく取り上げよう。
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