2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
2007年3月13日(火)
右翼イデオローグの理論レヴェル(3)

 ヤギ理論の批判はサラッと1回で終えるつもりだったのが、次から次と言いたいことが出てきて思いがけず長くなってしまった。あとどのくらい続くか分からない。チョッとしんどいなあ、という気分もある。が、乗りかかった舟、最後まで行ってみよう。

(5)今の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「決意」という言葉が二回出てくる。過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落していることの表れです。

 「過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落している」の主語は誰でしょう。文脈から「われら」すなわち憲法前文全体の主体たる国民ということになる。これもヤギ先生の言わんとするところを斟酌申し上げると、「過去を否定し」という物言いから「自虐史観者」を指しているようだ。

 しかし、憲法の「われら」や「自虐史観者」は「過去を否定し」ているのではない。過去をしっかりと見据えているからこそ新憲法が制定され、それを保持しようとしている。(私個人としては天皇条項を除いてという条件付の支持だ。)過去をしっかりと見据えることはちっとも「自虐」ではない。

 歴史を直視することに堪えられず、「過去を否定し」隠蔽し捻じ曲げることこそ「自虐」というにふさわしい。そうした「自虐」者はその代償に自慢すべきことを欲する。どうしても「自慢史観」が欲しい。それで探し当てたのが「自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄」というわけだ。

 それぞれの国にそれぞれの「国柄」がある。そこに生を営む者にとってそれは肯定的に護っていきたい部分もあるし、変えていきたいものと批判的なる部分もある。そして実際にそれらは不変ではなく時代とともに進歩あるいは退歩する。

 どこの「国柄」が優れているとか劣るとかの比較は無用だし、そんな比較になんの意味もない。それでもことさらに自慢したければ自慢してもいささかもかまわない。しかしあくまでも個人的な問題だ。その「自慢」を憲法の前文に掲げるというのはなんともトンチンカンな話だ。憲法というものを勘違いしている。憲法学者ヤギは、科学的な国家論を欠く上に、近代国民国家における憲法の意義をもまったく誤解している。ナカソネ私案も自滅党案も、保守反動派の改憲案は同じ誤解の上に成り立っている。憲法は国民が国家のあり方を規制・拘束するものではなく、国家が国民を規制・拘束してお説教を垂れるものだと思っている。そんな改憲は全面否定するほかない。

(追記 2016年12月21日)
 現憲法を「押しつけ憲法」と裁断することができない事実をもう一つ知った。

 『囚われたる民衆』で利用した「『天皇制』論集」に公法研究会による「憲法改正意見」という論文があった。この論文の前文には次のよう書かれている。
「(憲法は)施行二年目までに日本人民の手で再検討が加えらるべきものであることは、公布当時、極東委員会の見解として新聞紙上に伝えられたところである。ところが遺憾ながら、今までのところでは日本人民の間から改正意見が活発に表明されているとはいえない状態である。」

 ここに出ている「極東委員会の見解」を知りたいと思い検索をしたら『「押しつけ憲法論」は成り立ち難い』さんが取り上げていた。転載しておこう。

 現行憲法の公布は1946年11月3日のことでした。そして、その憲法が施行に移される年の1月3日に当時の総理大臣吉田茂はマッカーサーから次のような書簡を受け取りました。

親愛なる総理
 昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはならないと考えている。
 憲法に対する審査の権利はもちろん本来的に与えられているものであるが、私はやはり貴下がそのことを熟知されるよう、連合国のとった立場をお知らせするものである。
 新年への心からの祈りをこめて
                  敬具

ダグラス・マッカーサー
袖井林二郎「マッカーサー=吉田往復書簡(一)」『法学志林』77巻4号(古関彰一「新憲法の誕生」中央公論社から孫引き)

 マッカーサーは単に「連合国の決定」と書いていますが、これは実際にはこの前年1946年10月17日のFECの「憲法の再検討規定に関する極東委員会決定」のことです。

 古関の「新憲法の誕生」によれば、この決定の公表に対してはGHQのみならずアメリカ本国政府にも根強い反対があったということです。マッカーサー書簡の文面からは読み取れませんが、FECの決定だから不承不承通知をしたということかもしれません。

 憲法第14条の「法の下の平等」に関連して刑法から「大逆罪」や「不敬罪」といった皇室に対する罪が削除されることになったとき、これにもっとも強く抵抗した吉田茂ですから、マッカーサーのこの書簡は渡りに舟だったはずなのですが、なぜかこの書簡にはそっけない返事を返しただけでした。

親愛なる閣下
 一月三日付の書簡たしかに拝受致し、内容を仔細に心に留めました。
    敬具

  吉田 茂
 吉田茂は、2年目の期限間近の1949年4月末の国会答弁でも「極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と答弁しています。(書簡、国会答弁、ともに、古関「新憲法の誕生」から)

 吉田は憲法に対しては、ついに「押しつけ憲法論」の立場をとらなかったといいます。1946年5月22日から翌年の5月24日まで総理の職にあり、憲法の国会審議・公布・施行に至る全過程を見てきた経験から見れば、「押しつけ憲法論」など、ばかばかしくて取り上げる気にもならなかったのかもしれません。

 「施行二年目までに日本人民の手で再検討が加えらるべきもの」とされといたのに、国会も学者たちも全くこれを無視していたのだ。つまり日本人民は新憲法をそのまま歓迎していたことを示している。公法研究会の論文が書かれた日付は1949年3月20となっている。憲法が施行されたのは1947年5月3日だから憲法の再検討をすべき期限が押し迫っていた。

 公法研究会の前文は次のように続いている。
「 われわれ公法研究会の会員は、昨年春以来、憲法の研究に従事して来たが、その際一番問題になったのは、現在広く行われている解釈の中に、ポツダム宣言の精神に違反すると思われるもの、従って現在の日本の政治的構造の基本規定と認め難いものか少なからず存在するということであった。われわれの研究の成果は何れ機をみて発表したいと考えるが、とりあえず、その一端として、われわれの問題にしたところを憲法改正意見として公にし、一方では右のように解釈上異論の起る余地をなからしめると共に、この二年間の日本人民の政治的成長に鑑みて、憲法を少しでもポッダム宣言の今日における意義に適するように改めたいと考えた。これが改正意見の極めて簡単な要旨を、しかも憲法第三章までの部分だけを、取急いでここに発表する理由である。これによって憲法を、自分自身の問題として絶えず真剣に考えてゆくというわれわれ日本人民の権利が、正しく行使されることになるであろう。各方面からの忌憚のない批判を期待したい。」

(機会があれば、公法研究会の「改正意見」を転載しようと考えています。)
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2204-7274eac7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック