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2007年3月11日(日)
右翼イデオローグの理論レヴェル(2)
(1)現行憲法は、敗戦の産物として日本の歴史から切り離されて生まれたものです。
大日本帝国の敗戦はまぎれもなく日本の歴史上の一大事件だ。その敗戦を契機に新しく制定された憲法を「日本の歴史から切り離されて生まれたもの」と断ずるとはなんともトンチンカンな論理だ。
文脈に沿って好意的に解釈してみよう。
(2)前文では、米国の独立宣言とそのベースとなった(英国の哲学者)ジョン・ロックの「市民政府論」を借用し、個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくったという論理を展開している。
と言っているところから推測すると、欧米の国家理論を下敷きに創られたものだから「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。本当はお得意の決まり文句「押しつけ憲法」と一刀両断に切り捨てたいところだろう。最近はこの決まり文句は威力がなくなってきている。憲法が制定されるまでの経緯がより正確に研究されてきて、単純に「押しつけ憲法」と裁断することができないことが明らかになってきた。(例えば《米国の属国・日本》(8) 、『囚われたる民衆』 参照して下さい。また、単純に「押しつけ憲法」と裁断することができない証拠をもう一つ知りました。次回追記として紹介する予定です。)
もしも、『欧米の国家理論を下敷きに創られたものだから「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。』という私の読みが当たっているとすれば、これもおかしな論理だ。それじゃ、大日本帝国憲法も否定せずばなるまい。あれはドイツ帝国憲法を下敷きにしている。
ヤギ先生のご専門は憲法学と思想史だそうだ。「米国の独立宣言」とかロックの「市民政府論」とかをもち出してその大いなる博学振りを披露しているが、「個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくった」とはあきれたね。憲法学者の言とはとても信じられない。せめて「個々人の生命、自由、財産を守るために」憲法を制定したというべきでしょう。しかし、日本憲法前文をどう読んでも「個々人の生命、自由、財産を守るために」憲法を制定したなどどいうハスッパな解釈は出てこない。それらしいくだりを引き出すと「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とか「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とかだろうか。一部分だけを抜き出して恣意的に解釈するという詭弁はポチ・コイズミが自衛隊のイラク派遣時に使っていた。辺見庸著「抵抗論」から。
さて、ヤギ先生はどうしてこういう詭弁を羅列せざるを得なくなるのか。事実からものごとを考えるのではなく、はじめに所与の観念(しかも普遍性のない間違った観念)があり、事実をその観念に合わせようとするからだ。どんな観念論的学者にも学ぶべきものがあるものだが、このセンセイからは全く期待できないだろう。
「個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくった」という浅薄な前文解釈は次の文章を引き出すためであった。
(3)しかし、それでは国防は説明できない。国防とは、国民が生命さえ犠牲にして国家の連続性を確保することだからです。
つまり国防とは「個々人の生命、自由、財産を守る」ことではなく、「国家の連続性を確保すること」であり、そのために国民は命を投げ出せ、というわけだ。これも実に珍奇な国防論だ。国民が命をささげるべき「国家の連続性」って、一体なんだ。
(4)前文では自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄を表現するべきです。連続する国の姿をうたう。そうでないと「守るべき国とは何か」が分からなくなります。
「自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄」が「連続する国」だと言う。今までにも何度か指摘してきたことだが、全ての御用学者・右翼イデオローグが国家を語るときに共通の詭弁・論理的詐術が行われている。いや、本人たちは詭弁だとは思っていないのかもしれない。真っ当な理論だと思っているのだろう。
「国家の連続性」の「国家」が、「連続する国」と「国」にすりかわっている。意識的な詐術でないとしたら、科学的国家論を欠くための理論的混乱だ。このような通俗的な国家観でよくまあ憲法学者が務まるものだ。
近代国家による戦争はあくまでも国家間の戦争だ。昭和の15年戦争は大日本帝国の戦争であり、大日本帝国という国家は敗北して消滅した。国家は決して連続などしていない。しかし、その敗北にもかかわらず、このヤポネシア列島の自然と、そこに生を営む人々の「歴史、伝統、文化、宗教」は滅ぶことなく伝えられ、発展し、生まれ変わっていく。国家が滅びても国は残る。「国破れて山河あり」とはそういうことだ。太古の昔からそうである。
もちろん、大日本帝国のしでかした歴史は、生まれ変わった日本国が継承し、その責を担わなければならない。そういう意味でなら「国家」も連続している。
(5)今の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「決意」という言葉が二回出てくる。過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落していることの表れです。
珍奇な論理のオンパレードだな。「決意」という言葉が2回でてくることが「当事者意識が欠落している」証拠だそうだ。じゃ、1回なら「当事者意識が欠落して」いないの? 3回ならどうなの? というようなつまらぬ揚げ足取りをしたくなるようなもの言いだな。
ヤギ先生の「国家の連続性」の継承には「決意」ではなく「強制が不可欠」だそうだ。なるほど、当事者意識に満ち溢れている。
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右翼イデオローグの理論レヴェル(2)
(1)現行憲法は、敗戦の産物として日本の歴史から切り離されて生まれたものです。
大日本帝国の敗戦はまぎれもなく日本の歴史上の一大事件だ。その敗戦を契機に新しく制定された憲法を「日本の歴史から切り離されて生まれたもの」と断ずるとはなんともトンチンカンな論理だ。
文脈に沿って好意的に解釈してみよう。
(2)前文では、米国の独立宣言とそのベースとなった(英国の哲学者)ジョン・ロックの「市民政府論」を借用し、個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくったという論理を展開している。
と言っているところから推測すると、欧米の国家理論を下敷きに創られたものだから「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。本当はお得意の決まり文句「押しつけ憲法」と一刀両断に切り捨てたいところだろう。最近はこの決まり文句は威力がなくなってきている。憲法が制定されるまでの経緯がより正確に研究されてきて、単純に「押しつけ憲法」と裁断することができないことが明らかになってきた。(例えば
もしも、『欧米の国家理論を下敷きに創られたものだから「日本の歴史から切り離されて」いると言いたいらしい。』という私の読みが当たっているとすれば、これもおかしな論理だ。それじゃ、大日本帝国憲法も否定せずばなるまい。あれはドイツ帝国憲法を下敷きにしている。
ヤギ先生のご専門は憲法学と思想史だそうだ。「米国の独立宣言」とかロックの「市民政府論」とかをもち出してその大いなる博学振りを披露しているが、「個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくった」とはあきれたね。憲法学者の言とはとても信じられない。せめて「個々人の生命、自由、財産を守るために」憲法を制定したというべきでしょう。しかし、日本憲法前文をどう読んでも「個々人の生命、自由、財産を守るために」憲法を制定したなどどいうハスッパな解釈は出てこない。それらしいくだりを引き出すと「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とか「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とかだろうか。一部分だけを抜き出して恣意的に解釈するという詭弁はポチ・コイズミが自衛隊のイラク派遣時に使っていた。辺見庸著「抵抗論」から。
さて、ヤギ先生はどうしてこういう詭弁を羅列せざるを得なくなるのか。事実からものごとを考えるのではなく、はじめに所与の観念(しかも普遍性のない間違った観念)があり、事実をその観念に合わせようとするからだ。どんな観念論的学者にも学ぶべきものがあるものだが、このセンセイからは全く期待できないだろう。
「個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくった」という浅薄な前文解釈は次の文章を引き出すためであった。
(3)しかし、それでは国防は説明できない。国防とは、国民が生命さえ犠牲にして国家の連続性を確保することだからです。
つまり国防とは「個々人の生命、自由、財産を守る」ことではなく、「国家の連続性を確保すること」であり、そのために国民は命を投げ出せ、というわけだ。これも実に珍奇な国防論だ。国民が命をささげるべき「国家の連続性」って、一体なんだ。
(4)前文では自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄を表現するべきです。連続する国の姿をうたう。そうでないと「守るべき国とは何か」が分からなくなります。
「自然、歴史、伝統、文化、宗教といった国柄」が「連続する国」だと言う。今までにも何度か指摘してきたことだが、全ての御用学者・右翼イデオローグが国家を語るときに共通の詭弁・論理的詐術が行われている。いや、本人たちは詭弁だとは思っていないのかもしれない。真っ当な理論だと思っているのだろう。
「国家の連続性」の「国家」が、「連続する国」と「国」にすりかわっている。意識的な詐術でないとしたら、科学的国家論を欠くための理論的混乱だ。このような通俗的な国家観でよくまあ憲法学者が務まるものだ。
近代国家による戦争はあくまでも国家間の戦争だ。昭和の15年戦争は大日本帝国の戦争であり、大日本帝国という国家は敗北して消滅した。国家は決して連続などしていない。しかし、その敗北にもかかわらず、このヤポネシア列島の自然と、そこに生を営む人々の「歴史、伝統、文化、宗教」は滅ぶことなく伝えられ、発展し、生まれ変わっていく。国家が滅びても国は残る。「国破れて山河あり」とはそういうことだ。太古の昔からそうである。
もちろん、大日本帝国のしでかした歴史は、生まれ変わった日本国が継承し、その責を担わなければならない。そういう意味でなら「国家」も連続している。
(5)今の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「決意」という言葉が二回出てくる。過去を否定し、自分たちで国を守るという当事者意識が欠落していることの表れです。
珍奇な論理のオンパレードだな。「決意」という言葉が2回でてくることが「当事者意識が欠落している」証拠だそうだ。じゃ、1回なら「当事者意識が欠落して」いないの? 3回ならどうなの? というようなつまらぬ揚げ足取りをしたくなるようなもの言いだな。
ヤギ先生の「国家の連続性」の継承には「決意」ではなく「強制が不可欠」だそうだ。なるほど、当事者意識に満ち溢れている。
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