2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
418 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(70)
日出ずる処の天子(1)
2006年1月8日(日)


 教えられたままにほとんど疑うことのなかった「定説」の数々が、古田さんによって、虚偽であったことを知った。その中で私が最も驚かされた「定説=虚偽」は「日出ずる処の天子=聖徳太子」である。もう一つ、それと関連する「定説=虚偽」がある。「遣隋使=小野妹子」。実はヤマト王権は遣隋使など派遣していない。
 もっとも聖徳太子が「天子」を自称していることには疑問はあった。聖徳太子は天子になったことはない。その当時の天子は推古天皇で、聖徳太子はその輔弼に過ぎない。
 私は高校で教えられた通り、教科書の記述をそのまま鵜呑みにしてきた。教科書は「定説」の論拠(出典)を示さないが、暗黙のうちに学者を信じていた。
 その出典(「隋書」イ妥国伝)を知った今、直接それ(岩波文庫版)を読んでみた。一読、素人の私にも「日出ずる処の天子=聖徳太子」という定説に対して無数の疑問符が次々と湧き上がってくる。

 岩波文庫版では「イ妥」をすべて「倭」と訂正?している。史書を勝手に訂正?してしまうこの習性は度し難い。その「原文読み下し文」や「口語訳」に於いても、その解説や註には「AはBの誤りであろう」とか「~ではあるまいか」とか「~とでも解すべきか」とか、なんとも歯切れの悪い解説・註が続く。すべて「日出ずる処の天子=聖徳太子」という「定説」に縛られているためである。この定説を捨てるや否や、全てが明々白々となる。

 さて、316年の西晋の滅亡以来、南北対立を続けてきた中国は隋(文帝)によって統一された。隋王朝(文帝・煬帝(ようだい)・恭帝の三代)は581年~618年のわずか 37年間だが、『「隋書」イ妥国伝』が語るところは質的に豊かだ。

 イ妥国とはどこか。「イ妥国伝」は次のように書き始められている。


 イ妥国は百済・新羅の東南に在り。水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依って居る。魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す。……其の地勢は東高くして西下り、邪靡椎に都す、則ち魏志の所謂邪馬臺なる者なり。古より云う、「楽浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東に在り、?耳(たんじ)と相近し」と。


 『「隋書」イ妥国伝』が伝える「イ妥国」とは3世紀以来の「卑弥呼の国」と同じだと言っている。またその地理風土の説明では次のような件がある。


 阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭を行う。
 明年(大業4=608)、上(隋の煬帝)、文林郎裴清を遣わしてイ妥国に使せしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南、?羅(たんら)国を望む。都斯麻(つしま)国を経るに、?(はる)かに大海の中に在り。又、東、一支国に至る。又、竹斯(ちくし)国に至る。又、東、秦王国に至る。其の人、華夏に同じ。以て夷洲と為すも、疑いて明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東、皆イ妥に附庸す。


 近畿地方の地理説明は皆無だ。
 古田さんは克明に論証をしているが、私には上の文だけ充分だ。この「イ妥国」の治者はヤマト王権ではなく九州王朝であることを確信する。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック