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2007年2月16日(金)
高野岩三郎著「囚われたる民衆」(1)

(読みやすいように新たに段落を設けたり、段落間を行空けしました。)

囚われたる民衆
            高野岩三郎


 アメリカ連合軍司令部の眼には、わが国民はほとんど済度し難い囚われた民衆であるように映ずると想像されるのであるが、私自身の眼にもはなはだしく鳴滸がましい言い分であるが、また同様に写るのである。それは何故!? この点に関してまずしばらく私ども一家の経歴について言説するを許されたい。

 ここで私どもというのは亡き兄高野房太郎と私との両人を指すのである。約十年前私は、当時大阪市天王寺畔に在った大原社会問題研究所内の講堂において「本邦最初の労働組合運動」と題して亡兄の労働組合運動について一場の講演を試みたことがあったが、昨昭和20年12月、また大阪に毎日社の主催にかかる「毎日文化講座」において私の少年時代の回顧を談じ、始めにおいて同様の話をした。その速記はおそらく近日同社より公けにされるはずであるから、詳細はそれについて承知されたい。

 講演の趣旨は高野房太郎の組合運動たるや、労働組合の理論および意義に共鳴しつつも、単に時世の波に便乗しいわば興味本位に努力したものにあらずして、同人の社会的および個人的境遇よりして、自然発生的に没頭するに至ったものであるという点を解明するにあったのである。

 そもそも私ども両人は共に明治の初年長崎市に生まれた。兄は明治元年、私は明治4年、市の中心銀星町の一町家に生を享けた。

 元来長崎はいわゆる天領すなわち旧徳川幕府の直轄地である。したがって大村藩・佐賀藩というがごとき旧藩主その下に立つ藩士の階級存在せず、いわば束縛なき一自由都市たる観があった。しかもまた開港市であり、支那人、オランダ人、ポルトガル人、ロシア人等の多数外人との交流繁き国際都市であった。それにまた私どもの生まれ落ちた家族は職人階級に属していた。父は和服裁縫師、母は米小売商人の娘であった。すなわち私どもは国際的自由都市の職人仲間の町家の家庭に生まれたわけである。

 しかるに父の長兄高野弥三郎なる者は、明治の初年郷里を出でて横浜におもむき、当時岩崎弥太郎の創立した三菱汽船会社の傘下における一回漕店を始めたのであるが、事実隆盛にして協力者を必要とするに至りしかば、私ども家族を長崎より呼び寄せることとなった。そこで私どもの両親は私ども両人に長姉を加わえ家族合わせて五人にて父祖以来長く住み馴れた郷里を後にして東京に上り、神田区浅草橋畔、神田久右衛門町に落ち着き、万事叔父の世話を受けて回漕店兼旅人宿の営業を営なむこととなった。私どもの小学校教育は共に近くの千代田小学校に受けたのである。

 かくて国際的自由都市の中心において町人の家に生まれた私どもは、さらに東京の真中で下町ッ子として不規則極わまるしかも奔放闊達なる教育のうちに育て上げられた次第であって、私どもの独立自由・負けず嫌いの強きを挫き弱きを助けるという幡随院長兵衛的気象はこの境遇環境の中よりおのずから養成されたものであろうと、自認せざるを得ないわけである。

 かくて私どもは比較的順境のうちに小児時代を経過したのであるが、好事魔多し、明治12年虚弱なりし父は齢39歳をもって死亡した。しかし37歳の若さで未亡人となった母は健康無比かつ男勝りの婦人であったので、叔父の援助の下に姉と二人して家業を継続せしが、明治14年神田松枝町の大火災 - 一万二千軒を一嘗めした大火災 - のために家は焼け蔵は落ち私ども親子四人は素裸の姿となって街頭に放り出されたのである。

 しかるに叔父はあくまで私ども一家の面倒を見、類焼後間もなく日本橋浪花町に家屋を建築して従来の旅人宿営業を継続せしめた。兄は小学校八年の課程を修了して卒業後叔父の横浜の店におもむき店員として従事したるが、明治18年この大黒柱たる叔父は急死した。かつその前年長姉は良縁を得て遠く九州唐津在に嫁したれば、無資産同様のわが家計を支え母と私の二人を扶養するの責は兄の肩上に懸かることとなったので、兄は奮然志を立てて明治十九年北米サンフラソシスコに渡り、微々たる日本品商店を開きしが、いくばくもなく失敗に終わり、明治20年一旦帰朝しおもむろに再挙の策を講じようとした。

 しかるにその間私は僥倖にも第一高等中学校の試験に及第して同年9月予科三級に入学するを得た。しかしこれは母の扶養に加えて私の学資を支弁するの責を兄に負わしめることとなったのである。ここにおいて兄は同年末再び米国に渡ったが、爾来十年間苦心惨憺、米国の各地に転々してあらゆる労働に従事し、その得たる収入の一部を割きて毎月私ども親子の家計費と私の学資とを貢いだのである。これによって、私はその後一高五年の課程を終え、直ちに進んで東京帝国大学法科大学政治科に入り、明治28年7月大学を卒業し得たのであった。

 これに反して兄は小学八年の科程を修めたるにすぎないのであるが、サンフランシスコにおいては商業学校に通学し、また経済学関係の図書を少なからず購入して自修独学に怠らなかった。

 かくて、私の大学卒業により兄の負担の一半は軽きを得るに至ったので、兄は米国の一小砲艦の乗組員として艦内の労務に従事しつつ欧米の各港を視察して、明治30年、十一年の遍歴の後帰朝したるが、いくばくもなく片山潜君と共に労働組合運動に身を投じ、後さらに消費組合の運動にも従事した。しかし前者は治安警察法の発布によりその発展を阻まれ、後者は資金の欠乏により成績不振に陥り、ついに兄は両運動より退ぞき、明治33年北清事件を機として支那に渡航し、各地を転転し、ついには山東省青島に落ち延び、明治37年同地において病死したのである。

 以上高野房太郎の経歴の大要を語ったのであるが、その滞米の十年間にわたる諸種の労働の体験と、当時米国における労働組合運動- サミュエル・ゴムパースのひきゆるアメリカ労働総同盟(Samuel Gompers American Federation of Labor) - の興隆に興味を感じかつゴムパース氏自身とも相知るに至り、帰朝の年明治30年の夏(1897年7月)同氏より日本における組合総組織者(authorizedand legally commissioned to act as General Organizer for Japan)たるの委嘱を受け、帰朝後いくばくもなく組合運動に従事したることは前述のごとくである。

 上来述べたるところによってもって、読者諸君は高野房太郎なる人物が出来合の労働組合主義者にあらずして、反対にその生立ち境遇等より自然発生的にこの運動におもむきたるものであることを容易に了解されるであろう。かくして高野房太郎は熱烈なる組合主義者であったけれども、彼は協同者片山潜君と異なり、社会主義者ではない。単純なるゴムパース流の組合主義者であった。

管理人のつぶやき「高野岩三郎に興味があって読み始めましたが、兄上の岩崎房太郎も興味深い人ですね。」
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