2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
(「凡庸な悪」をテーマにした記事は3件続きます。少し長くなりますが、まとめて掲載します。)

今日の話題

2007年2月7日(水)
「凡庸な悪」について(1)

 大澤真幸(社会学者)さんの論壇時評(1月31日付東京新聞夕刊)に、日ごろ考えていたことと共鳴する一節があった。まず、書き出しの一文。

 現在の国際政治における困難を、あえて宗教的な語を用いて要約するならば、「最後の審判の視点の不在」となろう。「私の今の言動が正しいかどうかはわからない。しかし、歴史の最後の日の神の裁きが、それが正義にかなっていたか否かを教えてくれるに違いない」。これが、最後の審判という想定である。

 だが、われわれが今日失っているのは、この感覚つまり仮に目下のところははっきりしていなくても、われわれの行為の規範的な価値を正しく評価してくれる公正な視点がどこかにあるはずだという感覚である。「正義」を呼ぶ声が論壇の世界に響くのは、「最後の審判」を失ったことへの不安の表現にも思える。

 この問いかけは、もちろん、「現在の国際政治における困難」にとどまらない。一般的な倫理の問題として今日的問題であり、私はそのように読んだ。そのように読んできて、次の最後の結語に強く共鳴した。

 しかし、これは、倫理にとってほんとうに不利な状況なのだろうか。神の不在や正義の内容の不確定は倫理の崩壊を意味していると、普通は考えられている。ドストエフスキーが述べたように(「もし神がいないのであれば、すべてが許されてしまう」)。しかし、精神分析学者ラカンは、この同じ条件が究極の倫理的な価値をももちうると示唆している。このことは、義務の履行が「言い訳」として機能する場合があることを考えると理解できる。

 普通、人は、義務を遂行できないときに言い訳をするが、逆に、義務の遂行そのものが言い訳になる場合もある。アレントが「凡庸な悪」と呼んだアイヒマンのケースがそうだ。アイヒマンは、職位上の義務だったから、つまり命令があったからユダヤ人虐殺を指揮しただけだ、と主張した。多くの日本兵も、同じ理由で虐殺を行ったことだろう。

 このように、「正義」や「義務」を与える超越的な他者(神、指導者等)がいるとき、人は、責任をその他者に転嫁できる。

 だが、もしそのような他者がいなければ、人は、自らの行為の責任を自らで全面的に引き受けなくてはならない。そうだとすれば、「最後の審判の視点」を失ったわれわれの時代は、倫理を根底から復活させるためのチャンスを有するのではないか。

 「凡庸な悪」は戦時のような極限でだけ生まれるわけではない。

 私はここで、学校現場で「日の丸・君が代の強制」を直接指揮している学校長(特に都立高校の)に思いを馳せる。彼らが上意下達をしているのは「日の丸・君が代の強制」だけではない。教育の自由を圧殺し学校教育の全てを支配しようとして都教委が次々と押し付けてくるあらゆる施策を、彼等はそのまま上意下達している。あるいはもしかして、都教委からの命令にいくらかは抵抗したり、それの骨抜きを試みたりしている校長もいるのかもしれないが、私の耳目には入ってこない。少なくとも降格を賭けるほどの校長は皆無だろう。もっとも現在ではその程度の権力迎合教員しか校長になろうとはしない。
 当然といおうか、気の毒といおうか、ときに彼らはアイヒマンとかロボットとか罵倒されている。

 「凡庸な悪」は都教委と一般教員との板ばさみになっている校長にだけにあるわけでもない。校長が下達する不条理に抵抗できない教員もそれを共有している。

 「凡庸な悪」には、悪辣な都の教育行政に圧迫されている教員だけが直面しているわけでもない。

 「職位上の義務」だけでなく「一般的な義務」にまで「義務」を敷衍したとき、義務の履行を「言い訳」とする「凡庸な悪」は私(たち)も日常的に共有している「悪」ではないか。私は自らの人生を省みて内心忸怩たる思いを禁じえない。

2007年2月8日(木)
「凡庸な悪」について(2)

 『澤藤統一郎の憲法日記』から二つの記事を記録しておきます。

 一つは1月31日に行われた「君が代不起立ゆえに嘱託再雇用を不合格となった原告の損害賠償請求事件」の証人尋問の報告記事「課長も校長もロボットだ。」です。証人は都教育庁の人事部選考課長と都立高校の校長。

 この中で澤藤さんは次のように感想を述べておられます。

 課長も校長も実に情けない。信念に基づいてやっているわけはないのだから。上に迎合する証言を、あたかも自分の意思のごとくにしゃべらせられる気の毒な人たち。

 とは言え、教職員や生徒の犠牲で保身をはかる人々でもある。遠慮してはおられない。

 そして、それに先立って、1月7日の記事「都教委幹部の個人責任追及を」 で、『まだ個人的な見解』と断っていますが、次のような提言をしています。

 都教委は、「控訴によって9・21判決は確定を阻まれている。だから、これまでの方針を変更する必要はない。「10・23通達」は変更しないし、校長の職務命令もこれまでと同様に出してもらう」と言っている。

 しかし、そんな形式論で片づく事態ではない。

 行政裁量を幅広く認めて、望ましからぬ行政行為にも目をつぶっているのが今の裁判所である。その裁判所が、「10・23通達」とその指導には憲法上到底看過できないとした。起立・斉唱を命じる校長の職務命令に対しては、「重大かつ明白な瑕疵あり」と断じた。この重みを受けとめていただきたい。

 上級審の判断を仰ぎたいということでの控訴あっても、少なくとも、「重大かつ明白な瑕疵あり」とされた職務命令を強要したり、違憲違法とされた処分を強行するような乱暴なことは控えなければならない。それが行政のあるべき姿勢だし、道義であり社会常識でもある。

 9・21判決が上級審でも支持される確率は限りなく高い。控訴棄却となり、あるいは上告棄却となって確定したとき、誰がどう責任をとるのか。

 9・21判決の前後で決定的に異なるのは、担当者の個人責任である。この判決の以前には、客観的なには違憲・違法な公権力行使であっても、「主観的には違憲違法とは考えなかった」という弁解が通る余地はありえた。「教職員側の弁護団の指摘はあったが、横山教育長や都教委の法務関係者の意見を信用した。違憲違法なことをしているとの認識はなかった」と言って通るかも知れない。

 しかし、9・21判決が、あれだけ明確に違憲違法を言ったあとには、その弁明はもはや通らない。国賠法上、公務員は故意または重過失ない限り、個人としての責任は問われないが、逆に故意または重過失あれば個人として責任を問われることになる。東京地裁が判決という形で明確にした警告を無視して、敢えて処分を重ねた者の個人責任は、厳重に問われなければならない。

 石原慎太郎知事・木村孟教育委員長・中島正彦教育長・米長邦雄等教育委員、人事局長・職員課長までの個人責任は当然である。この点は、校長も同じことである。東京都教育委員会・東京都教育庁は、「個人責任を覚悟のうえで職務命令を出せ」と校長に言えるのか。

 権力を持つ者が、違法に権力を行使すれば影響は大きい。当然に責任も大きいのだ。自己保身のためにも、判決を尊重して、上級審判決あるまでは、乱暴なことは差し控えるべきだという警告に耳を傾けなければならない。

 われわれは、「10・23通達」とその強制によって生じた被害についての公務員の個人責任を徹底して追及する。そのことが無責任な知事や都教委幹部・校長らの行為によって違憲違法な教育行政がまかり通ることを予防する監督機能を果たすであろうから。具体的には、国家賠償請求に公務員個人も被告として加えることを検討する。確定判決後には東京都が支払った損害賠償ならびに、「10・23通達」関連で支出された諸経費について、東京都が知事・教育委員会委員長・教育長外の責任ある公務員個人への求償をなすべく、監査請求をし、住民訴訟を提起することを検討する。

 このことを事前に警告し、本気で追求しようではないか。

 9・21難波判決は都職員や校長にとって、その「凡庸の罪」を反省し、その罪過を重ねぬために自立した言動をなすための格好の根拠であり機会だと思うのですが、彼らにはそのような発想はないようです。「凡庸」の「凡庸」たる所以です。

 かれらの「個人責任をも追及する」という澤藤さんの提言に賛成します。これは法的措置としてばかりではなく、教育現場で苦闘している教員にとって、さまざまな不条理な攻撃をはねかえすための理論的根拠としても有効ではないでしょうか。

(追記 2016年12月9日)
 この画期的な難波判決は都教委が控訴し、東京高裁ではオソマツ判決で原告側敗訴。原告側が控訴し、最高裁でも原告側敗訴となる。『予防訴訟の記録』から「最高裁判決のまとめ」を転載しておこう。
 最高裁は、訴え自体を門前払いにした高裁の判断は間違っているとして、差止訴訟及び当事者訴訟としての義務不存在確認訴訟を適法としました。しかし、違憲・違法の主張は認められず、懲戒処分の差止や義務不存在の確認を求める訴えは認められませんでした。


2007年2月14日(水)
「凡庸な悪」について(3)

 いま東京都の教員たちが直面させられている問題にしぼって、「凡庸な悪」ということを考えてみようと思います。私は一部外者にすぎませんが、わが身に引き寄せて考えて見ます。

 瀬古浩爾著『生きていくのに大切な言葉-吉本隆明74語』(二見書房)の次のくだりに、私のような凡庸な者が「凡庸な悪」をまぬがれるための必要不可欠な倫理を見い出します。



組合は今回の要求を克ちとる為、いよいよ困難な交渉段階に入って参ります。我々は各位の代弁者としての責任に於いて、堂々たる態度を持してゆきます。各位も又、自らを辱かしめざらんことを。                東洋インキ青戸労働組合組合長 吉本隆明
 「堂々」とした声明である。

 吉本は昭和27年に東洋インキ製造株式会社に入社し、青戸工場に配属された。翌28年、28歳の若さで青戸労働組合の組合長に就任する。思考の強靭さや徹底した闘争意志が秀でていたと推測されるが、それもさることながら、仲間たちのあいだで余程人間的信頼を得たのだろうとおもわれる。

 掲載文に「各位も又、自らを辱かしめざらんことを」とある。われわれは絶対に「自らを辱かしめ」るような交渉はしない、「堂々たる態度」で交渉に臨む、という決意に自信があるからいえる言葉だ。じつに頼もしい。

 だが、会社側の「悪質な切くずし」によって脱落する組合員がでてくる。脱落の理由は大きく三つある。
(1)「この際忠勤ぶりを示して自分だけはよくなろうという乞食根性」
(2)「本当に生活が苦しくて、自分や家族のことを考えて(会社側の……引用者注)脅迫に心ならずも動かされた者」
(3)「組合幹部の運動方針に反感をもっていて、一石二鳥をねらった者」。

 これについて吉本はこのように書いている。「第一の連中とだけは、今後とも激しい闘いをつづけなければならない」が、「第二、第三の人たちは、今後とも組合員全部で守ってやらなければならない」。

 吉本の組織論の要諦だ。組織への入り口はだれにも開かれている。そして、組織からの出口もまた薄汚い利己主義者を例外として、だれにもきちんと開かれている。その出口を開いているのはなにか。自分の体質にまでなった、吉本の人間観である。卑怯者は許されてはならないが、人間の弱さや自分と異なる思考は最大限に理解され尊重されなければならない、というような。そして、自分の思考に絶対的な正当性はない、というような。無類の優しさであり、無比の柔軟さである。

 部外者には決して見えないことがあり、ことはそう単純ではないことを承知の上で、「日の丸・君が代の強制」が都立高校の教員集団にもたらした分断状況を推測してみます。

(1)もともと都教委・校長と同じ考えをもっていたような顔をして都教委・校長に擦り寄っていく奴隷根性の者たち。
(2)自分や家族の生活や将来を案じて心ならずも日の丸に向かい君が代を歌っている振りをしているが、日常の教育実践では決して都教委・校長に迎合はしていない人たち。
(3)「思想・良心の自由」を蹂躪するような教育行政にはどうしても膝を屈するわけにはいかず最前線に立たざるを得なかった人たち。

 冒頭の吉本組合長の闘争宣言を、いま私は(3)の人たちからのメッセージとして読んでいます。私が当事者だったとして、(1)のような者には決してならないことははっきりと断言できます。そして、それ以外のどのような生き方を選ぶとしても、「自らを辱かしめざらんこと」を常に反芻しながら一つ一つの行動を選択していこうと思います。「自らを辱かしめざらんこと」の核心は、私(たち)が生徒に対して「凡庸な悪」を行使してはならないということです。これが(1)のような者たちとのぎりぎりの境界線です。

 さて、組合は何をやっているのでしょうか。もしも都高教執行部にまだ強靭な思考力や徹底した闘争意志が残っているのなら、(2)の人たちをも守りつつ、(3)の人たちとともに闘いの最前線に立つ以外に、「凡庸な悪」におちいらない道があるのでしょうか。

 しかし翌年、吉本は、かれじしんの言葉によると「壊滅的な徹底闘争」に敗れ組合長を辞任する。組織に楯突いた者にたいする仕打ちのつねとして、吉本は職場をたらい回しにされる。かつての同士たちは吉本にどのように対応したのだろうか。よそよそしい者がいたとしても、吉本はかれらをけっして恨まなかったはずである。その二年後、吉本は飼い殺し的な本社職務への転勤を不服として退職をする。31歳だった。

 このような矜持と覚悟がないのなら、組合の執行委員になるべきではない。
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