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380 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(34)
「ヤマト王権」の出自(2) ― 鵜茸草葺不合
2005年9月2日(金)


 「海幸・山幸」説話で注目すべき点を古田さんは4点あげている。
(一)
 この海神の宮の位置は、六種類(『記・紀』)の説話どれからも特定できない。しかし、 海神の娘を「豊玉毘売」といい(各伝とも)、海神を「豊玉彦」(同、第一、一書)と言っ ている点から、対馬(上県郡(「豊玉」「豊」等、下県郡に「玉調」がある)または「豊 国」(大分県)と考えられる。

(ニ)
 山幸がこの事件のあと故国へ帰った、とされているが、この「故国」と は、当然筑紫(筑前)である。山幸はそこで没している。この説話の終 わりに
  後に久しくして、彦火火出見尊崩ず。日向の高屋の山の上(ほとり)の 陵に葬る。 (同、本文)
とある「日向」は筑紫(筑前)の日向だ(この本文は「日本旧記」の文で あるから、その点からも、ただ「日向の」といえば、「筑紫(筑前)の日 向」である)。

(三)
 『古事記』の、この説話の結びはつぎのようだ。
  故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌(はち)拾歳坐(ま) しき。御陵は即ち其の高千穂の山の西に在り。
 この「高千穂の山の西」の御陵とは、(ニ)で「日向の高屋の山の上」の陵 といっているのと同一である。すなわち、筑紫(筑前)の中なる「高千穂」 の「宮」や「山」である。
 「高屋」の「屋」は地名接尾辞であるから、固有の地名部分は「高」 である。一方、糸島郡内、高祖(す)山の西隣には、現在、高祖・高上・高 野・高田とつづき、博多湾岸にも高宮がある。

(四)
 豊玉毘売は山幸の故国へ来て鵜茸草葺不合(ウガヤフキアエズ)を生んだ のだ。したがってウガヤフキアエズの出生の地は、やはり筑紫(筑前)であ る。

 このウガヤフキアエズについて、古田さんは次のように記述している。

 ここで一見奇妙な問題を提起しよう。
 山幸は数奇な他国放浪の中で豊玉毘亮と結ばれたが、一児をもうけただけで 二人は相別れ、ふたたび相逢うことがなかった。毘売は本国(海神の宮)へ去 ったのである。このあと、山幸が一生独身のままですごしたとしたら、数奇の 子ウガヤフキアエズはたしかに唯一の子、つまり正統だ。――だが、それはむし ろ〝奇矯な想像″にすぎよう。
 当然、「正規の妃と正統の子供たち」が筑紫本国にいたはずだ。しかし、そ れらは(「日本旧記」には存在していたとしても)現在の『記・紀』には全く 姿をあらわしていない。ともあれ、各説話の語るところ、ウガヤフキアエズは 〝数奇で不幸な運命の中に育った異腹の子″といったイメージであって、「正規 の宮殿で育てられた嫡出の太子」という感じではない。すなわち、これはやは り「傍流の子」なのである。
 さて、その数奇の子ウガヤフキアエズは、どこで育ったのだろう。それも筑 紫だ。なぜなら、母(豊玉毘売)は、筑紫で子を生んで、この子をここに残し たまま本国(海神の宮)へ去って行ったのだから。

 このウガヤフキアユズは「山幸の故国(筑紫)で豊玉毘亮の妹、玉依毘売に 養育され、 成人してその養育者・姨(おば)玉依毘売を娶った。」と 記紀は伝えている。
 しかし、ウガヤフキアユズが姨玉依毘売を娶って何処に住んだのか、記紀と もに何も記述していない。ところが、その死んだ場所の記述がある。

久しくして彦波瀲武?草茸不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、 西洲の宮に崩ず。因りて日向の吾平の山の上(ほとり)の陵に葬る。(神代 紀、第十一段、本文)

 これを古田さんは次のように分析している。

(一)
 この一書は明らかに「日本旧記」でなく、「帝王本紀」だ。なぜなら、 九州(内の領域)のことを「西洲」といっているからだ。『書紀』 (帝王本紀)では、この語は、「中洲」の対語だ。
  東、胆駒(いこま)山を越えて、中洲に人らむと欲す。(神武紀、即位前紀)   既にして皇師、中洲に趣かんと欲す。(同右)
 これらはいずれも近畿大和の地(奈良盆地)を指している。

(ニ)
 だが、この「西洲」が九州内のどこを指すか、は明確でない。

(三)
 つぎは、「日向の吾平の山」だ。この近畿で作られた「帝王本紀」の中で、 いきなり「日向の」といった場合、宮崎県の日向だ。したがって、この地名は 同じ「帝王本紀」(神武紀)のつぎの文面と同一領域だと見なしえよう。
  (神武天皇)長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶る。(神武紀、冒頭)

 以上をまとめよう。 (A) ウガヤフキアエズは〝数奇の子″として、たしかに海幸・山幸の説話に 名前は出現する(「日本旧記」にも)。しかし、その業績・活躍地・没地等は 「日本旧記」には一切記されず、不明である。
(B) ただ、その後の消息は近畿天皇家系の史書にのみあらわれる。
 その一つは、『古事記』にウガヤフキアエズは姨(おば)にして養母なる 玉依姫と婚したと伝えることであり、その二つは、「帝王本紀」に伝えるそ の陵墓の地である。それは宮崎県の日向にあった、と考えられる。

ここにはじめて、宮崎県なる「日向」の地が、おぼろな霧靄の中にかすかな 光を帯びて浮かび上がってきたのである。

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