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今日の話題

2007年1月15日(月)
「労働ビッグバン」というマンガ的改革

 『「ホワイトカラー・エグゼンプション」って何だ?』で、「ホワイトカラー・エグゼンプション」の問題点を論じた冷泉彰彦さんの報告を紹介しました。その続きの報告(第285回)が一昨日配信されました。政・財・官が企んでいる負の変革(労働者奴隷化改革)を、冷泉さんは『「労働ビッグバン」というマンガ的』な改革と言っています。前回同様、あらゆる面から遺漏なく論じていて勉強になります。今調べたところ「JMM」のサイトにはまだアップされていないので、かなり長いのですが全文を紹介します。

(追記 2016年11月30日)
 この「政・財・官が企んでいる負の変革(労働者奴隷化改革)」は第1次安倍政権下の企みです。現在のアベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権もこの「労働者奴隷化改革」を引き継いで着々と推し進めている。度々指摘しているように、この政権の数々の悪政の源泉は全て第1次安倍政権時に培われていたのだった。


「雇用システムへの信頼」

 前回、日本の「ホワイトカラー・エグゼンプション」論議にあたって、アメリカの制度が正しく紹介されていないということをお話ししたところ、様々な反響がありました。また丁度、年末年始にかけて、この問題は色々な角度から議論されているようです。現時点では、厚生労働省は法案の提出に関しては、依然として強気であり上程は参院選後にするとか、最初は年収900万円以上にしてインパクトを小さくしようとか(後でお話ししますが、この900万という数字自体も大変に問題なのですが)、話の方向は法律を通すための方法論に向かっているようです。

 政府や財界としては、更に「労働ビッグバン」というマンガ的としか言いようのない名称の元に労働法制の大幅な改訂を目指しているようです。日本人の働き方が議論の対象になるのは素晴らしいことだと思いますが、改革の方向を間違えては大変です。下手をすると、日本経済の競争力も日本人の幸福度も吹っ飛んでしまうようなことになりかねないからです。

 ですから、厚生労働省並びに日本経団連が、アメリカの制度を「誤解」もしくは「曲解」して伝えていると言わざるを得ない、このことをもう一度掘り下げてお話しすることは、この時点で極めて重要だと思うのです。まず制度のネーミングですが、どうやら出所は「諸外国のホワイトカラー労働者に係る労働時間法制に関する調査研究」という「独立行政法人 労働政策研究・研修機構」が2005年3月に発行した報告書のようです。

 この報告書は「厚生労働省からの研究要請を受けて」取りまとめられたというのですから、この一連の制度改定のベースとなった資料とみなしても良いのでしょう。その報告書の38ページから39ページには、
「真正な管理職(executive)、運営職(administrative)、もしくは専門職(professional)の資格で雇用される被用者」は、一般に「ホワイトカラー・エグゼンプション」と呼ばれ、労働時間規制を受けない上級ホワイトカラーの代名詞になっている。
 という記述があります。まるでこの「ホワイトカラー・エグゼンプション」というのが制度の名前のような記述で、実際にこの部分の小見出しは「ホワイトカラー・エグゼンプション」となっているのです。ですが、実際にはアメリカでは社会問題として労働問題を議論する際にも、あるいは経営の立場から雇用条件を議論する際にも、あるいは日常生活の中で「あなたの仕事はどんな具合?」というような雑談をするときにも「ホワイトカラー・エグゼンプション」という言い方はしません。

 あくまでこの言葉は、労働法制に関する専門用語(術語)であって、「上級ホワイトカラーの代名詞」などというのは事実に反します。何故かというと「ホワイトカラー」という言葉自体が「ブルーカラーよりも偉い」というニュアンスがあって「ポリティカリー・インコレクト(平等思想に照らして不適切な表現)」な印象があるからです。では制度に何か名前があるかというと、特にそうではなく、どの国にもある「管理職と専門職は残業がつかない」という慣行がアメリカにもある、それだけだと思います。

 ただ、人材を採用する際などに、残業のつかない職種は「エグゼンプト」、残業のつく(したがって適用除外ではない)職種は「ノン・エグゼンプト」という言い方はします。それ以上でも、それ以下でもありません。また、今回ブッシュ政権の下で、所得要件の緩和などが行われていますが、そもそも「裁量権」や「部下の人事権(採用と解雇の権限)」あるいは「職歴や学歴の裏付け」などの厳密なチェックを伴って運用されているのは前回お話しした通りです。

 実はここにもう一つ重要な要素があります。それは、アメリカの職場における職務内容記述書(ジョブ・ディスクリプション)の存在です。その人は仕事として何をすればいいのか、誰の支持を仰げばいいのかということが文書化されたもので、採用の時点でも、毎年の年俸改訂の際にも、昇格や異動の際にも必ず見直して合意の上、本人がサインしなくてはなりません。

 このジョブ・ディスクリプションが非常に厳格に運営されている、それがアメリカの労働事情の背景にあるのです。厳格というのは正確に言うと「書いてあることはしなくてはならない」が「書いていないことはしてはならない」のです。特に「自分の職務として書いていないことで、他人の職務であることを勝手にやってはいけない」のです。

 つまり、職務内容が似通っている同僚の仕事を勝手に「カバー」するのは御法度なのです。日本からアメリカの企業(ないし日本企業の現地法人)に行くと、この点で非常に戸惑う人が多いのですが、「ジョブ・ディスクリプション」に書いていないことを命令することは基本的には難しいのです。例えば、秘書に仕事を頼もうと思ったら、出張の手配とか、ビジネスレターの清書などという項目を全て洗い出して、具体的に書いておかねばならないのです。

 上司は部下に対して「ジョブ・ディスクリプション」に書いていないことを命令するのは、どうして難しいのかというと、まず「約束していない成果は評価のしようがない」という思想があり、そして「自分の職務範囲の以外のことを行うというのは、他人の職務を侵すことになる」という発想があるからです。

 極端な例ですが、アメリカの学校では子供による掃除当番はありません。このことについて「どうして?」という子供の問いかけに対して大人達は「生徒が掃除をしてしまうと、掃除をする人の仕事がなくなってしまうから」という答え方をします。そして子供はそれに納得してしまう中で、知らず知らずのうちに「他人の職務を侵すな」という感覚を身につけていきます。

 更に言えば、こうした厳格な職務内容は、各人のキャリアに深く結びついています。日本でよく言う「ゼネラリスト」という名の「何でも一通り経験した人材」などというものはなく、マーケティングならマーケティングの、そしてその中でも数値分析を中心とした戦略家なのか、あるいは消費者向けのキャンペーンやメディア戦略が得意なのか、あるいは商品開発の中でマーケティングを行うアプローチなのか、そうした専門性が問われていくのです。

 その専門性は職歴だけでなく、学歴にも関係してきます。ですから日本では良くある「大学は文学部だが、数字が得意そうだから経理」であるとか「理系だがセンスが良いのでクリエイティブ」というような人事は絶対にあり得ません。そのような専門性が学歴職歴という事実によってサポートされている中で、労働市場における人材の価値が生まれ、人は職を得ていくのです。

 アメリカの雇用制度は、そのような専門性と、そして「エグゼンプト」の場合は裁量性ということが実際に機能していて、その延長で「残業のつかない管理職、専門職」が存在しているのです。そうした全体像を無視して「アメリカではホワイトカラー・エグゼンプションが機能している」というカタカナの報告書で世論を煙に巻くというのは、厚生労働省にしても日本経団連にしても不誠実だと思います。

 では、日本の雇用制度はこのままで良いのでしょうか。決してそんなことはないと思います。財界が言うように、国際的な競争力の問題は無視できませんし、時代の変化スピードに対応できるような人材の育て方も、配置の仕方も必要でしょう。終身雇用を前提としたゼネラリスト候補を中心として、これに研究開発の専門職を加える、どちらも配置転換を繰り返して長期的な人材育成を行う、そんな「のんびり」した人事では対応できない時代です。

 では、思い切ってアメリカ型にするのが良いのでしょうか。相当部分は良いように思います。ですが、日本企業の美点である「各人が隣接する他の業務に精通している」ことや「日程の正確さや工作精度の要求度が高い」こと、あるいは「全員がコスト感覚を共有している」ということなどは、100%捨てるべきではないと思います。

 では、どの部分を残して、どの部分を変えていくのか。実はこの点はほとんど議論されていないのではないでしょうか。また雇用制度が変わっていくことは、求める人材が変わっていくと言うことであり、結果的にこれは教育制度にも大きく関係してきます。また、人々の文化や価値観にも関係してくるのでしょう。

 例えば、アメリカの場合、終身雇用は崩壊してしまう中、職を得るためには学歴と職歴をコツコツと積み上げるしかないプレッシャーの高い社会になっています。一旦得た職も、経営環境の悪化などの結果として解雇されることも十分にあります。その結果として、失職した人間が残った同僚を恨んで銃を乱射して自分も自殺するような、やり切れない事件も多いのです。

 そうであっても、アメリカ人が何とかやってゆけるのには、無邪気なまでに楽観的な姿勢であるとか、結果はともかく「機会の平等」だけは信じられるという、システムへの信任があるからなのでしょう。丁度、この年末年始のシーズンに、この「雇用の不安定」と「それでもチャンスを信ずる楽天さ」というアメリカらしい問題を描いた映画が大ヒットしているので、こちらをご紹介することにしましょう。

 日本でのタイトルは『幸せのちから』ということに決定しているようですが、原題は "The Pursuit of Happyness" で直訳すると「幸福を追い求めて」とでもいうような意味、ちなみにハピネスの綴りが間違っているのがご愛敬です(どうしてかは作中のエピソードに関係があるので、ここでは省略します)。

 主役はウィル・スミスで、今回がデビューになる息子さんのジェイデン君との親子競演も話題を呼んでいます。ストーリーは、海軍OBで医療機器のセールスマンだった男(スミス)が、不運の重なる中で日本でいう「ワーキング・プア」の状況に陥ってしまいます。妻(サンディ・ニュートンがイヤな役を好演)にも去られた男は、アパートからも簡易モーテルからも追い出され、5歳の息子を連れて地下鉄に寝泊まりしたり、教会のホームレス用シェルターに駆け込んだりするのです。

 ただ、この男は「株のブローカー」になるという夢がありました。学歴も職歴もない彼は、無給のインターンを半年間務めることで、自分のキャリアを作ろうと必死で努力します。その貧しさと不運は目を覆うばかりなのに、常に前向きであり、息子を愛し、夢を捨てずに努力する、そんなウィル・スミスの何とも言えない演技は、口コミで広がっているようで、公開から一ヶ月近く経つのですが、まだまだ観客を集めるロングランになっています。現時点での興行収入は126ミリオン(約151億円)ですから堂々たる大ヒットです。

 この間のハリウッドでは、価値観の相対化や、格差の進行、あるいはリベラルと保守の対立疲れなどから「アメリカンドリーム」をここまで描いた作品はあまりありませんでした。ですが、この『幸せのちから』のヒットは、まだまだアメリカ人が「セカンド・チャンス」や「機会の平等」を信じているということを示しているように思 います。

 勿論、極貧の中での苦労の描写が共感を呼ぶ心理には、雇用の不安定な社会、格差の大きな社会への不満が渦巻いているとも言えます。ですが、どんなに過酷であってもシステムが信じられるというのは希望のある話です。希望とは、楽観的に夢を追いかける個人の資質だけでは持ち続けることはできません。無給のインターンを必死で勤めながら、資格試験に合格するために睡眠時間を惜しんで勉強する主人公の姿が感動を呼ぶのは、その希望にリアリティがあるからですし、その背景にはシステムへの信任があるということを、この映画は教えてくれています。

 翻って日本の「労働ビッグバン」や「ホワイトカラー・エグゼンプション」の提案はどうでしょうか。そこには人々のシステムへの信頼を高めるようなメッセージ性は感じられません。競争力の名において、労働の成果を勤労者に分配する率を更に切り下げようという意図しか見えないとしたら、個々人の成長や努力への動機付けにはならないのではないでしょうか。

 例えば、日本の雇用問題の中で非正規雇用の正規雇用化ということは重要なテーマだと思うのです。ただ、この問題が上手くいかないのは、現在非正規雇用に甘んじている人が「どうすれば正規雇用を得られるのか?」という道筋が見えていないことです。今は、「正社員経験のない30歳」が大企業の正社員として「ポン」と配属するようなことは、雇用側もその「30歳」の側もイメージとして描けない、そんな状況です。

 ここには補助金をいくら出しても問題は解決しません。「30歳」が何をしようとしているのか。そのためにはどんな努力をしようとしているのか。そしてその結果どういった可能性があるのか。そうしたシステムへの信頼から来る、人間としての自然な努力への動機付けの循環、これを確立しなくては「再チャレンジ」も何もあったものではありません。

 最後にその安倍政権が打ちだそうとしている「年収900万以上の残業カット」ですが、この900万という数字の対象になるのはどんな人なのでしょうか。残業込みで900万というのは「残業のつくヒラ社員」としては相当に上位に当たる収入です。中には、毎月の固定基本給50万、賞与が5ヶ月分で250万(ここまでで850万) 後の50万は残業で125%の割り増しを考えても残業単価が時間当たり3900円ぐらい、したがって年間の残業時間は120時間(一ヶ月10時間)程度というケースもあるでしょう。ですが、「ヒラ」で毎月の固定給が50万というのは非常にまれなケースです。

 あるとしたら「係長・主任」クラスで、管理職の一歩手前というグループでしょう。このグループは、多くの場合は管理職昇進を「人質に取られ」る中で高い忠誠心を要求され、恐らくは膨大なサービス残業をしているのではないでしょうか。だとすれば、管理職昇進を待たずして「残業カット」の対象になったとしたら「手取りは大して変 わらない。でも何だか空しい」という印象を抱くでしょう。まともな企業だったら、本人のモラルを考えると、こうした人を対象にわざわざ新制度を導入しないでしょう。

 そもそも多くの企業の場合は、管理職・専門職の年収は500万円台から700万円台がスタート地点であるはずで、900万円以上などという法制は何の影響も与えないはずです。厚生労働省も「対象者はごくわずかなので国民が心配する必要はない」という言い方をしていますが、対象が少ないのは間違いありません。ですが、このわずかな対象という人たちが問題なのです。

 そのわずかな中の多くのケースは、月間固定給が30万ぐらいではないでしょうか。そして賞与が5ヶ月出ていたとして、年収が900万になるとしたらどんな計算になるのでしょう。月給と賞与では510万、したがって年間の残業手当が390万、そして残業の時間当たり単価は2343円ですから、年間残業時間は1664時間、何と月平均で139時間という途方もない数字になるのです。仮にこうした人の残業をカットし、時間管理をやめるというのは、そのまま過労死を助長すると言われても仕方がありません。

 数字を高くして対象者を限定すれば国民が納得するだろう、「900万」の背景にはそんな発想が見て取れます。ですが、実際に残業込みで900万という人がいたとして、その人はどんな状況にあるのかを考えてみれば、その数字が全く別の意味を持ってくるのではないでしょうか。今回の「900万」にはそうした誠実さが全く感じられません。

 人事労政というのは、雇用側と労働側の利害の対立を調整する仕事です。両者にギリギリの利害があり、それがシャープに衝突する中で、誠実に実務を積み上げて相互の信頼を得、解決に導く仕事だと言って良いでしょう。その所轄官庁であるはずの厚生労働省も、その誠実さを見せて欲しいものです。制度設計に対する誠実さとは、生きた企業経営、生きた勤労者の生活の双方に当事者意識を持つことであり、両者がその将来展望を描けるためのシステムへの信頼を勝ち取ることだと思うのです。

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