2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題

2006年12月29日(金)
「ホワイトカラー・エグゼンプション」って何だ?

 資本の意志を押し戴いて支配者どもはホワイトカラー・エグゼンプションの早期導入に執念を燃やしている。ヤツラにはとんでもなく甘い制度なのだろう。ということは労働者にはとんでもなく 過酷な制度ということだ。

 27日、厚生労働相の諮問機関「労働政策審議会分科会」がホワイトカラー・エグゼンプションの導入を求める報告書をまとめた。

 これを詳しく報道した東京新聞の記事<ホワイトカラー残業代ゼロに?『労働時間規制撤廃を』>の<メモ>が、ホワイトカラー・エグゼンプション(適用除外)の意味とその導入に向けての経過の概略をまとめている。

『1日8時間、週40時間の労働時間規制が適用されず、働く時間の自己裁量が広がる代わりに、残業代が支払われない制度。もともとは米国の労働時間制度の一つで「管理や運営、企画の仕事をする労働者を対象とした適用除外」との意味。「制度導入の検討を進め、2006年度中に結論を出す」とした規制改革・民間開放推進会議の3カ年計画が3月に閣議決定されたことを受け厚生労働省が導入を検討していた。』

 規制改革・民間開放推進会議。昨日取り上げた醜悪クサカリが議長だ。そして、またしてもアメリカの真似事だ。

 この制度には労働基準監督官の6割が反対しているという。また東京新聞(12月18日付夕刊)のアンケート調査によると会社員(20~40代)の73%がこれについて全く知らないという。こんな労働者の死命に関わるような重大な悪法が、労働者を蚊帳の外に置いたまま、着々と推し進められている。会議には労働側の委員もいるはずだが、一体何をしているのか、いや、していないのか。

 この残業代なしでただ働きさせる制度は、初めは年収の多いホワイトカラーに制限していても、いずれ全労働者に波及されるだろう。このような詐術はこの国の国家権力の常套手段だ。

 さらにアメリカの制度を真似ながら、政府・経団連はその制度の肝心なことを隠蔽している。このことをアメリカ在住の作家・冷泉彰彦さんが丁寧に分かりやすく論述している。(JMM [Japan Mail Media] 2006年11月25日第278回配信「アメリカの制度をマネするな」)これを読むと、いま国家権力がやろうとしていることがとんでもない暴挙・愚行であることがよく分かる。

 資本主義体制という条件下では人間の真の開放はあり得ないが、その過程として、せめて労働者がもっと人間らしく生きられるような雇用関係を創り出す志向は重要だ。冷泉さんの論考はその問題を考える上での良い参考資料になると思う。ホワイトカラー・エグゼンプションについて述べている部分を掲載しておく。 (ちょっと長いです。)

(追記 2016年11月20日)
 アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権は、この時は「残業代ゼロ法案」あるいは長時間労働を助長する「過労死促進法案」との指摘などがあって断念したが、今また「ホワイトカラーエグゼンプション」の導入を柱とした労働基準法改正案を閣議決定(2014年4月3日)している。宮武嶺さんのブログ「Everyone says I love you!」の記事『残業代ゼロの労働基準法「改正」法案 先ほど閣議決定 地獄の窯の蓋がいま開く』を紹介しておこう。
(では、ちょっと長い冷泉さんの論考をどうぞ)

 さてアメリカの模倣が正しいかどうかということでは、もう一つ、大きな制度変更として、厚生労働省と日本経団連が積極的に導入を目指している「ホワイトカラーエグゼンプション」(自律的労働制度)の問題があります。一定の年収を保障した上で、時間外手当(残業代)の支払いを対象外とするこの制度は、提案者側からは「アメリカで既に導入されている」というのですが、この問題は裁判員制度どころではない大変な問題を抱えていると思います。

 というのは、政府ならびに日本経団連は、恐らくは半ば意図的にアメリカの実態を歪曲して伝えているからです。その第一点は、アメリカでのこの制度は「管理職・基幹事務職・専門職」への「残業手当の適用除外」を定義したものであって、「ホワイトカラー・エグゼンプション」とはいっても、全てのホワイトカラーが対象ではないという点です。

 とにかく管理職・基幹事務職・専門職の必要要件を満たしたケースだけに適用されるのです。確かに金額で示されている規準だけを見ると、週給455ドルというのは年収換算で23660ドル(約279万円)と低いのですが、この金額というのはあくまで一つの要素に過ぎません。その前に、厳しい規準に示された実態を満たしていなくてはならないのです。

 例えば、アメリカの管理職の場合は「二人以上の部下に関する、採用権限を含む管理監督」を行っているかどうかがポイントになります。また基幹事務職(総務、経理など)では「非定型業務、自由裁量、自主的な判断」が主要な業務であるか、更に専門職の場合ですと「明らかな専門的教育に裏付けられた専門性、もしくは独創的な技能の発揮」という要件があります。

 こうした要件について、例えば厚生労働省の労働政策審議会の議論などを見ていますと「アメリカでは金額で切っている」という前提で話が進んでいるようなのですが、これは事実の半分も語っていません。管理職であるか、専門職であるかの「要件」は非常に重視されていて、この要件を満たしていない場合に「お前はホワイトカラーだから」ということで残業代の支払いをしないということになると、これは訴訟などで大変なダメージを受けるようになっているのです。

 第二点は、この「要件」を受けて「エグゼンプト」の労働市場というものが確立しているという点です。管理職・専門職で残業のつかない職種の場合は、業種職種によって異なりますが、全国的に見て5万ドル弱あたりが最低だと思います。勿論例外はありますが、管理職の場合でもいわゆるマネージャー(課長さん)がその最低クラスになるのですが、基本的にはMBA(経営学修士)を取って(管理職にはMBAが要求されることが多いのです)の初任給はやはり6万から7万(あるいはそれ以上)です。結果で判断される、だから労働は自己裁量という分、まあ納得のできる給与水準が労働市場として存在しているのです。

 第三は、アメリカの労働省のガイドラインにもあるように「専門的な教育を受けた」という事実などの客観的な根拠が求められているということです。管理職にはMBA、経理専門職にはCPA(公認会計士資格)、法務部門の管理職にはバー(司法試験)などの公的な学位ないし資格が要求されますし、資格がない場合はそれ相応の職歴など、そして専門技術者の場合はそうした教育を受けたという事実が要求されます。逆に言えば、履歴書にはなんの根拠もない人間に「権限を与えているから」という理由で時間外手当を払わないのはダメということです。

 第四は、「エグゼンプトでない」つまり日本流に言うと「一般職社員」の労働市場が確立しているという点も重要です。この一般職は契約上「残業手当がつく」のですが、その代わり「まずほとんど残業をしない」し「出張も命じない」ことになっています。命令を受けて定型的業務はするが、その代わり家庭や地域活動との両立など「9時から5時まで」の人間的な生活が保障されているのです。年収としては2万ドルから5万ドルぐらいでしょう。この人達は組合と法律によって厳しく保護されており、本人の同意なく残業を強制することも不可能ですし、まして残業代を払わないということも不可能です。

 勿論、アメリカの労働事情にも深刻な問題があります。一般職の生産性が国際競争力を失う中で、現時点で言えば自動車産業などを中心にリストラが進み、実質的に落ち着いた一般職の雇用が減りつつあるという問題がまず第一点、逆に管理職の場合は成果要求が厳しくなっているために労働時間がどんどん長くなるという問題があります。この二番目の問題も深刻で、通勤電車の中でパソコンで仕事をしたり、休日でもメール端末(「ブラックベリー」など)をピコピコする風景、更にラッシュ時間が夜の九時台まで続くと、まるで日本のような様相を呈しているのです。

 ですが、さすがに残業のつく人と、つかない人のケジメは崩れてはいません。そして、それは単純な給与ベースでの規準ではないのです。もっと実態のある裁量性の問題なのです。こうしたアメリカの労働事情をほとんど伝えないままに、「アメリカで行われているホワイトカラーエグゼンプション」などとカタカナ言葉で煙に巻くのは不誠実な議論だと思うのです。

 日本の場合は、アメリカで厳格に運用されている「要件」について、そもそも確認のしようがありません。例えば、個別の管理職に採用権限はありませんし、そもそもホワイトカラーの場合は企業が大学教育における専門性を評価していないのですから、教育や資格によって人材の客観的な要件が把握できない体質にあります。また専門性と責任と職位もバラバラだったり、厳格に管理職や専門職は定義できないということになります。

 最大の問題は裁量性の問題です。日本経団連の資料によれば、日本のホワイトカラーは「頭脳労働」だから裁量性がある、とまあもっともらしいことが書いてあり、実際にこれまでの裁量労働制などもかなり拡大解釈して運用されてきています。ですが、日本のホワイトカラーで現在は残業手当の対象になっている人々の勤務実態には本当の裁量性はないのです。

 顧客からは名指しで問い合わせが来て不在だとクレームになる、突発的に資料作成を求める指示が入り自分の本来の仕事は後回しになる、他の同僚が忙しそうにしているので子供の病気でも早退できない・・・更に言えば、辞令一つで国内どころか海外にまで転勤を強制される、それを拒めば出世街道から「下りた」とみなされる。こうした非裁量性、それも激しいまでの「自己決定権の否定」があるのが日本の「ホワイトカラー」です。

 とにかく会社にいなくてはいけないし、そうでなくても携帯やメールが追いかけてくる、しかもほとんどのケースでは即答を求められます。人間関係を維持しないと仕事が回らない独特の文化のために、そしてやや過度なまでに即対応の求められる文化のために、一人一人の日本のホワイトカラーは一日のほとんどの時間に関して裁量権のない息苦しさの中におり、しかも組織の心理的・政治的な「空気」を維持するための儀礼的・儀式的な会議や出張を強制される中で、絶望的なまでの生産性の低さに甘んじているのです。

 そう申し上げると課長クラスなどの中間管理職も同じではないか、そんな声も聞こえてきそうです。ですが中間管理職と「ヒラ」では意識の上で違いがあります。部下のいる人間は、その部下に対して多少なりとも裁量権を行使することができるのです。ですが、そうした息苦しいヒエラルキーの最下層の人々には、少なくとも時間外の業務命令に対しては割り増し手当を受け取ることが人間の尊厳になっているのです。実質的に裁量権のない人間の時間外手当を奪うというのは、その人間の尊厳を奪う、つまり他人の命令に翻弄されながら何の見返りもない、惨めな存在に貶めることになると言わざるを得ません。

 もっと具体的に申し上げましょう。日本のほとんどの「ホワイトカラー」は退社時刻の5時ないし5時半、(いや職場によっては夜の7時とか8時ということもあるでしょう)に上司に「この資料をまとめてくれよ。今日中に頼む」と言われても、断れないのです。そうしたケースにおいても時間外手当が契約上ないし制度上全く払われないとしたら、その業務命令は代償のない一方的な暴力であり、その暴力に対する支配は隷従にほかなりません。そんな社会は文明的な社会ではないのです。

 そう申し上げると、そのような「突発的な命令」にも従うような「モラルの高い」人間を日本経済は必要としているし、本人も「仕事のやりがい」を感じていればハッピーなはずだ、そんな声が聞こえてきそうです。ですが、本当にモラルも能力も高いのなら二十代でもどんどんホンモノの管理職にして600万とか700万を払うべきですし、モラルだけ高くて能力の低い人間を命令とマニュアルで管理した上での「生産性」ということでは全く国際競争力はないと思います。

 いや「裁量労働」なのだから、時間外労働の埋め合わせとして代休ないし、遅出を認めるから大丈夫・・・これも非現実的です。例えば顧客対応の仕事、会議が重要な要素を占めるチームワークの仕事など「相手のある仕事」ではフレキシブルな勤務はそうは簡単ではありません。確かに、現在でも時間外労働に関する支払いは相当の部分があいまいになっています。いわゆる「サービス残業」でも発覚するのは氷山の一角でしょう。ですが、実態が払わない方向になっているとしたら、その実態が問題なのです。

 いずれにしても、出生率が下降を辿る中、長時間労働の問題と対決することこそ、日本社会の緊急課題ではないでしょうか。とにかく日本人は働き方を変えなくてはならないのです。労働時間を短縮し、生産性を向上するだけでなく、宴会や出張など広い意味での拘束時間も見直してゆくべきです。地方公共団体の裏金が問題になっていますが、そもそも組織の内部での飲食による親睦などというのはライフスタイルの問題として最低限にする必要があるはずです。自腹を切らせれば良いのではありません。徹底的に減らすべきでしょう。

 時短をしなくては少子化が進むだけではありません。そのような総合的時短の中で徹底的に生産性を上げて行かなくては、最終的にどんどん国際化してゆく労働市場の中で日本のホワイトカラーは戦って行けないことになるのです。現在提案されている「エグゼンプション」は労働者個々人だけでなく、日本の競争力という面からも問題です。ここでいう生産性というのは、企業としての業務効率だけではありません。個々人が努力に見合う幸福感を得て、次世代を育むという意味での生産性も考慮しなくては社会は続いていきません。この点に関しても、労働時間管理を外したら、より悪い方向へと歯止めがなくなる危険の方が大きいのです。

 例えば「同一賃金同一労働」が叫ばれる背景に、正社員と非正社員の線引きがあいまいという問題があります。ですが、これが各職場レベルでは大きな問題になっていない背景には、暗黙のルールがあるのです。それは「正社員は宴会や儀礼的会議への出席が義務」であり「社内政治のコマとしての役割を期待される代わりに将来の管理職候補とされる」という「お約束」です。こうした企業文化こそ日本のホワイトカラーの生産性を先進国中恐らく最低の水準に低迷させているのですが、例えば「年収400万円以上は残業手当なし」というような制度ができれば、この状況を更に固定化するようなことにもなりかねません。

 この問題の大きな背景には「再チャレンジ」政策の一環としての「パートの正社員化」が絡んでいるようです。雇用の不安定なパート労働者が増えれば社会が落ち着かなくなる、だから正社員化をしよう、そこまでは結構な話です。ですが、その結果として人件費が高騰するのは何としても避けたい、それが産業界のホンネでしょう。そこをクリアするために、400万以上は残業手当なし、突発命令による時間外労働にも報酬なし、という制度で埋め合わせをしようとしている、そんな構図が見て取れます。

 何が最大の問題なのでしょう。第二次大戦で焼け野原になった日本経済が奇跡的な復興をしたのは、将来に希望があったからです。忙しくても一生懸命やれば自分も会社も社会も良くなる、そうした右肩上がりの希望が社会にあったからです。確かに現在の日本社会は、全体としての量的な希望については大きくは望めなくなりました。ですが、個々人の質的な希望はまだ残っています。努力をすれば何かが報われる、長生きをすれば少しでも幸福な社会を実感できる、そんな質的な希望があるから人々は真剣に仕事をし、製造業を中心にまだまだ競争力を保っているのです。

 考えてみれば20代から30代という「400万」の世代は、社会人としての経験と知識を学びながら、パートナーを探して家庭を育んでゆく重要な時期を生きているのです。そんな人生の時期に、歯止めのない労働時間、しかも時間管理のない中での一方的な服従の連続に心身を蝕まれてしまえば、人間としての質的な希望は吹っ飛んでしまいます。

 本当の裁量性のない、したがって自分で時間をコントロールできないポジションにある人々には、時間外手当という金銭でそのプライドを埋める、また会社側には歯止めをかける、そんな形で人間の尊厳を認めてゆくべきです。そうでなくては、質的な希望を抱いた人材が実現してきた高い生産性の神話は雲散霧消してしまうでしょう。このままカタカナの「エグゼンプション」という言葉に乗っかり、長時間労働という今日本が抱えている最も深刻な社会問題について逆行させるような制度導入がされるのは大変な問題だと思います。

 もう一度申し上げますが、アメリカの「ホワイトカラー・エグゼンプション」は日本で現在検討されている内容とは全く異なる制度です。「残業のつく人」と「残業のつかない人」を明確に区別するだけでなく、「残業のつく人」には残業をさせない、「残業のつかない人」には成果を求める代わりに裁量権を与える、これがアメリカの制度です。ブッシュ政権によって、経営側に有利な変更はされています。ですが、だからといって実質的な裁量権を与えず、時間のケジメもなく人を使っておいて残業手当も与えない、そんなムチャクチャはそこにはありません。

 小泉政権以来の日本には、アメリカ社会の模倣をすることが改革なのだという雰囲気が濃厚にあるようです。裁判員も、ホワイトカラーエグゼンプションもその流れに乗っていると思います。ですが、裁判員制度は判例の重視による判決の一貫性を(悪い意味で)破壊する危険がありますし、ホワイトカラーエグゼンプションの問題に至っては、アメリカの労働慣行や制度を歪曲した挙げ句に、まったく別の非人間的な提案に変えてしまっていると言えるでしょう。思えば、この二つの例が実に粗雑な提案であるのは、国会での党議拘束が多様な選択肢をオープンかつ実務的に協議する環境を奪っているからだとも言えるのです。一党支配と官僚制度の中から常に最適解が出てくる時代は終っているのです。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2173-ab7b1eb7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック