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《米国の属国・日本》(10)

軍事面での対米従属(3):「国策の共有」の虚構性


 白井さんは、前回引用した新安保についての論評で、「アメリカが日本を守ってくれる」という新安保支持論者の立論が正しいと言えるのは「日米が完全に国策を共有している」という前提が成り立つ限りに於いてであると述べていた。新安保支持論者は、勿論、「日米が完全に国策を共有している」と、検証抜きで楽観しているのだが、果たしてそうなのだろうか。この問題に対する白井さんの分析は次のようである。

 この(日米が国策の根本内容を完全に共有できるという前提)段階で想定外にならざるをえないことが、ひとつあります。それはつまり、日米の友好関係が壊れ、日米が再び対立するという状態です。そうなると、日本側から見れば、米軍は占領軍以外の何者でもないということになる。これは何もまったくの仮定の話ではなく、現にそのような認識をアメリカが見せたことがすでにあります。

 ニクソン政権時代の1971年、国務長官のヘンリー・キッシンジャーが中国に極秘訪問し、周恩来首相と会談した際に述べた「瓶の蓋」論というものがあります。

 キッシンジャーは、米中国交正常化に向けた準備交渉のために中国へ行ったのですが、両者の会談の席で周恩来が、国交正常化に対して前向きな姿勢を示しつつも、在日米軍の存在について、「なぜ、米軍を他国〔日本〕に駐留させるのですか」とキッシンジャーを問い詰めます。そのように我が方を敵視して喉元に大軍を突きつけているような状態では、友好関係は結べない、と。これに対してキッシンジャーは、
「我々と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させなくしている」
「日本が大々的に再軍備をすれば、やすやすと1930年代の政策を繰り返すことができるでしょう」
と答えます。

 キッシンジャーは周との別の会談の席でも、
「もし我々が撤退するとなると、原子力の平和利用計画によって日本は十分なプルトニウムを保有していますから、とても簡単に核兵器を作ることができます。ですから、我々の撤退にとって代わるのは、決して望ましくない日本の核計画なのであり、我々はそれに反対なのです」
と述べています。要するに、在日米軍とは、第二次大戦のときに見られた、極めて危険な存在としての日本人を押さえ込むための「瓶の蓋」である、ということです。

 この論理は、中国と国交を開くためのレトリックにすぎないのか、それとも本音なのか。仮に本音ならば、日米は端的に対立しているということになります。

 いまから振り返れば、アメリカが中華人民共和国との国交樹立に向かったという流れは、冷戦構造の終結に向けた第一歩でした。そのことが示唆するのは、日米が根本的次元で国策を共有できる状態とは、冷戦構造があってこそ可能であった、ということです。

 60年安保について岸は、自分はこんなに正しいことをやろうとしているのに、なぜ国民は反発するんだと腹を立てたわけですが、しかしながら、60年安保に対する批判の本質は、新条約に切り替えることによって、冷戦構造の中で日米が国策を完全に共有するほかないような状態を歩むしかなくなる、ということだったのです。

 岸首相の前任者であった石橋湛山は、「何も急ぐ必要などないのに」という批判を当時投げ掛けました。それは、冷戦構造が永久に続く保障はないのに、冷戦構造の中でしか合理性を持たないような立ち位置に国を置くことに対する批判だったと言えます。確かに、51年の旧条約がある限り、ほとんど公然たる仕方で占領が継続しているような状態が続く。しかし、相対的な対等化は、日米の国策の共有が運命づけられるという事態をもたらしたわけです。

 ただし、冷戦構造が続く限りは、日本はこの構造の中で経済的に大成功を収めることができ、保守政権が長期にわたって安定政権を担当し続けることができました。問題が表面化したのは、冷戦構造の崩壊によって、この日米の根本的国策の共有という前提が揺らぎ始めたためです。湛山の表明した危惧は現実化しました。どれほど親密さを喧伝しても、もう現実には、国策は非共有になり、場合によっては対立となることもあります。

 冷戦構造下においてすらこの共有が大きく揺らいだ瞬間を、もうひとつあげましょう。例えばベトナム戦争です。ベトナムでアメリカがやっていることに対して、「これはおかしいではないか」という声が日本の中でも非常に大きくなりました。べ平連(ベトナムに平和を!・市民連合)などを中心とするベトナム反戦運動の広がりは、その表れです。結局アメリカはベトナム戦争に敗れ、この敗北がアメリカが下り坂を迎えるきっかけのひとつになります。

 とはいえ、アメリカが自由主義陣営のリーダーの座からすぐに滑り落ちることはなかった。先に見たように、経済面での没落の食い止めを助けたのは、他ならぬ日本でした。しかし、似たようなことが、今度は冷戦崩壊後の2000年代になって反復されます。すなわちイラク戦争です。ブッシュ・ジュニア政権が始めたイラク戦争の失敗が明白になったことによって、アメリカの覇権が根本的に揺らぐ時代に突入してきたわけです。

 日米の国策が共有出来たのは冷戦下の時であって、冷戦崩壊後はそれは虚構でしかなかったと言っている。冷戦崩壊後の対米従属は「安定の時代」から「自己目的化」していったのだ。

 冷戦末期に首相だった中曾根康弘の「日本列島はアメリカの不沈空母である」という発言があったが、これが対米従属が「自己目的化」していった表徴的な出来事だった。白井さんはこの発言について次のように解説している。

 この発言の実質的内容は、「シーレーン防衛」という、日本の近海で活動するソ連の原子力潜水艦の活動を、日本の海軍力を用いて阻止するという話でした。アメリカが日本に対して軍事的な注文、つまり対ソ封じ込め戦略にもっと積極的に参与してほしいという注文をつけてきて、それを日本が呑んだ形です。

 防衛費のGNP1%枠のルールが撤廃されたのも、この時期です。当時、国防予算はGNPの1%を超えてはならないというルールがあったのですが、シーレーン防衛のために1%ルールをやめることになります。中曽根政権の時代には、新冷戦などとも言われて、再び米ソ対立が深まっていったわけですが、最終的にはソ連が崩壊し、冷戦構造が崩れます。こうして日本は、アメリカとの新たな関係を模索しなければならない局面に差し掛かったわけです。つまり、前章で論じた対米従属の三つの区分にあてはめれば、「安定の時代」が終わりを迎えたわけです。

 続いて白井さんは、冷戦崩壊後に対米従属がより深まり「自己目的化」していった理由として「親米保守の逆説的状況」を取り上げている。

 戦後間もない頃から、銀座の数寄屋橋でしょっちゅう演説をしていることで有名だった、赤尾敏という右翼の活動家がいました。赤尾は民族派でありながら、親米右翼思想の持ち主です。すでに指摘したとおり、「親米右翼」「親米保守」というのは、本来矛盾を含む表現です。「親米ナショナリズム」などという言葉は、日本以外の国にあるのでしょうか。聞いたことかありません。例えば、フランスの保守であれば「親仏保守」、ドイツの右翼であれば「親独右翼」であるはずです。ところが日本でだけは、「親米保守」なる、まことに奇妙な立場が成り立つとされているわけです。それでも、この「親米保守」もソ連が崩壊するまでは、それなりの理屈がありました。

 赤尾に、ある日誰かが問いかけました。「先生は、右翼と名乗ってらして愛国者でいらっしやるのに、アメリカに対してなぜそんなに親近感があるのですか」と。すると赤尾は、「いや、アメリカは嫌いだよ。だけどいまはしょうがないんだよ。ソ連の共産主義は最悪の脅威である。それを防ぐためにはアメリカの力を借りるしかないんだ」と答えたといいます。この答えは、先にも触れましたが、日本の戦後保守、あるいは55年体制下の自民党の前提を正確に言い当てていると思います。

 しかしながら、ソ連が崩壊してしまえば、保守なり右翼なりを名乗る際に、本来「親米」という言葉は言えなくなるはずです。共産主義という共通の敵がいたからこそ、「親米保守」ということにもある程度の根拠はあったわけですが、その敵はいなくなった。ところが現実には、逆に保守はますます親米化し、どんどんアメリカ様の言いなりになっている。この逆説は、一体どこから発生するのか、考え抜かなくてはいけないのです。

 これに関連して、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた佐藤優氏が、『国家の罠』を書き、自身が巻き込まれた、いわゆる外務省・鈴木宗男事件の背景を分析しているのが参考になります。

 佐藤さんが逮捕されたのは、2002年のことでした。いわく、この事件の本質の一つは、外務省の内部的な路線対立・派閥対立において、対米従属派が他の派閥を駆逐するために起きたのだ、と。佐藤氏の見方によれば、それ以前の外務省内には、大きく言って三つの潮流があった。親米主義・アジア主義・地政学主義です。地政学主義とは、地政学的な観点に基づいて、その時々で国際間のパートナーを替えることも辞さないという立場ですから、親米路線を相対化して見ていることになります。佐藤さんは自身をこの派閥に属していたと分析しています。この三つの路線の拮抗によってそれまでの外交方針が成り立っていたのが、鈴木宗男事件を経ることで、親米主義以外の路線は引きずり降ろされることになった。それが起こった時期は、これからお話しする、アメリカの単独行動主義に日本が無批判的に追随していく始まりの時期に当たります。

 対米従属の「自己目的化」路線の無批判的な徹底的追随に行き着いたのが「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権である。『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(100):終末論の時代(36)』で取り上げたように、「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権のトンデモ政策は全て「第3次アーミテージ・ナイ・レポート」が押しつけてきた政策の実行だった。ここに行き着いた経緯を、白井さんは次のように解説している。

 ソ連が崩壊した1990年代初頭から今日に至るまで、対米従属が一直線に「自己目的化」していったわけではありません。例えば、95年前後から、アメリカは日本に対して集団的自衛権行使容認を要求しています。アメリカから見れば、この要求が実現するまで20年もかかっているのです。ただし、日本側がこの間それを断ってきたわけでもなかった。日本の歴代政権は、ひと言でいえば生返事、「前向きに検討します」などと言って、のらりくらりとかわしてきたとも言えます。それが、第二次安倍政権になって急に受け入れるようになったわけです。

 それでは、90年代に何が言われていたか。この時代、日本の国際的責任がいよいよ強調されるようになりました。日本は明らかに経済的には大国化しているのだから、世界で生じている様々な問題に対して背を向けていることはできない、大国にふさわしい国際貢献が求められているのだ、という論調です。第一章で言及した小沢一郎氏の『日本改造計画』でも、そのような主張が強調されていました。

 国際貢献には、主に二つの手段があると考えられてきました。お金を出すことと、人を出すことです。この時の「人」とは、端的に軍事力を指します。自衛隊を初めて公式に海外へ出したという意味で画期的だった湾岸戦争後のペルシヤ湾での機雷除去作業が、重要なターニングポイントになります。そして、国連PKO活動への参加であるとか、自衛隊の海外での活動は、それ以降だんだんとその場を広げていきます。

 そこで留意すべきは、90年代におけるこうした活動では、国連中心主義、すなわち国連の活動に参加するという形で責任を果たしていかなくてはならない、という考え方が強く謳われており、実際その方針に即して自衛隊の派遣等が行なわれていたということです。それが決定的に変質し始めるのが、9・11以後、対テロ戦争という文脈が出てきたときでした。アフガン戦争、イラク戦争と、単独行動主義にアメリカが突っ込んでいくときに、アメリカのスタンスに対する国際社会からの強力な批判があったにもかかわらず、日本政府は逡巡する気配すらなくアメリカに追随しました。その延長線上に、今日の集団的自衛権行使容認は位置づけられます。

 それでも、小泉政権がアフガン戦争のときの自衛隊のインド洋派遣や、イラク戦争に対して派兵に近いことをやったときは、法的根拠は特措法によって処理され、憲法解釈の変更や改憲には踏み込みませんでした。ところが、第2次安倍政権においては、憲法解釈を変更し、アメリカの世界戦略への日本の追随を、言うなれば原理化することになりました。小泉政権のやり方は、ある意味で場当たり的ではありました。しかしそれは、アメリカの強引な軍事行動への追随を原理化してはいなかったわけです。つまり、小泉政権がなし崩し的に採った方針を、第2次安倍政権は原理化していると言えます。

 次回は「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権が強引に成立させた憲法違反の戦争法(安保関連法)を取り上げよう。
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