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《米国の属国・日本》(8)

軍事面での対米従属(1):対米従属路線の始まり


 「軍事面での対米従属」と言えば、「二重の法体系」の中の「日米安保条約」と、その付随協定である「日米地位協定」が問題となるが、この二つについてはこれまでに色々なところで取り上げてきた。特に「日米地位協定」についてはシリーズ《沖縄に学ぶ》で「沖縄問題の本質(1)~(9)」でかなり詳しく取り上げている。ただし、「日米安保条約」そのものについては「日米地位協定」の論考に必要な部分だけを断片的取り上げてきただけだった。白井さんは「軍事面での対米従属」については「日米安保体制の本質」と題して、旧安保と新安保を対比させながら、その問題の本質に迫っている。この白井さんの論考から、これまでに取り上げてこなかった観点を追っていくことにする。

 白井さんは「経済領域での対米従属」の内実の分析から、「確立の時代」「安定の時代」「自己目的化の時代」という三つの時代区分を提示していたが、日米安保の考察の結果、「軍事面での対米従属」についてもこの三つの時代区分を採用している。
「51年の旧安保の時代→確立の時代」
「60年の新安保の時代→安定の時代」
「冷戦崩壊後の安保時代→自己目的化の時代」
として、次のような表でまとめている。

安保の時代区分
 白井さんはこの時代区分について、次のように解説している。

 このように整理することによって、日米安保体制の意味が、戦後の全期間を通して変化してきたことがよくわかると思います。51年の安保条約では、戦勝国アメリカが敗戦国日本をほとんど戦利品として扱ったに等しいと言うべきでしょう。しかし同時に、それは日本側から見れば、「国体護持」の実現手段であった。

 60年の安保改定によって、条件つきながらも米軍の日本防衛義務が明記され、米軍はアメリカにとって都合のよい政府を国民の批判や内乱から守っているのではなく、日本国民を守っているのだ、という体裁となりました。無論それは、日米間での国策の根本的共有が条件となりますが、51年の安保条約においては、在日米軍の占領軍的性格が拭えなかった以上、国策の共有も強制的な性格を免れ得なかったのに対して、60年の安保条約では、国策の共有は日本側から主体的に選び取ったものだ、という体裁を得ることとなります。まさにこの点をこそ、多くの60年安保反対の論者が追及したことは、先に見たとおりです。

 岸信介による安保改定のポイントに付け加えなくてはならないのは、「極東条項」が加えられたことです。すなわち、在日米軍の駐留目的は、日本の安全を守ることだけでなく、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」と定義づけられました。これは、言い換えれば、在日米軍が同盟国日本の安全保障に寄与するだけでなく、米軍が世界の秩序を安定させるための活動の前線基地として在日米軍基地を利用するということを、あらためて定めたものと言えます。

 この極東条項の意義は、冷戦崩壊により大きく変化していきます。なぜなら、ソ連が崩壊することで、日米安保体制の最大の機能であったはずの対ソ連の共同防衛が、意味をなさなくなったからです。順当に考えれば、ソ連の脅威が消滅した時点で、控え目に見ても、在日米軍基地は劇的な縮小を視野に入れてもおかしくないはずです。ところが現実にはそうならなかった。ソ連は存在しない、にもかかわらず巨大な在日米軍基地は維持されなければならない、ということになりました。この矛盾を解くことができるのは、極東条項の延長線上にある「世界の警察官」としてのアメリカの活動を支えるために在日米軍基地があるのだ、という論理しかありません。

 そして、このように整理することによって見えてくる最大のポイントは、彼我の国力差が51年時点と冷戦崩壊後ではまったく異なるにもかかわらず、冷戦崩壊後の安保体制は、51年安保の体制に似通ってくるということにほかなりません。すなわち、述べてきたように、共通敵が失われたためにもはや国家的利益は共有されるよりもむしろ対立をはらむという事実が決定的です。そうだとすれば、冷戦崩壊後の在日米軍とは、一体誰を守るためにあるのか。このことがよくよく考えられなければなりません。そこに対米従属の自己目的化の病理の核心の問題が隠されているはずなのです。

 では、このようにまとめられる至った白井さんの考察をたどってみることにする。白井さんは安保体制の起源として『昭和天皇の「現実的判断」』を、豊下楢彦さんの著作を援用しながら論じている。

 実は、このテーマについては、私は以下の記事でかなり詳しく取り上げている。その時用いた教科書は小森陽一著『天皇の玉音放送』や豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』・『安保条約の成立』であった。(このページの最後に白井さんの簡潔な論考を転載するので、以下の過去記事がわずらわしい場合は読み飛ばして下さい。)

 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(1)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(2)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(3)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(4)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(5)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(6)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(7)』
 もう一つ、『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(29):権力が教育を破壊する(12):教育反動(4)』の冒頭に記事。

 さて、白井さんの論考を転載しよう。

安保体制の起源としての昭和天皇

 そこで歴史を遡り、安保条約の起源を見てみましょう。豊下楢彦氏をはじめとする、日本の対米従属を批判的に見る非主流派の歴史家たちが非常に困難な研究を重ねて、その政治的プロセスを明らかにしましたが、日米安保条約は、サンフランシスコ講和条約とセットのものです。同講和条約が発効する時点で、占領軍は撤退しなくてはなりません。けれども、米軍は撤退したくなかった。冷戦構造下において、日本に世界戦略のための基地を持ち続けたい。日本の国家主権が回復されてしまうと、外国の軍隊の基地を置き続ける理由がなくなります。ですから別個に条約を結ぶ必要があったわけです。それが日米安保条約の起源です。

 このように、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約は限りなくワンセットのものである、ということをまず押さえておく必要があります。この交渉を米側で主導したのは、当時の国務長官であるジョン・フォスター・ダレスですが、ダレスが獲得しようとした目標は、独立したはずの日本に、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を得る、ということでした。要するに、やりたい放題にやるということです。もちろんこれは理想的な獲得目標であって、ダレスとて、まさか100%それが叶うとは思っていなかった。しかし、交渉過程で日本側が譲歩を重ねたために、ダレスの理想的な目標が実現することとなったのです。

 その状況をつくった主役がなんと昭和天皇であったというのが、豊下氏の研究が提出した驚くべき説です。私は、豊下説には相当の説得力があると考えています。当時、首相の吉田茂にしても、アメリカの要求を100%飲むなんて、独立国としては許されざることであると考えていた。にもかかわらず、ダレスの要求は完全に受け入れられた。それを主導したのは昭和天皇であったというわけです。日本に米軍基地がたくさんあるのは、戦争に負けた帰結であり、本来日本民族のナショナル・アイデンティティにとって非常にトラウマ的な出来事であるはずです。臥薪嘗胆の気持ちで米軍基地を見つめるというのがナショナリストの心のあり方でしょうが、そのような状態を望んだのは、誰あろう天皇陛下であったと。

昭和天皇の「現実的判断」

 なぜ昭和天皇はそこまでしたのかという驚きが生じますが、これには明確な理由があるのです。それは、昭和天皇の共産主義に対する恐怖です。豊下氏によれば、昭和天皇は冷戦が本格化する以前から「内外の共産主義が天皇制の打倒をめざして直接・間接に日本を侵略してくるのではないかという危機感に苛まれて」いました。20世紀以前から世界各国で起きた多くの革命において王室は廃され、ロシア革命に至っては皇帝一族もろとも殺されてしまいました。日本で共産主義革命が起こったらどうなるか。皇統が断絶してしまうに違いないという恐怖があった。だから、どんな妥協をしても、何とかして皇統を続けていかねばならないというのが、昭和天皇の覚悟であったとも言えるわけで、そのために米軍を利用したのです。豊下氏も言っているように、こう考えると、在日米軍とは、国体護持のための装置だったということにもなります。

 天皇制を存続させるということは、皇族にとって職業倫理です。豊下氏には『昭和天皇の戦後日本 ―〈憲法・安保体制〉にいたる道』という著作がありますが、それを読むとわかるのは、当時の大半の保守政治家よりも、昭和天皇の方がはるかに頭脳明晰であったということです。昭和天皇の皇統をつないでいくという強靫なる意志が冴えた現実的な判断を生んでいたことがよくわかります。

 その象徴的な事例が、戦後憲法をめぐるプロセスです。恒久的な武装解除という内容に対して多くの政治家たちが拒否反応を示す中、昭和天皇は「それでよい」と言います。

 オーストラリアやソ連は天皇制廃止を主張しており、憲法制定の過程に他の連合国が介入してくるような事態になれば、天皇制を廃止する憲法を受け入れざるを得なくなってしまうかもしれない。だから、アメリカは、他の連合国を納得させるには、天皇制維持のかわりに武装放棄をする憲法にするしかないと言って、政府要入たちに迫りました。昭和天皇は、こうした背景を非常によく理解していました。

 ただし、こうした「現実的な判断」が冷酷なものでもあったことを付け加えておかなければなりません。それが、戦後の沖縄の処遇をめぐる判断です。共産主義陣営に対する守りを固めるために、沖縄を無期限的にアメリカの手に委ねるという提案を、昭和天皇自身ががアメリカに対して行ないました(沖縄メッセージ、1947年)。このことが、現在に続く在沖縄米軍基地問題につながっていることは、まったく明らかです。

 憲法第九条がアメリカからの押しつけのように書かれているが、2016年8月12日付けの東京新聞朝刊のトップ記事が、それは決して押しつけられたものではないことを証明する新史料が堀尾輝久・東大名誉教授によって発見されたことを報じていた。主要部分を転載しておこう。

 堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。

 堀尾氏は国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。

 マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。

 九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。堀尾氏が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾氏は二項も含めて幣原の発案と推測する。

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