2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《米国の属国・日本》(4)

二重の法体系とアメリカの二面性


 続いて白井さんは対米従属を考える上での大事な問題として「二重の法体系」と「アメリカの二面性」を取り上げている。前者について、私は《沖縄に学ぶ》の次の記事で詳しく取り上げている。
沖縄問題の本質(1):行政協定と地位協定(1)
沖縄問題の本質(2):行政協定と地位協定(2)
沖縄問題の本質(3):日米合同委員会(1)
沖縄問題の本質(4):日米合同委員会(2)
《沖縄に学ぶ》(28):沖縄問題の本質(5):日米原子力協定
沖縄問題の本質(6):爆音訴訟
沖縄問題の本質(7):米軍ヘリ墜落事故
沖縄問題の本質(8):日本には国境がない

 「二重の法体系」とは何か。白井さんは矢部宏冶著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を援用して論を進めているが、上の私の記事もその著書を利用している。上に提示した記事「沖縄問題の本質(4):日米合同委員会(2)」では「二重の法体系」のポイントを論じている矢部さんの論説を直接引用した。それを再掲載しておこう。

 深刻なのは、田中耕太郎が書いたこの最高裁判決の影響がおよぶのが、軍事の問題だけではないということです。最大のポイントは、この判決によって、
「アメリカ政府(上位)」>「日本政府(下位)」
という、占領期に生まれ、その後もおそらく違法な形で温存されていた権力構造が、
「アメリカとの条約群(上位)」>「憲法を含む日本の国内法(下位)」
という形で法的に確定してしまったことにあります。

 安保条約の条文は全部で10ヵ条しかありませんが、その下には在日米軍の法的な特権について定めた日米地位協定がある。さらにその日米地位協定にもとづき、在日米軍を具体的にどう運用するかをめぐって、日本の官僚と米軍は60年以上にわたって毎月、会議をしているわけです。それが「日米合同委員会」という名の組織なのですが、左ページの図(日米合同委員会組織図)のように、外務省北米局長を代表とする、日本のさまざまな省庁から選ばれたエリート官僚たちと、在日米軍のトップたちが毎月二回会議をしている。そこでいろいろな合意が生まれ、議事録に書きこまれていく。合意したが議事録には書かない、いわゆる「密約」もある。全体でひとつの国の法体系のような膨大な取り決めがあるわけです。しかもそれらは、原則として公表されないことになっている。

 そうした日米安保をめぐる膨大な取り決めの総体は、憲法学者の長谷川正安・名古屋大学誉教授によって、「安保法体系」と名づけられています。その「安保法体系」が、砂川裁判の最高裁判決によって、日本の国内法よりも上位に位置することが確定してしまった。つまり裁判になったら、絶対にそちらが勝つ。すると官僚は当然、勝つほうにつくわけです。

 官僚というのは法律が存在基盤ですから、下位の法体系(日本の国内法)より、上位の法体系(安保法体型)を優先して動くのは当然です。裁判で負ける側には絶対に立たないというのが官僚ですから、それは責められない。

 しかも、この日米合同委員会のメンバーがその後どうなっているかを調べてみると、このインナー・サークルに所属した官僚は、みなそのあと、めざましく出世している。

 とくに顕著なのが法務省で、省のトップである事務次官のなかに、日米合同委員会の元メンバー(大臣官房長経験者)が占める割合は、過去17人中12人。そのうち9人は、さらに次官より格上とされる検事総長になっているのです。

 このように過去60年以上にわたって、安保法体系を協議するインナー・サークルに属した人間が、必ず日本の権力機構のトップにすわるという構造ができあかっている。ひとりの超エリート官僚がいたとして、彼の上司も、そのまた上司も、さらにその上司も、すべてこのサークルのメンバーです。逆らうことなどできるはずがない。だから鳩山さんの証言にあるように、日本国憲法によって選ばれた首相に対し、エリート官僚たちが徒党を組んで、真正面から反旗をひるがえすというようなことが起こるわけです。

 この章のはじめで、私が沖縄に行ったきっかけは、
「鳩山首相を失脚させたのは、本当はだれなのか」
「官僚たちが忠誠を誓っていた『首相以外のなにか』とは、いったいなんだったのか」
という疑問だったと言いましたが、この構造を知って、その疑問に答えが出ました。  彼らは日本国憲法よりも上位にある、この「安保法体系」に忠誠を誓っていたということだったのです

 二つ目の「アメリカの二面性」については白井さんの論考を直接引用する。

 戦後、アメリカは日本を直接的・間接的に支配してきた。支配とは、力を担保として行なわれるものです。力の一つは、いわゆるハードパワーです。人を支配する、言うことを聞かせたいときに、どうすればいいか。最も単純な手段が暴力です。しかし、暴力のみによって人に言うことを聞かせるのは不安定だし、効率が悪い。そこで、自発的に言うことを聞くように仕向けるのが上手いやり方です。そうした手段は、政治学的にはソフトパワーと呼ばれています。

 これは言い換えれば文化的な力です。すなわち日米関係で考えれば、日本人がアメリカを好きになることが、アメリカにとっての力になるということです。もちろんアメリカニズムの流入は戦前からありましたが、戦後になると、その物量がまったく変わってくる。アメリカン・ウェイ・オブ・ライフやアメリカン・カルチャーヘの憧れが駆り立てられるということが、かなり組織的に行なわれていったわけです。

 ですから、アメリカの二面性と言ったとき、戦後日本に流入してきた「アメリカ的なるもの」とは、一方では「暴力としてのアメリカ」であり、それは端的に占領軍です。しかし、暴力の力だけで支配するというのはアメリカにとっても決して望ましいことではなかった。日本人が反米感情にとらわれるようになったら、東側陣営に走りかねない危惧があったわけです。ゆえに、暴力をどこかで担保しつつも、「文化としてのアメリカ」を同時に入れていく。この二つをバランスさせてきたわけです。

 このアメリカの二面性は、敗戦直後の日本人にとっては、まだ皮膚感覚で実感できたものでした。まず実際に、占領軍が目の前にいる。占領軍兵士と地域住民の間で、様々な軋轢が起こる。米兵による暴行事件や性犯罪が数多く起こった。まさに、「暴力としてのアメリカ」です。しかし、本土の基地が徐々に削減されていくことによって、「暴力としてのアメリカは後景に退いていくことになります。では、その削減されたものはどこに行ったのか。言うまでもなく沖縄です。

 こうして、本土では暴力的な側面は脱色されて、どんどん見えなくなっていきます。では、アメリカの暴力性が本当になくなったのかというと、そんなことはまったくない。アメリカは第二次大戦後も、常に大中小の戦争をやり続けてきた国なのですから。しかし、日本の本土においては、「暴力としてのアメリカ」を見ないで済むようになり、「文化としてのアメリカ」だけを享受するという巧妙な装置がつくり上げられていったわけです。その結果、ほとんどの本土の人間にとっては、アメリカの暴力が再び日本に振り向けられるかもしれないということが想定外になってしまいました。先の戦争で日本を打ち負かしたところのあの暴力が、再びこちらに向けられることがあるかもしれないという可能性をまったく考えなくなってしまったのです。このことが、本土で永続敗戦レジームに対する抵抗がまだ本格化しないことの理由の一つです。

 要するに、戦後日本はアメリカに対して、「基地でも何でも提供しますから、暴れるなら外でやってください」という態度を取ることで、「暴力としてのアメリカ」の面を巧みにやり過ごすことに成功したわけです。そのなかで、沖縄だけが例外でした。沖縄だけがアメリカの暴力性にさらされ続け、いまなおさらされている。だからこそ、「暴力としてのアメリカ」を想定外とする本土に対して、いま、沖縄は根本的な抗議の声を上げるに至っているのです。

 沖縄は、永続敗戦レジームの外部に位置すると同時に、「暴力としてのアメリカ」の側面を一身に引き受けることによって、本土でこのレジームが成立するための不可欠の要素であったわけです。沖縄で現在起こっていることについては、終章で触れますが、沖縄の問題を考えることは、永続敗戦レジームの本質の一端を明らかにすることでもあります。

 《沖縄に学ぶ》で学習してきた事を振り返れば、白井さんの論説には全て納得できる。

 「暴力としてのアメリカ」を沖縄に押しつけて、そんなものは元々なかったのだとすまし顔で、日本の権力の中枢に群がるエリートたちはどのように「文化としてのアメリカ」に拝跪してきたのか。白井さんは「幻想と利権共同体」と題して、この問題を取り上げている。

 結局、「暴力としてのアメリカ」が不可視化され「文化としてのアメリカ」のみが前景化した結果、いわば慈悲深いアメリカ、恵みをもたらすアメリカというイメージが、抱かれるようになっていきます。それは大日本帝国において、天皇が果たしていた役割を代行するものでもありました。その意味では、まさに慈悲深いアメリカという幻想をつくり出すことこそが、「永続敗戦レジーム」の生命線であると言っても過言ではありません。

 しかし、その中核部の実体は、政官財学メディアといったあらゆる業界に張り巡らされた対米従属利権共同体にすぎません。利権共同体そのものはどこにでもあるつまらないものです。そして、日本社会の中のごく限られた一部の人間がアメリカとうまくやっていて、そこから様々な利権を引き出しているというのならば、話は非常にわかりやすい。しかし、この場合、その利権共同体は政官財学メディアなどあらゆる領域に広範囲に張り巡らされているし、そうやって広がれば当然利権は広く薄く分配されますから、利権を独占している存在を特定することは難しくなる。さらには、この利権共同体の最重要の機能が、慈悲深いアメリカという幻想をつくり出すことによってこのような構造を不可視にすることにほかならないわけです。

 学問の世界から一例を挙げると、国際政治学という学問があります。国際政治学者が書いた本を書店で手に取ると、われわれプロは、目次より何よりまず著者の学歴経歴を見ます。翻訳書の場合は訳者の学歴経歴です。学歴経歴を見るだけで、その本に書いてある内容の八割九割はわかってしまう。どうしてか。まず国際関係論とか国際政治学を専攻している学者の多くがアメリカ関係の研究をやっています。日米関係やアメリカ外交ですね。戦後の日米関係の重要性に鑑みれば、国際政治学の専門家の多くがアメリカに関する研究をすること自体は不自然ではありません。

 問題は、この人たちがどのような教育を受け、どのようにキャリア形成をするかということです。その人たちの多くは、アメリカに留学をし、場合によってはアメリカで学位を取る。

 アメリカにおける国際関係論とはどういう学問なのか。これは「アメリカの国益を最大化するためにはどうするべきかを考える学問である」と明快に定義されています。アメリカ人がそういった学問 ―これほど政治的目的を前面に出した学問を学問と呼ぶべきなのか微妙ですが― をやるのは勝手ですが、日本人がアメリカに行って、この分野で学位を取り、当地の人脈をつくり、そして帰国後に日本の大学や研究機関で職を得て、講義や教育、あるいは政府の政策に助言をしたりする。そのことの意味を、よく考える必要があります。

 なぜわれわれが、国際政治学者の本を見るとき、学歴経歴から見るのか、察しがつくでしょう。何年アメリカで学んだのか、そこで学位は取ったのか、帰国後の就職活動で苦労しているか ――こうした点を見れば、本の内容はおおよそ推測できます。つまり、ある国際政治学者のアメリカ滞在歴が長く、帰国後あっという間に良いポストに就職しているというような場合、その著書の主張は、「日米同盟は永遠に続くべきである」というものであると、見当がつくのです。そのような結論ありきで書かれた書物に、当然知的緊張はありません。

 日本の権力の中枢に群がるエリートたちにとってはアメリカ留学は大変な箔が付く勲章なのだ。ここで思い出したことがある。つい最近話題になった学歴詐称問題だ。その話題人物の中に安倍総理と麻生副総理がいた。それぞれの公式ホームページに次のような学歴が書かれていたそうだ
安倍の場合
 1977年3月 成蹊大学法学部政治学科卒業
続いて南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学
麻生の場合
 1963年 学習院大学政治学部卒業
続いてスタンフォード大学大学院に2年間留学
さらに2年間ロンドン大学政治経済学院へ留学

 その後、この留学という詐称学歴は削除されたそうだ。悲しいかな、ウソをついてまで勲章を欲しがる無知・無恥ぶりを発揮するような人物が総理・副総理にしてしまう国民も無知にして無恥と言わざるを得ない。
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