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《沖縄に学ぶ》(56)

未来へ向かって(3):お手本の一つ「パラオ共和国」(2)


 パラオはアメリカが提示した「自由連合協定」に対してどのような交渉を経て独立を得るに至ったのか。次のような苦節の結果であった。

 「悲しみの涙が喜びの涙に変わった」―1994年10月1日、パラオ共和国は米国の信託統治領から独立し、完全主権国家となった。それまで対立し合っていた人々は分け隔てなく「皆、泣いた」。当時パラオ共和国大統領だった、日系のクニオ・ナカムラ氏(70歳)は、独立宣言の書面にサインした時の感激をこう振り返る。パラオ人同士が傷つけ合う分断や対立を乗り越えた瞬間でもあった。

 パラオでは約10年間、核の持ち込みを米国に認める内容が入った自由連合協定の締結支特派と、締結に反対する非核憲法派が、激しい争いを繰り広げた。争いは米国とパラオとの溝も深め、独立が遅れる要因となり、パラオ内ではいら立ちが募っていた。

 パラオ憲法では、この協定を承認するには住民投票で75%以上の承認が必要だった。住民投票が6回繰り返されたが基準を超えなかったため1992年、協定承認基準を投票総数の過半数に修正することを問う住民投票が実施され、62%が賛成した。パラオ最高裁は憲法修正は有効との判決を下した。

 93年、パラオと米国間の対立を打開するため、クリストファー米国務長官は、自由連合協定に関する書簡をナカムラ大統領に送付した。書簡には、
①パラオヘの基地建設の予定はない、
②パラオに軍を展開するのは有事に限る、
③平時においてパラオの領海・領土を核や化学物質で汚染した場合は責任をもって処理し十分に補償する、
④独立後も財政援助の協議に応じる
と記されていた。

 憲法修正と、この書簡を受けた8回目の住民投票で68%が賛成し、協定は承認された。翌94年、パラオは独立した。

 「今思えば、奇跡だ」。93年から2期8年間大統領を務めたナカムラ氏は就任前、行政職を14年、上院議員や副大統領も歴任した。憲法起草者のひとりでもあり、米国と交渉するための力、経験も豊富だった。ワシントンでの交渉は20回に及び、時には130人の米側弁護団に対し、自身を含め3人で頭脳戦に挑んだ。憲法を重視し「問題が解決しない限り協定にサインしない」と言い放った。米国との交渉は「死ぬまで降参しないという決意で臨んだ」と言う。

 この決意の後ろ盾は、住民投票でパラオ市民が憲法承認に投じた92%の支持だ。「1人ならすぐ負けるが、パラオの人々が支えてくれている」。そう信じ、米国と交渉、信念を貫いた。その態度がクリストファーの書簡につながった ―と振り返る。

 独立から20年。パラオの将来の担い手である若者の海外流出や教育の不徹底を課題に挙げる。経済は発展したものの、伝統文化の継承や自然環境保護が最も重要と述べ、「文化や自然はお金で買えない」と強調した。

 沖縄にも思いを寄せ、エールを送った。「信念を諦めなければ、物事は変えられる。自分らが日本と違うと思うのなら独立もできる。どんなに困難なことも、必ず乗り越えられる」

 パラオは独立に向けて、あるいは独立後に、どのような問題が起こり、それにどのように対処してきたのだろうか。

《開発か、環境保護か》
 沖縄本島中部の「基地の街」のかつての姿を思い起こさせる古い建物やトタン屋根が並ぶ。島の周りには透き通った海が広がる。パラオは海を中心とした観光の島だ。観光客は台湾人や中国人、韓国人、日本人が目立つ。パラオ人の服装は質素だが、若者はヒップホップ風に着飾る。スーパーや飲食店の食べ物はほとんど輸入品だ。

 旅行社で働くパラオ人、ボド・スコボさん(36歳)によると、近年は米国の番組が見られるケーブルテレビがほとんどの家庭に普及し、インターネットや携帯電話などの影響で、ファッションや食べ物も含めてライフスタイルのアメリカ化が進んでいる。大学は短大が1校。パラオ人の平均収入は月約5万円。高収入職や進学を目指したり、アメリカ文化に憧れたりして米国に渡る若者は多いという。

 観光客は1994年の独立時は4万人程度だったが、2004年からは年間7万~9万人台を推移。美しい自然が保たれ、1人当たり消費額の高いリピーターが多いという。

 1999年に台湾と外交関係を結び、支援金を得ているほか、台湾企業の活動が活発だ。米国や日本からの支援金も多い。農・漁業の収穫のほとんどが自家消費用か、国内の小規模市場向けだ。

 有事の際の核持ち込みなどを盛り込んだ米国との自由連合協定に基づくパラオ政府の財政収入は、独立翌年の95年度は150億円近くあったが、その後は減少し、98年度からは年間約20億円台だ。2015年度予算では約13億円で、16年度からはさらに減り、22年度からはゼロにする計画がある。不足分は法人税を上げて賄うという。

 「農漁業、製造業が弱い。地場産業を興す必要がある」。繁華街の一角で22年間、宿泊施設を経営してきた金城文子さん(82歳)はこう語る。父が沖縄出身で、母はパラオ人、自身はパラオで生まれ育った。パラオ人は助け合いの精神が根付いており、若者は失業しても家族・親類に支えられるという。「パラオの経済自立には若者の教育が最も大切だ」と話した。

 パラオ政府は、急速な開発よりも、昔からの暮らしや自然を大切にしながらバランスよく生活向上を図る施策を講じてきた。土地や自然保護、経済活動の面で、権限を発揮している。

 土地には税金を課さず、外国人の所有を憲法で禁じている。サンゴの破壊やごみ投棄に罰則を科す保護策を州が定めたり、観光客が入れる島を制限したりしている。観光客に島への立ち入りや釣りに際して、保護名目の料金を求めている。

 旅行代理店、タクシーやレンタカーなど観光関連業は、パラオ人経営企業しか経済活動を認めていない。外国企業が参入するにはパラオ人の共同経営者が必要となる。パラオ人の優先雇用や地元資本の保護策もある。

 金城さんは「自分たちの土地と自然があるからこそ、自分で立っていける」と、地元保護策を支持し、パラオの将来を若者のチャレンジ精神に託した。

 「アメリカ文化に憧れたりして米国に渡る若者は多い」ということだったが、パラオはどのような教育を目指していたのだろうか。そして現在の教育問題は?

《同化に抵抗、言語保護》
 校門から車で2分ほど草木の中の道を走ると、古い平屋の校舎にたどり着く。教室では、丸刈りの男子生徒、髪を結った女子生徒が机を並べ、真剣な表情で授業を受けていた。パラオの言語、文化、信仰、歴史を教えるパラオ人のための私立高校、モデクゲイ・スクールだ。英語の影響によるパラオ語絶滅の危機が叫ばれる中、パラオ独特の言語や信仰を保護・伝承することを目的に、1974年に設立された。(「モデクゲイ」については後述)

 生徒は、社会で自立できるよう、大工や農・漁業、林業、縫製などの専門技術を学ぶ。一方で、パラオに関する科目「正式言語」「文化と習慣」「歴史」「社会」のいずれかを1日1時間学んでいる。  パラオの公用語はパラオ語と英語だ。全学校で小学3年生までパラオ語、その後は英語で教える。社会科でパラオの歴史を教え、サマースクールで伝統芸能を体験させる。若者のライフスタイルがアメリカ化する中、国内唯一のモデクゲイ・スクールは、パラオの言語や文化を守るとりでの役割を果たしている。

 「モデクゲイ」という初めて聞く言葉に出会った。ネットで調べたら、次のように解説されていた。
『パラオでは古来から多様な占い師、呪術師、シャーマニズムなどが入り込んだ伝統的な宗教が存在したが、このモデクゲイはこれら伝統宗教とキリスト教が混在した宗教である。医療、予言、利財を特色としている。』

 『沖縄の…』は次のように解説している。
 モデクゲイとは、パラオ語で「一つにまとまる」という意味で、古くからある土着宗教だ。第一次大戦後から太平洋戦争までの30年近く、国際連盟からの委任統治領として日本がパラオを統治した際、日本人に抵抗するモデクゲイ運動が活発化した。薬草による病人の治療、預言、パラオ貨幣の製造などで信者を増やした。

 当時、学校では日本語が強要されていた。学校でパラオ語を話すと、子どもたちは棒で打たれた。モデクゲイの信者たちは学校を破壊したり、反日的な歌を歌ったりして、抵抗した。

 これに対し日本政府は、指導者を何度も逮捕、投獄した。1937年時点でほとんどの村や地区の首長はモデクゲイ運動のメンバーだった。日本政府はこれを弾圧し、40年までに運動指導者のほとんどを投獄した。太平洋戦争が終わり、日本が撤退した後、モデクゲイは復活した。

 現在、運動指導者のカリストウス・ワシサさん(69歳)は父親も指導者だった。日本統治時代、父親は逮捕され、土地や財産をすべて奪われ獄死した。父親は日本人から「悪魔」と言われていた。

 90年ごろは3千人いたという信者は現在300人。学校の生徒数も70年代後半~80年代は200人いたが、昨年は40人弱に減り、今年は24人と、創立以来最も少ない。

 ベデビ・チョーカイ校長は生徒の減少理由として、
①私立で学費がかかる、
②道路整備によってスクールバスの利用が進み、学校の選択肢が増えた、
③少子化
を挙げた。
 チョーカイ校長は
「相手を敬って助け合い、社会に貢献するというパラオの精神文化を身に付ければ国際社会を生き抜く強い人になれる」
と確信する。現大統領から生徒を増やす支援の約束を取り付けた。

 男子生徒のアルドリン・ティトウスさん(19歳)は
「パラオ人であるのは誇りだ。将来は政治家か法律家になり、いろんな問題を解決したい」
と声を弾ませる。女子生徒のレオニ・テベラクさん(17歳)は
「パラオは世界でも独特だから好き。将来は企業家になりたい」
と目を輝かせていた。

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