2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(55)

未来へ向かって(2):お手本の一つ「パラオ共和国」(1)


(ここからは琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』を教科書とします。『沖縄の…』と略称する。)

 本論に入る前に、一つ触れておきたいことがある。沖縄の未来のビジョンを考えるとき、アイデンティティー(identity)という言葉がよく使われるので、この言葉の意味を確認しておこう。

 「オール沖縄」勢力は、2014年の知事選や衆院選で圧倒的な強さを示した。その時の選挙では、「オール沖縄」勢力のビラやチラシの中で、「島ぐるみ」的結束を促すスローガンとして「イデオロギーよりアイデンティティー」というキャッチフレーズが多用された。この場合のアイデンティティーについて、「日本にとって…」がその意味を次のように解説している。

 アイデンティティーという言葉が、民族的アイデンティティーに狭く限定的に使われると、危うささえ持ちかねない。

 だがこの言葉は、より広い意味に使われている。田中優子法政大総長は、翁長知事の「慰霊の日」における平和宣言の中の
「私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶している」
という言葉に言及し、
「その身体的な体験が、世代を超えて伝えられ、アイデンティティとして醸成され、それで闘おうとしている。これは民族や地域を超えて非戦につながるアイデンティティです」(『世界』15年9月号)
と受け止めている。確かにこの言葉は、政治党派的立場の違いを乗り越えながら、米軍政下から現在に至る、「平和」、「自治」、「民主主義」を求める闘いの積み重ねを多様な人びとの紐帯にしようという意図が込められていた。

 さて、『沖縄の…』は沖縄の未来(同時に日本の未来)を考える時のお手本としてパラオを取り上げている。パラオはアイデンティティのお手本とも言える。

《パラオの独立》

 パラオ共和国は人口約2万人。520キロにわたり30以上の島々からなる。有人島は9島。面積計約500平方キロ。スペイン、ドイツ、日本、米国の占領統治を経験してきた。太平洋戦争前は沖縄からの移民も多かった。パラオ自治政府が1981年に施行した憲法は世界最初期の非核憲法であり、非武装も貫いている。1994年10月1日に国連信託統治領(アメリカ)から独立した。主な産業は観光である。

 『沖縄の…』は「自己決定権が島を守る」と題して、パラオが独立に至るまでの経緯を、パラオ独立の立役者のおひとりで弁護士のローマン・ベーターさんの活躍を軸にして、次のように解説している。

 1987年9月7日夜、パラオ・コロール州の住宅地で3発の銃声が響いた。電気が止まり、島は闇に包まれていた。満月の光が照らす中、弁護士のローマン・ベーターさん(64歳=当時36歳)の事務所で事件は起きた。
 事務所隣にある父親の家にいたベーターさんは銃声を聞き、急いで事務所に駆け付けた。玄関には血まみれの父親が倒れていた。白いフードで顔を隠した3人の男が赤い車に乗り、現場を立ち去った。翌日、父親は息を引き取った。

 「犯人たちは、父を私だと思って殺害した。父は私の身代わりになってしまった……」とベーターさんは確信した。翌日はパラオ人女性ら28人が「米国の軍事戦略を認めるために違憲行為をした」としてパラオ政府を訴える裁判を控えていた。銃撃はその弁護を阻止する行動に出たとみられた。

 米国を施政国とする国連の信託統治領だったパラオは、「自由連合協定」を米国と結ぶことが独立するための条件とされていた。協定には核兵器の領域内通過や非常時の核貯蔵容認を盛り込んでおり、その是非をめぐってパラオ人同士で激しい対立が起きていた。協定は非核をうたうパラオ憲法と矛盾するからだ。憲法第13条はこう記している。
「戦争に使用するための核兵器、化学兵器、ガスもしくは生物兵器、原子力発電所やそこから生じる核廃棄物のような有害物質は、国民投票数の4分の3以上の承認がなければ、パラオ領域内で使用し、実験し、貯蔵し、処理してはならない」

 米国の支援金と引き換えに締結すベきだとする自由連合協定支持派と、締結に反対する非核憲法派の対立に、米国が圧力を加えた。非核憲法の修正と協定締結を狙い、パラオ政府への財政支援を大幅に削減したのだ。パラオ大統領は島の全就業者の3分の2を占める900人の政府職員を解雇せざるを得なかった。

 憲法派の人々は、解雇された元職員から脅迫電話を受けたり、車、家屋が破壊されたりした。米国の圧力で小さな島の人々は分断され、傷つけ合った。

 父の死から3ヵ月後、ベーターさんは悲しみの底からはい上がり、「島の文化を大切にする」という父の信念を引き継ぐ決意をした。パラオの"分断の象徴"ともいえる父の死を乗り越え、パラオ独立の立役者のひとりとして活躍した。パラオは94年の独立で分断を克服した。

 ベーターさんは20代のころ、太平洋の島々と連帯した非核運動の青年会議で議長を務めた経験もある。マーシャル諸島の核実験被害を「繰り返してはならない」との思いからだ。その時、沖縄の人々とも交流した。70年代には、沖縄での石油備蓄基地(CTS)反対闘争とも環境保護の立場で連帯した。沖縄へこうメッセージを送る。
「私たちは同じ島の人だ。自己決定権こそが、土地、海、人々を守れる。島の人であること、そして日本や中国など大国とは違う存在であることを自覚し、お互いの違いを認め合い、尊重し合うことが大切だ。必ず道は開ける」

 次に、アメリカが仕掛けたパラオ分断の陰謀の中で、非核憲法派指導者のひとりだったベラ・サクマさんの活躍を軸に、パラオ分断を克服していく経緯が語られている。

 ベーターさんの父が暗殺される2年前(1985年6月)にも暗殺事件が起こっていた。殺害されたのはレメリク初代大統領だった。

 核持ち込みを認める代わりに独立と多額な支援金が得られる自由連合協定を米国と結ぶか、それとも非核・非武装憲法を守るか ― をめぐって島は二分された。

 その対立が続いていたある日、非核憲法派指導者のひとり、ベラ・サクマさん(72歳=当時42歳)が帰宅すると、家が焼かれていた。家族は運よく無事だったが、米国人の妻は怖がり、娘と共に米国に帰国、二度とパラオに戻らなかった。

 その時サクマさんは、暗殺された大統領の言葉を思い出した。
「パラオを守るには覚悟が必要だ。子どもたちや将来のパラオ人を幸せにするか、悲しませるかを今の行動が決める。大事な時だ。諦めたら未来はない。」
サクマさんも死を覚悟した。

 非核憲法派の人々が命懸けになった背景には、島の苦しい経験があった。他国による占領、戦争、マーシャル諸島の核実験に、住民は傷ついた。さらに「動物園政策」と呼ばれた米国の支配が続いた。太平洋戦争後、米国はミクロネシア地域を他国に軍事利用させないために排他的な政策を取った。長期間、ミクロネシア地域への出入りを行政官などに限定し、経済活動を徹底管理したのである。

 この状況を脱しようと、パラオの人々は自治を求めた。92%の高支持率で憲法を承認し、米国による国連信託統治の下、1981年に自治政府を勝ち取る。サクマさんは、この歴史の教訓が刻印されている憲法は「パラオ人の精神的支柱だ」と強調する。
「パラオ人には、島は家(ホーム)だという精神がある。米軍基地や核はホームを破壊する。日本や米国は私らを『守ってあげる』という口実で勝手に島を使っただけで、多くの被害をもたらした」

 パラオは非核・非武装憲法を維持したまま、独立を果たす。現在は、米軍の施設は事務所や住宅が数棟だけの小規模施設が1つあるだけだ。実戦部隊はいない。協定で演習場として合意した地域も使われていない。

「僕らは武器は持っていないよ。民間協力だけさ」。
米軍施設のトップ、ジョンソン海軍中将はこう説明する。陸・海・空軍の電気や建築の技術者13人が駐留する。ジョンソン中将も建築が専門だ。実戦部隊が入れないのは、住民の反対が根強いからだとサクマさんは指摘する。
「実戦部隊が来れば、みんなで海岸に立って阻止する」

 サクマさんは現在、非政府組織(NGO)で非核・環境保護運動に取り組む。米国市民からの支援も多く、最近5年間で約8千万円の寄付が集まった。
「子どもや家族、生活を守るには自己決定権が必要だ。パラオは小さいが独立し、大国と同じ権利を持つ国連の一員だ。時代は変わり、国は互いに自己決定権を尊重し合う時代だ。非武装でもやっていける」
と語る。

 沖縄の人々に対しては
「ジュゴンがいるのは太平洋では沖縄とパラオだけだ。海はつながっている。太平洋で同じ船に乗っている。一緒に闘いを続けよう」
と呼びかけた。

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