2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(41)

沖縄返還後の闘い(9):オスプレイの普天間配備問題


 11万人参加という驚くべき大集会となった背景には何があったのだろうか。新崎さんは、それは「世代を超えた歴史的体験の共有」であった、と指摘して次のように論じている。

 先に、県議会を侵食している戦争体験の風化に触れたが、沖縄戦の直接的体験者の激減ということだけでいえば、沖縄社会全体についていえることであった。とくに、報道機関や教育現場には、直接の戦争体験者は、もはや1人もいない。にもかかわらず、教科書の記述が、修正・削除されようとしていることの意味を、もっとも敏感にとらえたのは、報道機関や教育現場にいる直接的な戦争体験を持たない世代であった。なぜいま教科書の記述が変えられようとしているのか。それは、今現在の政治的動向と固く結びついているはずである。教科書検定意見に直ちに反応できたか否かは、直接的戦争体験者の数の問題ではなく、現実感覚の差であった。歴史的体験は、現実の課題を通して、はじめて社会全体に共有化される。それが戦争体験の風化現象を押し戻す。

 沖縄社会が、改めて「沖縄戦とは何か」、「日本軍とは何か」を大衆的に問い返すきっかけになったのは、沖縄返還の際の自衛隊の強行配備である。二度目が82年の教科書検定、三度目が07年だといえよう。そのつど、新しい証言者が重い口を開き、その証言が記録され、複雑で多面的な戦争の実相が明らかになっていく。証言者と記録者の共同作業を通じて戦争体験の共有化は進む。このとき明らかになった、座間味村助役の妹の軍命に関する証言も、その一つである。それは、大江・岩波裁判にも大きな影響を及ぼすことになった(08年3月、大阪地裁は原告の請求を棄却した。原告側は控訴したが、大阪高裁も控訴を棄却。原告側はさらに最高裁に上告したが、11年4月、最高裁も上告を棄却した。裁判の経過は岩波書店編『記録沖縄「集団自決」裁判』に詳しい)。

 大会実行委員会は、県議会をはじめ、22の超党派的、あるいは非政治的団体によって構成されていたが、注目されるのは、「沖縄県遺族連合会」、「ひめゆり同窓会」、「青春を語る会」(九つの元女子学徒隊で構成)、「沖縄の未来を語る会」(「全沖縄旧制中等学校師範学校同窓会連絡協議会)などが顔を並べていることだろう。沖縄県遺族連合会が、89年から90年にかけての「<慰霊の日>休日廃止反対運動」では、反戦運動を担う市民団体とも共同歩調をとったことについてはすでに触れた。

 「青春を語る会」や「沖縄の未来を語る会」は、ネーミングそれ自体が意味深い。旧教育制度と共に母校が戦火の中で消滅してしまった彼女ら、彼らは、いかなる青春を、そして未来を語ろうとしているのか。会の名称それ自体が、「歴史的体験を語ることは、現在、あるいは未来に向けて、何らかの教訓を伝えることにほかならない」ということを示しているのではあるまいか。戦争体験者、とりわけ「集団自決」の体験者や目撃者が、忘れ去りたい残酷な記憶をあえて呼び起こしながら語るのも、歴史の忘却や歪曲が、現在や未来を歪めることにつながることを痛感するからであろう。

 今現在の政治状況を反映した教科書検定意見は、沖縄の問題ではなく、いわゆる「従軍慰安婦」問題などとも分かちがたく結びついた日本社会の歴史認識の問題にほかならなかった。仲里利信は、この教科書検定問題こそ、「オール沖縄」の出発点だと力説している。

 改めて仲里利信さんについて調べてみた。中里さんは県議会議長を務めた元自民党沖縄県連顧問だったが、辺野古基地建設に反対していた。自民党県連が「県外移設」の公約を撤回したことに抗議し、県連顧問を辞任し自民党からも離党した。教科書検定意見撤回を求める県民大会では、実行委員長を務め、その後「オール沖縄」の代表になっている。2014年の衆議院議員総選挙では沖縄の全4選挙区で辺野古反対派が自公を破って当選したが、その中の一人は中里さんだった。

 さて、「オール沖縄」あるいは「島ぐるみ」という言葉が頻繁に使われるようになったのは「オスプレイの普天間配備問題」が起こった頃からである。

 新型輸送機オスプレイは、90年代から、普天間代替基地への配備が予定されていたにもかかわらず、事故の発生率が高いなどの懸念が持たれていたこともあって、日本政府は米側にその計画を明らかにしないよう求めていた。11年6月、そのオスプレイを、突然翌年秋普天間基地に配備すると、県や宜野湾市に通告してきたのである。

 それに対して12年9月に9万5000人の県民を結集してオスプレイ配備に反対する県民大会が開かれたが、大会実行委員会の共同代表には、翁長雄志沖縄市長会会長が、県議会議長、連合沖縄会長などとともに共同代表に名を連ねていた。

 この大会を無視したオスプレイの強行配備に抗議して、普天間基地のゲート前で行われた抗議集会には、県民大会の共同代表も参加した。この集会は、座り込みによる基地封鎖行動に発展し、10月1目に実際にオスプレイが配備された後も連日、3年を越える現在もなお、雨の日も風の日も、普天間基地の二つのゲート(野嵩(だけ)ゲートと大山ゲート)前では、米兵の出勤時と退勤時に、オスプレイと海兵隊の撤退を直接米兵に呼びかける行動が展開されている。安倍政権が、辺野古の新基地建設を強行しようとした14年7月から始まった、キャンプ・シュワブ・ゲート前の座り込み行動、その延長線上にあるといってよい。このころから、島ぐるみ」とか、「オール沖縄」という言葉が頻繁に登場するようになった。

 県民大会の実行委員会は、オスプレイ配備撤回、普大間基地の早期閉鎖・返還、辺野古新基地建設反対を求める「建白書」を待った全県議、全市町村長もしくはその代行者などによって構成される150人規模の代表団を上京させた。当初は、年内上京を予定していたが、野田民主党政権による突然の国会解散で翌13年1月に繰り延べられ、要請相手も安倍政権に代わっていた。

 上京団は、13年1月27日、日比谷野外音楽堂で、「NO OSPREY東京集会」を開催した。集会の司会者は、照星守之自民党沖縄県連幹事長(県議)だった。集会には、全国の沖縄県人会や沖縄の闘いに共鳴する関東周辺の市民団体や個人など約4000人が集まった。

 だが、集会参加者による銀座のパレードに対しては、「日の丸」や星条旗を掲げた在特会などの右翼団体が、「売国奴」、「日本から出て行け」などの罵声を浴びせた。1950年代中期から現在に至るまで、さまざまな要請・要求を持った沖縄からの行動団が全国各地に出かけているが、ヘイトースピーチを浴びたのは、初めての体験だっただろう。日本は、こんな時代になっているのである。行動団に参加した県議の一人は、「日本から出て行け」という罵声に対して、「じゃ、そうしましょうか。と言いたくなるね」と漏らしていた。

 翌1月28日、上京団との面談をためらっていた安倍首相は、5分間だけ上京団と会って、全県議、全市町村長が署名した「建白書」を受け取ったが、要請に対しては、「私には私なりの考えがある」と応じた。そして翌2月の日米首脳会談で、米側が強く要求したわけでもないのに、自ら積極的に、集団的自衛権容認とともに、辺野古新基地建設促進を約束した。日米同盟の強化によって対中国対決路線をとろうとする安倍政権は、その歴史認識などに疑念を抱く米側に対して、集団的自衛権容認や辺野古新基地建設をすり寄りの材料にしたのである。そして、3月、沖縄県知事に対して、辺野古の公有水面埋立承認願書を提出した。

 政府が埋め立ての本体工事着工を宣言した翌日の15年10月30日付朝日新聞には次のような記事が載っている。
「13年2月、安倍首相はオバマ大統領とホワイトハウスで初めて会談した。このとき、大統領は首相に「(沖縄県に)埋め立て申請の提出をしてほしい」と、移設に向けた手続きを進めるよう直接迫ったという。当時は明らかにされなかったこのやり取りが移設の推進力になったと、政府関係者は解説する」。
 この政府関係者の解説に従えば、すべてはオバマ大統領の意のままに進んだということになる。

 13年2月、これが宗主国へのアベコベ軽薄姑息うそつき政権の尻尾振りの始まりだった。この1年数ヶ月後に現在進行中の強引な辺野古基地建設工事に猪突猛進を始めている。

 唐突だが、『週間金曜日 5月27日号』が「日本会議」を特集しているので、一つ思い出したことがある。自民党の多くの議員が日本会議や神道政治連盟に名を連ねていることを聞いていたが、愛読しているブログ「Everyone says I lave you !」さんが昨年10月18日に『週刊朝日』の記事を紹介していて、その中に第三次安倍改造内閣の閣僚たちの日本会議・神道政治連盟との関わりをまとめた次のような一覧表があった。
オカルト内閣
 私はこれまで「じゅげむじゅげむ ごこうのすりきれ…」みたいな呼称「アベコベ軽薄姑息うそつき」で安倍政権の特徴を表現してきたが、もう一つ「オカルト」を加えることにした。以後「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権と呼ぼう。
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