2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(40)

沖縄返還後の闘い(8):参加者11万人の県民大会


 「沖縄問題の本質(9)」で琉球新報の社説『帝国書院教科書 文科省が「間違い」正せ』を紹介したが、その冒頭の文は
「2007年に公表された文部科学省の教科書検定結果は「集団自決」(強制集団死)の記述に関し「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」として修正を求めた。」
だった。この時の教科書検定意見の撤回を求める運動では、07年9月29日に宜野湾市の海浜公園に、およそ11万人が集まったという。このことについては
『「今日の話題」文部科学省は相変わらずの歴史捏造省』
『「今日の話題」高級官僚の低級ぶり』
で取り上げている。これらの記事(記事1・記事2と呼ぶ)と新崎盛暉著「日本にとって沖縄とは何か」を用いて、改めて沖縄での教科書検定問題を取り上げることにする。

 教科書検定問題が初めて沖縄で取上げられたのは82年であった。このときは日本軍による「住民虐殺」の記述削除に対する抗議運動であった。那覇市の与儀公園で行われた「住民虐殺記述削除に抗議し、よい教科書を求める県民大会」には参加者は、8000人と報じられている。しかし、このときは「侵略」を「進出」と言い換えるなどの歴史捏造検定内容もあり、中国や韓国から激しい抗議を受けた。このことが前面に出て、沖縄の問題はほとんど注目されなかった。このときの政府の対応は、対外的には教科書検定基準に近隣諸国条項を設けて事態収拾を図ったが、沖縄に関しても"県民感情に配慮して"次回検定では記述を回復することを明らかにしてとりあえず事態を収拾したのだった。

 それから25年後の07年3月30日、文科省が、沖縄戦時の「集団自決」から日本軍による強制の記述を修正・削除した検定結果を公表した。当然、翌日の沖縄タイムス・琉球新報両紙は、一面トップでこの問題を取り上げ、その他の紙面でも関連記事を掲載していた。このとき、東京新聞も一面トップで取上げていた。記事1ではその東京新聞の記事からの引用文を記録していた。それを再掲載しておく。

 文部科学省は30日、2008年度から使う高校用教科書(主に二年生用)の検定結果を公表した。第二次世界大戦の沖縄戦であった集団自決について、「近年の状況を踏まえると、旧日本軍が強制したかどうかは明らかではない」として従来の姿勢を変更。旧日本軍の関与に言及した日本史の教科書には、修正を求める検定意見が付いた。

 近現代史中心の日本史A、通史を扱う同Bの計十点のうち、八点が沖縄戦の集団自決に言及。「日本軍に『集団自決』を強いられたり」「日本軍はくばった手りゅう弾で集団自害と殺し合いをさせ」などと記述した七点に、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」との意見を付けた。

 いずれも、検定に合格し現在出版されている教科書と同じ記述だが、出版社側は「追いつめられて『集団自決』した人や」「日本軍のくばった手りゅう弾で集団自害と殺しあいがおこった」などと、日本軍の強制に触れない形に修正し、合格した。

 集団自決については、作家大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」などで、「自決命令を出して多くの村民を集団自決させた」などと記述された。これについて、沖縄・座間味島の当時の日本軍守備隊長で元少佐の梅沢裕氏らが、記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、出版元の岩波書店(東京)と大江氏を相手取り、出版差し止めと損害賠償などを求めて2005年に大阪地裁に提訴した。

 同省は検定姿勢変更の理由を
(1)梅沢氏が訴訟で「自決命令はない」と意見陳述した
(2)最近の学説状況では、軍の命令の有無より集団自決に至った精神状態に着目して論じるものが多い
―と説明。発行済みの教科書で、同様の記述をしている出版社に情報提供し、「訂正手続きが出る可能性もある」としている。

 ちなみに、大江さんが訴えられた訴訟は「沖縄集団自決えん罪訴訟」あるいは「大江・岩波裁判」と呼ばれている。

 この検定意見が出されたときの政権は第一次安倍政権だった。「戦後レジームから脱却」・「美しい国日本を取り戻す」などと御託を並べ、教育基本法を改悪している。また、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関する直接関与を否定する発言をして物議をかもしていた。新崎さんは「集団自決に関する検定意見も、安倍政権の意向を反映していたといえよう。」と指摘して、次のように続けている。

 07年5月には、名護市辺野古沖に掃海母艦「ぶんご」が派遣された。一方的な新基地建設のための事前調査支援という名目だが、安倍首相は、このような先例を見ない自衛隊出動を、「国家資源の有効利用」と言い放ってはばからなかった。米軍再編と絡む自衛隊の出動は、沖縄社会に、ある種の緊張感を生んだ。それは、いやでも、沖縄戦という沖縄社会最大の歴史的体験と結びつかざるを得ないからである。

 5月には、米軍再編関連自治体の前に餌をばら撒いて協力を促すような米軍再編特措法も成立した。05年10月の米軍再編合意(「日米同盟 未来のための変革と再編」)発表以後、小泉・安倍政権の基地政策は、地元をないがしろにするきわめて高圧的、一方的な性格を強めていた。

 それでは11万人の参加者を集めた07年9月29日の県民大会に至るまでの闘いの経過を追ってみよう。

5月14日
 豊見城(とみぐすく)市議会で検定意見撤回の意見書が可決。
 これを皮切りに、6月28日までに、41全市町村議会が、それぞれの地域における戦争体験にも触れながら、検定意見撤回を要求する意見書を採択した。採決の際、読谷村議会で1人の議員が退場したほかは、全会一致であった。

6月9日
 高教組、沖教組、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」(大江・岩波裁判支援組織)などによって構成される実行委員会の呼びかけで、「6・9沖縄戦の歪曲を許さない! 沖縄県民大会」が開かれた。3500人の参加を得て大成功といわれたが、82年の「県民大会」には、はるかに及ばなかった。

 このような動きに対して、県議会どうだったのか。

 逆に著しい立ち遅れを見せたのは、県議会である。82年には比較的早く全会一致の決議への動きを見せ、それを察知して政府が柔軟対応をとったが、07年は、全市町村の決議に突き上げられるかたちで、ようやく全会一致の決議にこぎつけた。後日、仲里利信県議会議長も、全市町村議会が「断固とした決意を持ってやったことに教えられた」と語っている(07年10月28日付沖縄タイムス)。

 県議会がもたついた原因の一つは、県議会内に直接戦争体験者が激減し、安倍首相やその周辺政治家などと、軽佻浮薄さや不勉強な性向を共有する若手保守派議員の発言力が増大していたことにある。いわば戦争体験の風化現象が、県議会内部を侵食していたといえる。だが、最終的には、仲里議長が自らの内に62年間封印し続けていた幼児期の戦争体験を語ることによって県議会の状況は、一変する。8歳のときに戦争に巻き込まれ、弟を失った議長の発言は、安倍政権の意向を反映した検定意見に正面切って刃向かうことをためらっていた若手保守派議員の観念的な理屈を一挙に吹き飛ばすことになった。

 しかし、県議会や市議会・町村議会議長会などの検定意見撤回要請に対して、文科省は、木で鼻をくくるような態度に終始した。それが島ぐるみの怒りに火をつけた。それは、沖縄に対する歴史的な差別的処遇の記憶とも結びついていた。
7月11日
 県議会は、文科省の誠意を欠いた対応を具体的に批判しつつ、前例のない同一会期内2度目の意見書を可決した。

7月18日
 子ども会育成連絡協議会、婦人連合会などの呼びかけで、県民大会準備委員会が発足

7月29日
 参院選の投開票が行われた。沖縄選挙区では、革新無所属(沖縄社会大衆党副委員長)の糸数慶子が、自民党現職に大差を付けて圧勝。

8月16日
 仲里県議会議長を実行委員長とする「教科書検定意見撤回を求める沖縄県民大会」実行委員会が発足

 以上のように、7月初旬から、これまでとは明らかに違う大きなうねりが起こっている様子がうかがわれる。7月29日の参院選の背景とその後の県政変化について、新崎さんは次のように分析している。

 その背景には、明らかに教科書検定問題があった。もちろん自民党現職も教科書検定意見を批判していたが、彼を支える自民党本部が教科書検定意見の正当性を主張している以上、できるだけこの問題を避けざるを得なかった。

 さらに沖縄からは、辺野古現地闘争を含む反基地闘争のシンボルともいうべき山内徳信(元読谷村長)が、社民党の比例区2人の当選者の1人になった。沖縄からの10万を超える票が彼を押し上げた結果であった。過去の歴史的体験と、現実の基地問題が結びつき、政府との対決姿勢が明確になった。

 全国的にみても、自公与党が敗北し、政権交代が取り沙汰されるようになるのもこの参院選からである。

 このような政治情勢の急変を受けて、それまで態度をあいまいにしていた仲井真弘多知事も大会参加の意向を示し、知事や教育長が県職員や教員に大会参加を呼びかけるようになった。基地容認派の知事は、基地受け入れ反対の世論と、一方的な政策を押し付けようとする政府の板ばさみになりながら、教科書検定意見や掃海母艦「ぶんご」出動に不快感を示しつつも、政府との妥協点を探っていたが、その上うな立場からいっても、巨大な世論の流れに背を向けるのは、得策ではなかった。こうした思惑も交えて、島ぐるみの輪はさらに広がった。

 だが、そんな思惑を待った知事や教育長が号令をかけたからといって、人が集まるわけではない。70年前後には、その組織力を誇った自治労や教組など労働組合の組織的動員力も、かつての比ではない。実行委員会の構成団体は、もともと大衆動員とは無縁の組織である。うねりにも似た世論の盛り上がりが、せめて5万人規模の人たちを動かして欲しい、それが会場に向かった人びとの共通の願いであった。

 そして当日、大会参加者たちは、自分が、海浜公園を埋め尽くす史上初といっても言い過ぎではない大集会の参加者の一人であることを知った。ある新聞記者は、「その日、記者の多くが会場の光景に涙ぐみ、鼻水をすすりながら取材に当たっていた」(07年11月1日付琉球新報)と書いている。

 この11万人が参加した県民大会について、記事2で書いた感想を転載しておこう。

 9月29日に宜野湾市で開かれた「集団自決の軍命を削除した文科省の教科書検定意見の撤回を求める県民大会」には11万人の参加者があった。沖縄県民の約8%にあたる。これはすごいことである。迫力のある「非暴力直接行動」だ。東京都の人口は沖縄県の人口の約10倍だから、東京でこれと同じ規模の集会・デモが行われると100万人の直接行動となる。望むべくもないことだが、これほどの規模の直接行動は即自に政権を顛覆する「政治的リコール」であり、もう革命といってもよいだろう。

 ちなみに、新崎さんがこの参加者数に難癖をつけたネトウヨ的な情けない人たちがいたことを記録している。

 沖縄全県民の1割に近いこの尋常ならざる人の数は、一定の衝撃力を待った。検定の政治的中立性、正当性を強調していた政府にも、一定の揺らぎを生じさせた。

 逆に、大会参加者の数を4万数千人、あるいは1万数千人だと言いつのって、大会の持つ政治的効果を減殺しようと試みる者たちも登場してきた。大会の翌日から、沖縄の新聞社には、主として県外から、「11万人という数字はおかしい。どうみても2万そこらだ」、「虚偽報道だ。そうしてまで県民を煽っていいのか。訂正報道せよ」といった電話やメールが、相次いだという(07年10月28日付沖縄タイムス)。それ以前には見られなかった現象である。

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