2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(36)

沖縄返還後の闘い(4):1995年の民衆決起(2)


《代理署名拒否》

 前回の最後の引用文中に「代理署名」という問題が出てきたが、このことについてその詳細を確認しておこう。

 「沖縄返還後の闘い(1):反戦地主運動」で取り上げた「軍用地特措法」により、沖縄の米軍用地の借地契約は5年ごとに契約更改することになっている。では、契約を拒否している反戦地主の契約はどうなっているのか。なんとも姑息なことに、契約を拒否している地主に代わって市町村が署名することで使用手続きを進めることができることになっている。地主も市町村も署名を拒否した場合は、沖縄県の署名によって手続きは進められるというのだ。

 さて、太田知事は日本政府に対して、米兵の身柄引き渡しと捜査を阻む日米地位協定の改定を要求したが、こうした要求は今回が初めてではなかった。
 1985年に沖縄島北部の国頭郡金武町(クニガミグン・キンチョウ)で起きた米兵による殺人事件に関して県議会は、被疑者の身柄引き渡しと、それを拒んでいる地位協定の見直しを全会一致で可決し、外務省、防衛庁(現防衛省)、在日米軍司令部に要求した。これに対し外相(安倍晋太郎)は、参議院予算委における喜屋武真栄(キャン・シンエイ)議員の質問に対して、「地位協定は平等だから改正の必要はない」と答え、外務省の担当者も県議会代表団に対して同様の対応をしていた。

 ほとんどの政治家・官僚は「「地位協定は平等だ」などというウソをいけしゃあしゃあと発言する鉄面皮な、ネトウヨの決まりレッテルを使えば、反日の売国奴だ。ネトウヨはレッテルを貼る相手を間違えている。もっとも、そうしたまともな判断ができないからネトウヨになるんだけどね。

 さて、政府の不誠実な対応に業を煮やした太田知事は沖縄に帰ると、それまで決断に踏み切れなかった代理署名拒否を県議会で表明した。この知事の決断について、「日本にとって…」は当時の琉球新聞の一節を引用している。

 代理署名は、犯罪の被疑者身柄引き渡しに関して取り決めた地位協定とは違って、米兵犯罪とは直接的には関係のない米軍用地の強制使用手続きの一環であり、その手続きの拒否は、米軍基地の強制使用に対する非協力宣言だった。知事は、代理署名拒否を決断した理由として、「若者たちが、21世紀に夢を抱ける沖縄をつくるためにも、自立的な発展を拒む基地を撤去する必要がある」と強調した(95年9月29日付)。

 知事に、代理署名拒否という政府に対する最も有効な対抗手段を提供したのは、少数異端派の立場に追い込まれながら闘いの火種を維持し続けた反戦地主である。その反戦地主の一人、島袋善祐は、「知事が県民の側に戻ってくれた」と語り、「今のこの姿勢をこのまま続けてほしいと」と語ったが、同時に「沖縄の実態をわからせるために、少女を犠牲にしてしまった」と沈痛な言葉を付け加えた(95年10月12日付)。

 このように地主も市町村も県も代理署名を拒否した場合、政府はどうするのか。当時の法律では、県が国の機関委任事務である「代理署名」を行わない場合、事務を行うよう総理大臣が沖縄県に勧告することができる。それでも県が応じない場合は、国は裁判で沖縄県を訴え、裁判で勝訴しない限り、国は直接その事務を行うことはできないという決まりになっていた。当然政府は行政訴訟に訴えることになるが、そこに至るまでにはなお紆余曲折がある(以下の引用文は「日本にとって…」から)。

 知事の代理署名拒否は、世論の圧倒的支持を得た。10月21日には、県議会全会派、県経営者協会、連合沖縄、県婦人連合会、県青年団協議会など18団体が呼びかけ、約300団体が実行委員会に名を連ねた「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれた。

 会場となった宜野湾市の海浜公園には、8万5000人の人びとが集まった。島ぐるみで10万人規模の集会が行われるのは、実に40年ぶりのことであった。25年前にも、同じ規模の集会はあったが、それは「島ぐるみ」ではなく、革新共闘によるものだった。同じ日、石垣市や平良市(ヒララシ 現宮古島市)でも同じ趣旨の集会が開かれ、奄美大島の名瀬市(現奄美市)でも支援集会が聞かれた。

 この大会決議は、地位協定の見直しと基地の整理縮小を島ぐるみの要求として確認することとなった。10・21県民大会をふまえて、11月4日、村山富市首相と大田知事の最初の会談が行われた。知事は、代理署名拒否の方針を貫くことを改めて伝えるとともに、地位協定の見直しと、基地返還アクションプログラム策定を要請した。地位協定については、県の行政や県民の生活にかかわる10の条項について具体的問題点を指摘し、基地の整理縮小(撤去)については、2015年までに基地を全面返還させ、その跡地利用として国際都市を形成していく構想が示された。

 首相側が提案したのは、閣議決定による新協議機関の設置であった。後に沖縄米軍基地問題協議会と呼ばれることになるこの機関のメンバーは、官房長官、外相、防衛庁長官(後に沖縄開発庁長官が加わる)と沖縄県知事だった。その下に置かれた幹事会には、沖縄県の副知事や政策調整官も参加した。復帰25年目にして初めて、米軍基地の75%を押し付けられている沖縄県が、公式に発言する場を与えられたのである。

 こうした状況の中では、安保再定義のためのクリントン訪日は不可能だった。クリントン米大統領は、国内事情(議会との対立による行政機能の一部停止)を口実に訪日を中止した。代わって行われたゴア(米副大統領)・村山会談で、すでにペリー米国防長官と河野外相との間で合意済みの「沖縄に関する日米特別行動委員会」(SACO)の設置を再確認し、その発足と引き替えに、村山首相自身による米軍用地強制使用の署名代行(法的手続きの開始)が約束され、首相を原告とし、沖縄県知事を被告とする職務執行命令訴訟が提起された。

 福岡高裁那覇支部は、96年3月25日、知事に代理署名を命じた。県側の全面敗訴であった。知事がこの命令に従わなかったので、村山政権を引き継いだ橋本龍太郎首相によって代理署名が行われた。県は、高裁判決を不服として最高裁に上告した。

 村山首相は一往は沖縄との協議の姿勢を見せたが、政府が望ましい対応をとったのは後にも先にもこれ一回きりだった。

 田中耕太郎の砂川判決以来、三権分立など絵に描いた餅になってしまったこの国の最高裁がこのような裁判で沖縄県の勝訴判決など出すはずがない。この訴訟の結末とその後の属国政府の沖縄に対する相変わらずの「非法治国家」ぶりは次のようである(以下は「沖縄と…」からの引用です)。

 国が機関委任事務の遂行を沖縄県に求めた「代理署名訴訟」で、沖縄県は最高裁まで戦いますが、敗訴し、軍用地の再契約問題は国による強制使用手続きが進められることになりました。政府に対する「沖縄県の反乱」として、米軍への土地提供を拒む代理署名訴訟は、国内のみならず海外メディアからも注目され、世界中に大きく報道されました。

 裁判によって沖縄の米軍用地再契約手続きは大幅に遅れたため、96年5月に契約満了となった軍用地も出ました。読谷村にある米軍楚辺(そべ)通信所、通称「象のオリ」と呼ばれる巨大な傍受アンテナ施設です。施設の土地の一部を所有している知花昌一さんが、軍用地としての契約延長を拒否し、読谷村も強制使用手続きを拒否し、さらに県知事も署名を拒否したために、知花さんの土地は「契約満了」となったのです。しかし、日本政府は米軍施設を撤去することができず、事実上、不法占拠・使用するという「法治国家」としてあるまじき事態を招くことになります。

 代理署名訴訟の事態を重視した政府は、今後も増えるであろう沖縄の「契約拒否」に対応するため、「米軍用地特措法」を改定して、地主の同意がなくても米軍用地として賃貸借契約を有効にする「強制使用」制度を確立しています。改定によって、沖縄県がとった「署名拒否」という「国に対する地方の異議申し立て」も排除し、米軍のために国民の私有財産に制限を加えることを可能にしたのです。

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