2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(34)

沖縄返還後の闘い(2):金武湾闘争・「慰霊の日」廃止反対運動

 《沖縄に学ぶ》をはじめて、今まで沖縄問題に真剣に向き合ってこなかったせいでの自らの無知さ加減を思い知らされることがいくつもあった。今回の「金武湾(きんわん)闘争」も初めて聞く事項だ。この闘争は「CTS(石油備蓄基地)闘争」とも呼ばれている。ネット検索すると沢山の記事に出会う。その中で『安里清信さんの思想――金武湾から白保、辺野古・高江へ』は実際に金武湾闘争に参加された方の記事でその闘争の経緯が克明に記録されている。この記事の「はじめに」の最後の一節を引用する。
「実は現在展開されている沖縄の闘いは、金武湾闘争当時の担い手たちの多くが今も闘い続けているし、運動の内容も金武湾闘争の中で展開されていたものを継続している。つまり、金武湾から白保、辺野古・高江と40年間も続いている。したがって金武湾闘争はまだ終わらず、途中の状態にあるといえよう。」
 返還後の闘いを質的に押し上げるターニングポイントとなった闘争だったようだ。

 さて、上に紹介した記事はかなりの長文なので、興味のある方には直接読んで戴くことにして、ここでは『日本にとって沖縄とは何か』でまとめられている金武湾闘争についての解説記事を引用しておくことにする。

 復帰後の新しい課題に取り組んだ運動は、反戦地主会や一坪反戦地主会だけではない。「核も基地もない平和で豊かな沖縄県」づくりを目指した復帰協などの革新共闘が担ぐ革新県政と、日米軍事協力体制の維持強化を目指す日米両政府とは不可避的に対立せざるをえなかったが、その「豊かな沖縄県」構想(あるいは幻想)と政府の沖縄振興開発政策とは、交錯しあい、共鳴し合う部分も持っていた。

 豊かな沖縄県を目指す構想の中で、当初、戦略産業として重要視されていたのは石油産業だった。沖縄島の東海岸一帯を埋め立てて石油産業を中心に広大な臨海型工業地帯を作り出そうというのである。だがすでに、沖縄返還が決まった頃には、全国的にさまざまな公害問題がクローズアップされていた。にもかかわらず琉球政府は、復帰直前、CTS(石油備蓄基地)建設予定地として、三菱資本(沖縄三菱開発)に宮城島(みやぎじま)と平安座島(へんざじま)の間の海域の埋め立てを認可した。

 これに反対する地域住民の反対運動を糾合して、翌73年9月、CTSに反対する「金武湾を守る会」が結成された。金武湾闘争は、地域住民の生活の場である土地を守る運動として始まり、反公害運動としての要素を加え、やがて「豊かさとは何か」を問う地点に達し、その後の沖縄の諸運動、さらには沖縄社会に大きな影響を及ぼすことになった。
金武湾闘争
 金武湾を守る会は、従来の島ぐるみの革新共闘とは異なり、基本的には住民個々人に直接依処する組織体であった。金武湾を守る会に結集したり、これを支援したりした人々は、その多くが屋良革新政権の誕生に努力し、その支持基盤になった人々であったが、やがて革新共闘への単純な同調を越えて、革新県政に軌道修正を促す役割を担った。この時期には、さまざまな開発問題が沖縄の県域を超え、鹿児島県下の奄美諸島にも広がっていたため、その連携を目指す「琉球弧の住民運動を拡げる会」なども結成された。住民・市民運動のネットワークづくりには、反戦地主会や一坪反戦地主会なども加わり、組織共闘の形骸化の間隙を埋め、新しい民衆運動の基盤を準備していった。

 今回取り上げるもう一つの闘いは、「アメリカ世の沖縄(7)」で取り上げた「アメリカ世の歴史を記憶に止めるべく制定された象徴的な"記念日"」の一つ「慰霊の日」をめぐる闘争である。「「慰霊の日」休日廃止反対運動」と呼ばれている。これについても新崎さんの解説をそのまま引用しよう。

 沖縄では、6月23日が沖縄戦の犠牲者の霊を慰める「慰霊の日」となっている。慰霊の日は、復帰前に「住民の祝祭日に関する立法」によって定められた。だが日本復帰と同時に、日本国憲法をはじめとする日本の法律が適用されることになり、それ以前の沖縄独自の立法はすべて消滅した。慰霊の日は、かろうじて県条例の中に残っていた。

 ところが88年12月、官公庁の隔週土曜(2年後から全土曜)閉庁制を実施するためと称して、地方自治法が改正され、「第4条の2(休日)」という条項が付け加えられた。この条項が列挙する日を地方公共団体の休日として、条例で定めることになった。逆にいえば、都道府県や市町村などが独自の休日を設けることはできなくなったのである。

 この問題は、沖縄県が休日条例案を89年3月県議会に上程する準備を始めた段階でようやく表面化した。沖縄選出の国会議員も、地方自治法改正の段階では、この問題を見過ごしていたのである。県条例審議の段階になって、沖縄戦という沖縄独自の歴史的体験に基づく慰霊の日を休日ではなくすということは、戦争体験の風化、独自の歴史的体験の抹殺につながるという声があちらこちらから上がった。一坪反戦地主会、キリスト者の団体、1フィート運動の会(「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」)やその周辺の人びとが反対運動の中心であった。労働団体主流は、土曜休日制と絡むこともあって、あまり積極的ではなかった。

 1フィート運動や一坪反戦地主、靖国問題に取り組むキリスト者たちが、「慰霊の日」休日廃止反対の声を上げたのは当然として、これとは全く違ったところから休日廃止反対の声を上げたのが「沖縄県遺族連合会」であった。

 県遺族連合会は、復帰以前から日本遺族会の支部として位置づけられていたから、たてまえとしては、日本遺族会と同じ方針、たとえば「靖国神社の国営化」や「靖国公式参拝の実行」も掲げていたのだが、かつては復帰協の加盟団体でもあった。復帰後、遺族連合会もすっかり本土との系列化を強めていたと思われていたが、「慰霊の日」休日廃止という、まさにその存立の原点にかかわる問題に直面した時、一坪反戦地主会やキリスト者の団体と並んで休日廃止反対の声を上げたのであった。

 県の(「慰霊の日」を含まない)休日条例案は、89年6月議会に提出されたが、反対世論の盛り上がりで、県議会各派は立往生した。結局条例案は、90年3月の県議会で、全会一致で廃案になった。未解決のまま先送りされた「慰霊の日」休日廃止問題は、90年6月23日、慰霊の日の沖縄戦全戦没者追悼式に出席した海部俊樹首相が、「地域的特性を考慮すべきである」と発言したことによって解決することになった。

 91年3月、国会で地方自治法が再改正され、「第4条の2」には、次の文言が付け加わった。
「③前項各号に掲げる日のほか、当該地方公共団体において特別な歴史的、社会的意義を有し、住民がこぞって記念することが定着している日で、当該地方公共団体の休日とすることについて広く国民の理解を得られるようなものは、第一項の地方公共団体の休日として定めることができる。(以下略)」

 現役首相をはじめ政府首脳が、沖縄戦全戦役者追悼式に出席するようになるのは、これ以後のことである。

 最後にもう一つ、冒頭で紹介したネット記事の表題の中にあった「白保」。私はこの地名には初めて出会った。いままで読んできた沖縄関係のどの本も出てこなかった(みおとしたのかなあ)。ウィキペディアの助けを借りることにした。

 白保サンゴ礁(しらほサンゴしょう)は、沖縄県石垣島東部にある石垣市白保地区の海岸に沿って、南北約10km、最大幅約1kmにわたって広がる裾礁である。

 このサンゴ礁には、世界有数の規模を誇り北半球最大とも言われるアオサンゴの大群落をはじめ、ハマサンゴの巨大な群落やマイクロアトール、ユビエダハマサンゴの群落が多数分布しており、30属70種以上の造礁サンゴが生息するとされている。

 沖縄の多くのサンゴ礁がオニヒトデによる食害や赤土流出によって消失しつつあるなかで、白保サンゴ礁は、オニヒトデによる食害を免れ、良好な生態系を残した数少ないサンゴ礁であるとされる。

 2007年8月1日、西表国立公園に石垣島の一部が編入されて西表石垣国立公園となり、白保地区は海域公園(旧称:海中公園)地区に指定された。

 1979年に計画が発表された新石垣空港は、当初、白保地区の沖合に海上空港として建設される予定であったが(白保海上案)、白保サンゴ礁の重要性が認識されるようになると反対運動が活発になり、1989年にこの案は撤回された。

 その後、二転三転の末に、白保地区北部のカラ岳付近に空港を建設するカラ岳陸上案で最終的に決着し、新空港は2006年10月に着工、2013年3月に開港した。この案は埋め立てを伴わないものであるが、カラ岳を切削する際の赤土流出等による白保サンゴ礁への影響が懸念されたため、沖縄県は赤土流出を防ぐために遊水池建設などの措置を講じた。

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