2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(33)

沖縄返還後の闘い(1):反戦地主運動

 辺野古新基地建設反対闘争は戦後70年に及ぶ沖縄による対日・米政府闘争の到達点である。アメリカ世での闘争では、1950年代の「島ぐるみ闘争」と70年代の「沖縄返還闘争」と、二度の大きな山があったが、再度のヤマト世では辺野古新基地建設反対闘争に至るまでにどのような闘争が展開されてきたのか、それを追ってみよう。

 、「アメリカ世の沖縄(4)」で取り上げたように、「島ぐるみ闘争」を牽引した「土地を守る協議会」は保守勢力主導で結成された「土地を守る会総連合」(1956年9月20日 「土地連」と略称する)に吸収され、11月に正式に解散した。その「土地連」は政府の軍用地主対策に乗じて、70年代後半には自民党の支持基盤に転じていた。その経緯は次のようである。

 沖縄が日本に返還されると、米軍用地は、安保条約(地位協定)にもとづいて、日本政府が土地所有者から借り受けて米軍に提供することになる。そこで政府は、米軍用地の使用料を、一挙に平均6倍に引き上げ、さらに契約奨励金を上積みして、契約促進を図ることにした。このため、基地のフェンス一枚を隔てて植えられたサトウキビの買い上げ価格が、同じ面積の軍用地使用料の約7割にしか相当しないというような事例も生まれた。農民の労働は、マイナスの価値しか持たないという、転倒した現象も現れたのである。

 政府の軍用地主対策によって、50年代の島ぐるみ闘争の牽引車だった土地連は、70年代後半には、自民党の支持基盤に転じていた。それでも、あくまで軍用地として使用する土地の賃貸借契約を拒否する土地所有者(いわゆる反戦地主)は、軍用地主全体の1割強、約3000人に上ると見込まれた。そこで政府は、沖縄返還まで軍用地として使用されていた土地は、土地所有者の同意がなくとも、復帰後5年間は軍用地として継続使用できるという公用地法を制定したのである。政府は、5年間で反戦地主を切り崩すために、嫌がらせやこま切れ返還など、あらゆる手段を用いた(詳しくは拙著『新版沖縄・反戦地主』高文研、96年参照)。

 公用地法は正式には「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」という。ここで公用地と呼んでいるのは、「再びヤマト世へ(6)」で取り上げた「5・15メモ」で軍用基地を「施設及び区域」と言い換えていたのと同様の言い換えである。

 さて、反戦地主たちは「権利と財産を守る軍用地主会」(反戦地主会)を立ち上げ、沖縄のみを対象とした公用地法は憲法に違反するとして、公用地法違憲訴訟を提起した。これを沖縄社会大衆党、社会党、共産党、公明党など4政党と、県労協、沖教組、自治労沖縄県本部など18の組織が違憲共闘(「公用地法違憲訴訟支援県民共闘会議」)を結成して支援した(この頃は公明党はまともな党だったのだなあ)。これで公用地法の期限が切れる77年5月までに反戦地主を根絶やしにすることは不可能だった。

 そこで政府は新たに、地籍明確化法(「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の位置境界の明確化等に関する特別措置法)を制定した。この法律の附則で、公用地法の期限をさらに5年延期した。なんとも卑劣な政府だ。

 この法律について、新崎さんは次のように解説している。

 沖縄戦ですべてが灰燼に帰した沖縄では、土地の所有権などを明らかにする登記簿や公図類もほとんど焼失していた。このため戦後間もなく、隣接地主の立会いの下で土地所有権の確認作業を行ったが、立ち入り調査などができなかった軍用地を中心に、多くの地籍不明確地が残った。その面積は、沖縄島の9%を占め、そのうち82%は軍用地だった。

 日本政府は、復帰と同時に地籍明確化作業に取り組むべきであった。沖縄戦と軍事占領の結果生じた問題の処理は、当然日本国家の責任だったからである。しかし政府はそのようなことはやらなかった。それどころか、地籍不明確地を反戦地主切り崩し策に利用したのである。

 軍用地が返還されても、その地籍(位置・境界)がはっきりしなければ、ただちに個々の土地所有に土地を返還するわけにはいかない。軍用地主の申告面積(これにもとづいて軍用地料は支払われていた)の総計と実測面積が大きく食い違う場合も少なくなかった。だがただちに土地所有者に返還されないような土地でも、軍用地でなくなれば、即座に軍用地料も損失補償金も支払われなくなった。このような嫌がらせ返還、見せしめ返還が反戦地主の土地を中心になされていた。

 沖縄県は、復帰以前から、政府が責任を持って地籍明確化作業に取り組むよう強く要求し、地籍明確化法の法案要綱を作成して提示したりもしていた。政府も公用地法の期限切れが近づくと、地籍明確化のための法案作成に乗り出した。だが、政府の狙いは地籍明確化それ自体よりも、あくまで米軍用地確保にあった。各筆の地籍が不明確では、強制使用の法手続きもできないからである。このため、地籍明確化法は、基地確保(新)法などとも呼ばれた。

 地籍明確化法の附則で延長された公用地法の期限が切れたとき、なお百数十人の反戦地主が存在していたという。沖縄返還から10年たっていた。次に政府が打ち出したのは、これらの反戦地主の土地を米軍用地特措法によって強制使用することであった。

 私は「米軍用地特措法」という法律を初めて聞いた。新崎さんは次のように解説している。

 戦後の土地収用法は、軍事目的のための土地の強制収用(強制使用)を認めていなかった。そこで、安保条約に基づいて米軍用地を提供する必要が生じた日本政府が、安保条約発効直後に制定したのが米軍用地特措法である。

 米軍用地特措法は、立川基地の拡張問題(砂川闘争)の頃には何度か発動されたが、60年代になると、米軍用地の強制収用が必要なくなり、冬眠状態にあった。その米軍用地特措法が、82年、沖縄で再び目を覚ましたのである。

 米軍用地特措法では、土地収用法と同じ手続きで強制収用を行うことになっていた(その後法改正されより簡素化された)。したがって、各県に設置された収用委員会の公開審理を経て、土地収用(強制使用)が、「公共の利益」に合致しているとの判断を得る必要があった。

 最初の公開審理に、那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)は、職員を大量に動員して臨んだ。その数は違憲共闘の動員をはるかに上回り、反戦地主側を威圧していた。こうした状況を目の当たりにして、反戦地主の未契約軍用地を一坪(正確にいえば一万円分)ずつ共有化して反戦地主を支援しようという一坪反戦地主運動が立ち上がることになる。

(中略)

 沖縄県収用委員会は、反戦地主の土地を82年5月14日から5年間強制使用することを認めた。87年5月以降の強制使用対象の土地所有者は、百数十人の反戦地主と、2000人の一坪反戦地主になった。公開審理も、市民会館の1000人規模の大ホールで行われることになった。米軍用地の強制使用の継続が「公共の利益」に合致しているか否かを問う公開審理は、日米安保体制、沖縄における米軍基地形成の歴史に関する巨大な学習の場となった。沖縄のメディアは、毎回、公開審理の様子を大きく報道した。

 上に出てきた「一坪反戦地主運動」という反戦地主運動への新しい支援活動は次のようなユニーク運動だった。

 一坪反戦地主運動は、従未型の革新共闘が、反戦地主を十分に支えきれないという現実の中から出発した。これまであまりこうした運動にかかわってこなかった言論人や大学教員から、違憲共闘所属組織のメンバーまで、多種多様な人びとが参加していた。反戦地主のように契約拒否が生活それ自体にかかっているわけではなかったが、一坪反戦地主のわずかな土地を強制使用するためにも、国は、反戦地主に対するのと同様の手続きを必要とした。その組織形態も、中央の指令で各支部が動く、というようなものではなく、地域や職域のブロックが反戦地主を支援し、安保強化に反対する独自の行動を展開した。当初は、「民間未組織ブロック」もあった。現在、関東地方で、辺野古新基地建設阻止行動の中核組織の一つになっているのは、「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」である。

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