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《沖縄に学ぶ》(24)

沖縄問題の本質(1):行政協定と地位協定(1)

 私は「日本はアメリカの属国」と言い続けてきたが、さらに付け加えれば、沖縄は日米共謀により創り出されたアメリカの植民地である。そしてそれらを可能にしているのが次の事実である。つまり、属国政府にとっての最高法規は「日米安保条約」「日米地位協定」「日米原子力協定」であり、これらを法的根拠にして、日米間のさまざまな密約を作り出して実質的に日本を牛耳っているのが「日米合同委員会」である。つまり、属国政府にとっては日本国憲法はあってなきがごときものなのだ。この事実のあらましは、すでに次の記事で書いている。

『アメリカによる日本占領は終わっていない(1)』
『アメリカによる日本占領は終わっていない(2)』
『アメリカによる日本占領は終わっていない(3)』

 これらの記事を書いたとき、基礎資料の一つとして前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(以下「日米地位協定入門」と略記する)を用いた。ただし、初め40頁を無料でダウンロードできることを知ったので、用いたのはそのダウンロードしたはじめの40頁だけだった。今回は「沖縄の記憶」に「日米地位協定入門」を加えて、沖縄問題の本質をより詳しく調べ直すことにした。なお、日米間の条約や協定を「日米地位協定入門」に倣って次のように略称する。

「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(1952年4月28日発効)→「旧安保条約」
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約」(1960年6月23日発効)→「新安保条約」
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条にもとづく行政協定」→「行政協定」
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約第6条にもとづく施設および区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」→「地位協定」

 なお、「日米地位協定」に使われている「施設および区域」という文言は他でも「施設または区域」「施設もしくは区域」「施設・区域」などという言い方で使われているが、これを「日米地位協定入門」では「基地」(註:この場合の「基地」は、演習場他をふくむ概念と定義します)と言い換えている。以下ではこれも踏襲する。

 本題に入ろう。
 旧安保条約の第3条「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する」に基づいて、アメリカ軍の「日本国内及びその附近における配備を規律する条件」を具体的かつ詳細に規定したものが行政協定である。行政協定では、アメリカ軍人・軍属とその家族の法的地位に関する規定ばかりでなく、アメリカ軍が日本で享受できる特権や免除、アメリカ軍が日本のどんな場所でも基地として設定できる「全土基地方式」による基地提供、日本が毎年アメリカ国に支払う「防衛分担金」(年額1億5500万ドル相当の円)といったアメリカ軍の日本「配備」条件と日本の「許与」条件とが多岐にわたって定められている。これらの民事請求権、通関、基地の運営管理や防衛分担金といった在日アメリカ軍の条件を定めた規定は、1960年、安保条約が改定された折に変更される。それが「地位協定」である。

 58年10月に開始した安保改定交渉に際して、沖縄および(日本)本土への「アメリカ軍基地の自由使用」が軍事戦略上どうしても必要と考えたアメリカ政府は、行政協定には一切手をつけないという方針で臨んだ。一方、日本政府はアメリカ軍の駐留に起因する問題、主にアメリカ軍人・軍属やその家族による事件、事故、犯罪との関連で行政協定の見直しを迫られるようになっていた。日本政府および外務省は行政協定の改定を申し入れた。日本の改定要求に対して、アメリカ国政府は峻拒から同意へと方針を転換する。アジア太平洋地域におけるアメリカ軍の軍事的効果と前方展開基地を維持するためには、協定改定は政策的な調整として必要であると認識を改めたのだった。日本側がアメリカ国側に提起した60ちかい改定要求の多くはドイツ駐留のNATO軍地位協定ないしボン協定と同趣旨に改定されたが、このとき、日本政府は1953年9月の時点ですでに「NATO並み」ないし「NATOとの平準化」に達したとの判断から第17条「刑事裁判権」について改定を要求しないという大きな誤りを犯しかた。

 以上は「沖縄の記憶」を用いてまとめたが、最後の部分が分りにくい。ネット検索をしてみたら本間浩(法政大学教授)という方の論文『ドイツ駐留NATO軍地位補足協定に関する若干の考察』という論文に出会った。この論文によると、ボン補足協定が日本側の視野に全く入っていなかったのが「大きな誤り」の原因だったようだ。この論文の「はじめに」の冒頭部分を引用させていただく。

 1960年に締結された在日米軍地位協定は、その前身である1952年の在日米軍行政協定とともに、1951年に北大西洋条約機構(NATO)加盟国間で締結されたNATO軍地位協定をモデルにして作成された、としばしば指摘されている。確かに、駐留軍隊の構成員およびその関係者に関わる犯罪または民事請求権の取扱い出入国管理上の処遇など、法的地位に関する諸原則は、NATO軍地位協定に定める諸原則とほぼ同様である。とりわけ、在日米軍地位協定の改定は、NATO軍地位協定の法文上の原則と比較して大きな差があると思われていた行政協定上の若干の原則を「NATO並み」にするという悲願の下においてであっただけに、新協定の実現とと もに、「NATO並み」への熱意は急速に萎えてしまった。

 しかも在日米軍地位協定に含まれる問題点に対する国会での究明は、同協定案に関する審議時ばかりではなく国会承認後においても不十分なままであった。さらに、同地位協定上の問題点の根元を溯れば、それは、NATO軍地位協定そのものに内蔵されているいっそう基本的な問題点に連結するのであるが、そのような基本的問題の所在に着眼されることさえもないままになっていた。

 また、「NATO並み」という捉え方の下では、在日米軍地位協定が、NATO軍地位協定とは後者における国際機構による組織的保障(例えばNATO理事会の承認・決定方式)など手続面を別にしても実体的原則面において構造的に大きく異なっていること、およびNATO軍地位協定が多数国間条約であることの宿命としてその規定の仕方が包括的であることは、明確に意識されないままであった。しかし何よりも先ず留意すべき点は、在日米軍地位協定には、NATO軍地位協定には含まれていない基地の設定および運用に関する諸原則が定められていることである。別の見方をすれば、在日米軍地 位協定は、駐留外国軍の法的地位協定という一面と基地協定というもう一面の双方を併せ持っているのである。

 同様の二面性を有しながら法技術的にいっそう緻密かつ体系的な地位協定が、ドイツ駐留NATO軍地位補足協定(正式名称は「ドイツ連邦共和国に駐留する外国軍隊に関して北大西洋条約当事国間の軍隊の地位に関する協定を補足する協定」、通称はボン補足協定)である。同協定は1959年8月3日にドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、NATO加盟国のうち西ドイツに駐留軍を派遣する諸国との間に締結された。その後、1971年10月21日、1981年5月18日、1993年3月18日に改定。特に1993年の改定は大規模なものであった。

 また、在日米軍地位協定と比べて、この補足協定はその緻密性および体系性の点で注目されるというばかりではない。ドイツは、この協定において自国に駐留するNATO軍に対する自国国内法の適用をできるだけ確保することについてNATO諸国の了解を取り付けた。そのことは、NATO加盟国の了解という枠はめがあるにしても駐留NATO軍に対するドイツの主権の実体的な行使が実現されることを意味する。ドイツの補足協定に定める国内法適用原則は個別事項ごとに具体的であって、しかもその原則の内容においては住民への配慮がみられる。対比的に見ると、このような意味での実体的内容の欠落こそ、在日米軍地位協定での最も著しい点の一つである。

 在日米軍行政協定の改定への日本側要求と同協定の改定交渉または改定案作成の時期は、この補足協定の作成時期とかなり重なり合う。それにもかかわらず、日米安保条約をめぐる激しい政治的闘争の状況下において日本政府は「NATO並み」の原則への引き上げで精一杯になっていて、ドイツの補足協定を視野に入れるほどの選択の余裕もないような姿勢をとった。野党もジャーナリズムもドイツの補足協定を十分には把握しておらず、それを国民に広く知らせるには至らなかった。いずれにしても、日本国政府のいう「NATO並み」の根底にある理念は、形式的、観念的な主権平等の主張であった。例えば在日米軍地位協定第16条の日本国法令尊重義務規定に示唆されているように、主張される主権平等は抽象的、観念的な域に留まり、ドイツの補足協定の例に見るような、個別具体的な事項ごとの国内法制度による担保という実際的な域にはほとんど達しておらず、ましてや住民への配慮を国内法の面からも確保するには到底至らなかった。

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