2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(21)

沖縄の歴史(18):再びヤマト世へ(4)

沖縄返還協定(1)

 沖縄返還協定も相変わらずアメリカへの大幅な譲歩の産物でしかなかったようだ。奥田さんはその問題点を次のように指摘している。
『対日講和条約第19条で日本が対米請求権を放棄したのと同様、沖縄返還協定第4条第1項で沖縄についても対米請求権を放棄することが明記されている。しかし、第4条第3項では、講和条約前に米軍が起こした人身事故や土地の復元補償のうち、米国による沖縄占領時代にすでに行なわれていた補償から漏れた分については米国政府が"自発的"に支払うことが規定されている。ここでも、表向きは米国が補償費用を支出するかたちをとっているが、実際には、日本政府が肩代わりしたのではないかという疑惑が持たれている。』

 沖縄返還協定には次のような法を含むの七つの関連法がある。
「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」(「復帰特別措置法」:復帰に伴う混乱を避けるために定められた、いわゆる暫定措置法)
「沖縄振興開発特別措置法」(本土と沖縄の格差を是正するために制定された振興開発のための特別法)
「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」(「公用地等暫定使用法」:復帰後の5年間にかぎって自衛隊の配備、米軍基地、自衛隊基地(公用地)の維持を図るための法律)
 これらの関連法によって、復帰前は日本政府の一体化政策、そして復帰後は「復帰特別措置法」によって法制度的な一体化に向けた暫定措置がとられることになる。

 さて、
 第67回臨時国会(1971年10月16日~同年12月27日)・第68回通常国会(1971年12月29日~1972年6月16日)は「沖縄国会」と呼ばれている。

 第67回臨時国会は沖縄返還協定を批准するために開かれた。その会期中の10月19日、日本復帰(沖縄返還)を「第三の琉球処分」であると批判する沖縄青年同盟(通称、沖青同)に所属する沖縄出身の3人の青年が衆議院本会議場の傍聴席において爆竹を炸裂させる事件が起きている。沖縄現地でも、日本国憲法よりも日米安保条約を優先させた沖縄返還交渉に対して激しい抗議行動が繰り返し起きていた。こうした沖縄の強い抗議の声を無視して、11月17日、衆議院沖縄返還特別委員会(自民党・桜内義雄委員長)において与党自民党による沖縄返還協定の抜き打ち強行採決が行なわれた。そして、11月24日に開会した衆議院本会議では、自民・公明・民主党が出席、社会・共産党ならびに沖縄県選出議員(安里積千代と瀬長亀次郎)が欠席というなか、12月22日に返還協定が原案のまま可決、成立した。ただし、沖縄返還協定の関連法は継続審議となっていた。しかしその関連法も、第68回通常国会が召集された日の参議院本会議で、次いで30日の衆議院本会議で、与党自民党の単独採決によって可決、成立した。

 このような協定のもとに1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されたが、二度目のヤマト世の沖縄はどのように扱われて、どのように変わっていったのか。奥田さんは次のように分析している。

 米軍基地については、「沖縄国会」の衆議院本会議で
「政府は、沖縄米軍基地についてすみやかな将来の縮小整理の措置をとるべきである」
と決議したにもかかわらず、1972年の日本復帰/沖縄返還以降に返還された在沖米軍基地は面積にしておよそ15%にすぎない。

 沖縄住民にとって、〈祖国=日本〉復帰とは何であったのか。また、日本復帰/沖縄返還は沖縄に何をもたらしたのか。復帰前の沖縄独立論がきわめて民族主義的であったのに対して、復帰後の沖縄独立論は米軍基地や政府補助金に依存する経済構造からの脱却を目指す自立自存や、基地被害のなかでも人権問題に焦点を当てていることに特徴がある。

 その背景には、沖縄の諸制度が中央集権的に統制されるにつれて、これまで沖縄の独自性を特徴づけてきた政党や労働組合といった組織もまた、本土の組織へと系列化されていったことが挙げられる。沖縄の組織の大半が本土の中央本部に対する単なる一地方の支部として呑み込まれていったのである。唯一、沖縄社会大衆党だけが本土政党の系列化に組み込まれることなく、今なお独自の地域政党として生き残っている。

 米軍基地など実情において政治的差別が許容される一方、規制など行政面のみ本土並みが強要されてきた。また、〈祖国=日本〉復帰後もなお残る巨大な米軍基地が住民の基本的人権や自治権を侵害している現実がある。このような不条理は、戦後日本の「高度経済成長」神話が米国の「アジア最後の植民地」と言われる沖縄の「(軍事)要塞化」のうえに創り出されたことを可視化するであろう。

 沖縄のアメリカ軍基地の「自由使用」問題も日本政府の譲歩と無為無策が積み上げてきた結果である。その行き着いた先が、次の引用文の赤字部分である。これは正に、集団的自衛権行使容認を含む戦争法の強行成立や沖縄辺野古新基地建設の強行などが示すように、現在の「アベコベ軽薄姑息うそつき」政権が躍起になって推し進めている政策、アメリカへの完全な属国化路線にほかならない。

 在日米軍基地の「自由使用」をめぐる問題は、日本が提供する軍事基地を米軍がどの程度恣意的に使用できるのかということよりむしろ、米軍の「自由使用」が日米安保体制、ひいては「日米同盟」全般に及ぼす影響をめぐる政治判断であった。現行の日米安保条約の成立(1960年)から周辺事態法の成立(1998年)までのあいだ、「日本防衛のため」という条約に明記された目的の枠内で米軍による在日米軍基地使用をどの程度認めるかが論議されてきた。

 米国政府は、沖縄の施政権返還に際して、在沖米軍基地の使用が制限されることを好ましいとは考えていなかった。そのため、「自由使用」の度合いを高めるように外交圧力をかけ続けた。当初、米軍基地の「自由使用」や「自由発進」をめぐる論議のなかで最大の焦点となったのは、朝鮮半島有事の際に在日米軍基地から米軍の直接出撃を日本政府が認めるか否かということであった。このような沖縄の極東における平和維持の役割をめぐる論議のなかで、日米関係に修復不可能なほどの大きなダメージを与えかねないという危機感を理由に「密約」外交が生まれる土壌が形成されてゆく。

 沖縄における米軍基地を最大限かつ有効に軍事利用してきた米軍は、施政権返還後、(日本)本土における米軍基地においても米軍が必要とする軍事行動を最大限認めるように基地の使用条件を緩和させていった。なぜなら、沖縄返還はそれまで米軍が享受していた在沖米軍基地の「自由使用」を最大限かつ継続的に認めることで実現したためである。しかも日本政府は、標語として掲げた「核抜き、本土並み返還」とは逆に、米軍の基地使用をめぐって適切な取り扱い条件を作成することを怠った。このように軽率な政府対応が、在沖米軍基地の「自由使用」を(日本)本土の基地使用へと拡大適用させてゆく道を開いたのである。

 米国の対日圧力は、沖縄だけでなく(日本)本土における米軍基地の「自由使用」が実質的に黙認されるようになると、〈日米安保体制=日米軍事協力〉の範囲を「極東」から「世界」に拡げさせようとするようになる。このことは、第Ⅲ部第9章で論じるように、在日米軍基地再編をめぐる日米協議の中間報告として2005年10月29日に発表された「日米同盟―未来のための変革と再編」に米軍と自衛隊の連携強化が謳われていることからも明らかである。

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