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《沖縄に学ぶ》(20)

沖縄の歴史(17):再びヤマト世へ(3)

沖縄返還交渉(3)

 1967年11月15日に発表された佐藤・ジョンソン共同声明には沖縄返還の期日への言及がない。このため、沖縄では、米軍基地の存続を前提とした返還交渉が沖縄不在のまま日本政府によって進められていることを危惧する声が上がっていた。沖縄が懸念した通り、その後、沖縄返還の見返りとして「沖縄のアメリカ軍基地の自由使用権」、さらには「核の撤去と引き換えに緊急時の核兵器の貯蔵権と通過権」を日本政府が黙認することが秘密合意されていた(2000年1月6日付け朝日新聞が「沖縄『核密約』米が保管」と題して報道。2009年には佐藤の遺族が核密約文書を保管していることも明らかになっている)。

 佐藤が掲げた「核抜き、本土並み」という沖縄返還の基本方針は、裏を返せば、日米両政府にとっては、日米安保条約の諸条件を(日本)本土と同様に沖縄に形式的に適用するという意味であった。沖縄の人たちは当然のこと、「核抜き、本土並み」を核兵器の撤去・アメリカ軍基地の撤廃、あるいはせめてアメリカ軍基地の密度が本土並みに整理・統合・縮小されると解釈し、期待していた。しかし実際には、日本政府が喧伝した「沖縄返還」は、アメリカ軍が沖縄に押しつけた軍事的・戦略的な権益が侵されないかぎりにおける「日本復帰」でしかなかった。次の引用文中にも取り上げられているが、日米両政府間の密約は外にもある。そうした密約が返還後の沖縄にアメリカ世の時と変わらない、いや、そのとき以上の苦難を押しつる結果をもたらしたと言ってよいだろう。そうした返還後の沖縄の苦難を、奥田さんは次のように指摘している。

 沖縄の米軍基地は、沖縄返還をめぐる日米交渉のなかで、「日本国の防衛」に起因する米軍の自由な行動を保証する要とされた。その存在は後に、沖縄の「基地問題」をめぐる(日本)本土と沖縄それぞれの政治勢力のねじれを固定化させることにもなった。その遠因は、米国の施政権のもとで「(米国)ドルの二重使用」による基地依存型輸入経済に改変された沖縄経済の構造的脆弱性に出来する。「(米国)ドルの二重使用」とは、基地建設・強化のために投入された(米国)ドルが現地雇用の「琉球住民」に賃金として支払われ、その賃金で輸入される日本(本土)製品を購入し、そして日本(本土)が外貨(ドル)資金を獲得するといった日本(本土)の戦後復興を促進するための一連の経済的な仕組みである。

 このため、復帰/返還後の沖縄は、「所得格差の是正」や「自立発展可能な産業構造への転換(つまり、製造業の導入)」を掲げながらも、米軍基地関連の収入に替わって日本政府の補助金への依存を強めるようになった。「極東における平和と安定」のために米軍の軍事的存在を維持する必要を掲げた〈日米安保体制=日米軍事協力〉の名のもと、総面積の20%が米軍に占有される沖縄本島に象徴されるように、沖縄はいまだに外部依存型経済構造から脱却することができずにいる。

 1969年1月に誕生したニクソン政権が掲げた沖縄返還に合意する条件は、在沖米軍基地の「自由使用」であった。11月の日米首脳会談で極秘に了解した「ニクソン米国大統領と佐藤首相の共同声明に関する合意議事録」は、最近、米国国務省が現在も機密扱いのまま二種類の文書を保管していることを明らかにした。一つは、非常時の核の持込みおよび通過を認める内容の「核密約文書」と考えられる。もう一つは、韓国や台湾への在日米軍の出撃を日米安保条約の事前協議の対象外とする在沖米軍「基地の(最大限の)自由使用」に関する文書である可能性が高いと言われる。

 沖縄返還交渉の過程では、この二つの「密約」文書に加えて米国の財政負担を日本が肩代わりする「秘密覚書」が取り交わされていた。日本政府が「分割された領土」回復という政治的な成果を傷つけないために「機密扱い」を求めた一方、米国政府は占領地の返還という政治的な決断に際して「より大きな経済的利益」を得ようとした。日本の財政当局は、このような日米間の財政取り決めの実態から沖縄返還の「買い戻し/売り渡し」の"値段"が発覚することを懼れ、できるだけ秘密裏に処理しようとした。

 次章で詳述する「日米地位協定」の第24条では、在日米軍基地の経費負担について次のように定められている。第一項において、「米軍の維持に伴う全ての経費」は米軍が負担すると記されている。第二項では、「施設及び区域並びに路線権(飛行場及び港における施設及び区域のように共同に使用される施設及び区域を含む)」が日本の負担で提供され、これらの借り上げ料と補償費なども日本の負担とされている。米国太平洋陸軍司令部は、この第24条第2項の「施設提供」は日本政府の財政負担のもとで行われるという解釈を代替施設にまで拡大解釈して適用しようとした。

 このような日米地位協定第24条の"ゆるやか/リベラル"な解釈に基づいて、日本が米軍基地の改善費や移転費を財政的に負担する義務は法的な根拠がない。しかし、実際には、米軍基地従業員の社会保障費の一部負担とともに米軍基地の改善費や移転費も、日米防衛協力の柱の一つとされる「思いやり予算」に加えられて現在に至っている。つまり、沖縄返還交渉において日本政府が「機密扱い」を求めた財政に関する取り決めのすべてが現在の〈日米安保体制=日米軍事協力〉の原形をかたちづくったと考えられるのである。

 そして現在、米国内で本格的に論議されている軍事費と米軍の役割から派生するさまざまな問題は、在外駐留米軍を抱える日本にとって無関係ではない。米軍駐留は日本および極東防衛のためとする日米安全保障条約をいまだに信じている日本人は多いが、多くの米国研究者や軍事専門家のあいだでは「辺野古移設は無理」、「在沖海兵隊の役割は希薄」という見解が大勢を占める。沖縄の「地理的な重要性」や在沖米海兵隊の「抑止力」論は現在の軍事技術や他の軍事的プレゼンスによって代替可能であり、在沖米海兵隊の存在自体を問題視する意見もある。実際のところ、日本の防衛ではなく、韓国やヴェトナム、イラク、アフガニスタンといった世界の紛争地域における攻撃が在日米軍の重要な任務となっているのが現実である。

 1969年11月にワシントンDCで佐藤・ニクソン日米首脳会談が開かれたとき、沖縄返還をめぐる国内外の政治情勢はもはや一刻の猶予もない状況であった。沖縄では即時無条件返還要求を掲げた革新主席が誕生した。本土では70年日米安保条約延長をめぐる安保闘争が高まり、さらにはヴェトナム紛争の泥沼化にともなう反戦平和運動が激化していった。そのような状況の下で、佐藤・ニクソンは日米共同声明のなかで、70年安保条約の「自動延長」とともに、アメリカが沖縄の施政権「72年返還」を同時に発表した。次の焦点は核の持込みや在沖米軍基地の自由使用に移ったものの、佐藤首相は相変わらず「核抜き、本土並み返還」を繰り返し強調していた。

 そのような中で、1971年6月17日に日米両政府が調印した「沖縄返還協定」には、沖縄の核兵器撤去についての言及は何もなく、在沖アメリカ軍基地の整理・統合・縮小についても何一つ触れられていなかった。復帰協はすぐに「県民不在の返還協定に抗議する県民総決起大会」を開いて抗議の声を上げ、「基地撤去」、「安保破棄」、そして「完全復帰」を訴えた。

 しかし、実際のところその後、沖縄の総面積に占める米軍基地面積は14.8%から12.3%に、わずか2%減っただけであり、その分は自衛隊の配備によって穴埋めされるかたちとなっていた。このような沖縄返還の実態は、佐藤政権が掲げた「核抜き、本土並み返還」とはほど遠いものであった。

 次回からは、この「沖縄返還協定」と1972年の沖縄施政権返還の内実を見ていくことにする。
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