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《沖縄に学ぶ》(19)

沖縄の歴史(16):再びヤマト世へ(2)

沖縄返還交渉(2)

 池田勇人首相は1964年11月9日に病気で退陣し、その後継者として佐藤栄作を指名した。その佐藤は吉田茂元首相を師と仰ぎ、吉田の遺志を継ぐ者として沖縄返還に政治生命を賭けていたと言われている。実際、佐藤は沖縄返還を政権の最優先課題として掲げた。CIAは佐藤の暗号名(コードネーム)を「ミスター・ヨシダ」としたそうだ。

 1965年、佐藤は訪米してジョンソン大統領と会談したが、その会談では
「沖縄及び小笠原諸島における米国の軍事施設が、極東の安全のために重要であること」を確認された。そのことを前提に佐藤は、沖繩の早期返還の願望を表明し、ジョンソンはそれに理解を示し「この希望の実現する日を待望する」と述べている。そして1月13日に共同声明を発表した。その声明には
「現存する日米協議委員会が今後は沖縄に対する経済援助問題にとどまらず、引続き沖縄住民の福祉の向上を図るために、両国が協力しうる他の問題についても協議しうるよう、同委員会の機能を拡大することに原則的に意見の一致をみた」
と明記されていた。これまでの対米依存関係から日米協調関係への移行が謳われていたのだった。しかしこの一ヶ月後に、沖縄返還の可能性を遠のかせる事件が起こった。アメリカのヴェトナム紛争への軍事介入である。

 ついでながら、今ではもう周知のこととなっているが、念のため触れておきたいことがある。このアメリカの軍事介入の口実になったのは「トンキン湾事件」と呼ばれている事件だった。1964年8月2日と8月4日にベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム海軍の魚雷艇がアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」を魚雷攻撃した。これに対する報復という口実で、ときのアメリカ大統領ジョンソンは8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。しかし、このトンキン湾事件はアメリカによる捏造事件だった。その後、ならず者国家・アメリカによるこの手の陰謀は今に引き継がれている。その中でも中東に最悪の事態を引き起こしたのが、イラクが核兵器を隠しているというウソを口実に行なったイラク侵略戦争である。

 さて、沖縄の基地からヴェトナムに向けた出撃は次のようである。

 1965年2月には継続的な北爆が開始され、4月に宜野湾市普天間のアメリカ海兵隊部隊が、6月に北中城村端慶覧(きたなかぐすくそんずけらん)のアメリカ陸軍部隊がヴェトナムヘ出動した。さらに、7月には台風避難という名目で核戦略爆撃機B52が嘉手納町嘉手納飛行場に初めて飛来し、その後、ヴェトナムヘ向けて北爆に出撃した。そして、翁長知事が「ベトナム戦争のときには、沖縄から毎日B52が爆撃のために飛び立ちました」と述べているように68年2月5日以降、22機のB52爆機が嘉手納基地に常駐し、毎日2回、ヴェトナムに出撃を繰り返すようになった。さらに、嘉手納基地の滑走路の延長や具志川のアメリカ海兵隊施設の拡大・強化が進められるとともに、国頭村(くにがみそん)および東村(ひがしそん)にまたがる沖縄島北部のキャンプ・ハーディー(アメリカ軍アジア特殊活動部隊の訓練基地)ではゲリラ戦演習が激増していった。以上のように、沖縄はヴェトナム紛争の米軍出撃基地として全面稼動していったのである。

 このように、1965年7月に核戦略爆撃機B52が嘉手納町嘉手納基地に常駐し、ヴェトナムヘ爆撃が常態化していった。そして、嘉手納基地を北爆の発進基地と位置づけていたアメリカ海軍は、この時点では、「空の雲が全部なくなって完全な青空になったとき、つまり米国と日本にとって安全保障上の"(共産主義の)脅威"が一切なくなったときに沖縄は米国から日本に返還される」という曖昧模糊とした方針を打ち出していた。このような状況の中、翌月8月19日から3日間にわたり、佐藤は戦後の首相としては初の沖縄訪問を行なっている。この沖縄訪問については、前回紹介した『日本にとって沖縄とは何か』の解説を引用する。

 日米首脳会談で、沖縄米軍基地の重要性を積極的に確認した佐藤政権が、試行錯誤の第一歩を踏み出しだのが、その年8月の沖縄訪問だった。沖縄に降り立った佐藤首相は、
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております」
と述べて民衆の素朴な民族感情にささやきかけたが、それは同時に彼自身の帝国主義的願望のひそかな表明でもあった。

 戦後初めて日本の首相を迎える沖縄の表情は複雑だった。民衆の意識は急速に変わりつつあったとはいえ、反米(軍)感情の強さに比べれば、反(日本)政府感情はきわめて弱かった。異民族の軍事支配下に20年も放置してきた日本政府に対するいらだちや反発はあったが、それは期待感の裏返しの表現でもあった。佐藤来沖当日の琉球新報(8月19日付)は、
「佐藤首相を迎える沖縄の表情は「歓迎」、「請願」、「抗議」、「阻止」とさまざまであるが、"大勢は、歓迎した上で訴えるべきは訴えよう"という空気である」
と書いている。

 訪沖後の佐藤政権の対沖縄政策の特徴の一つは、心情的な本土・沖縄一体化論にもとづく沖縄の共同防衛論であり、もう一つは、「基地・施政権分離論」であった。

 佐藤の沖縄訪問の翌年(1966年)から、日米両政府内で沖縄返還が真剣に検討されるようになる。アメリカ政府内では同年6月に沖縄特別作業班が設置され、沖縄の施政権返還について議論が始められた。一方日本では、総理府総務長官の諮問機関として大浜信泉(早稲田大学総長、南方同胞援護会会長、沖縄海洋博協会会長を歴任する)を座長に据えた沖縄問題等懇談会を設置して、沖縄返還交渉についての検討を始めた。そして翌1967年11月15日、佐藤・ジョンソン首脳会談後に共同声明が発表された。この共同声明の概要を奥田さんは次のように解説している。

 日米両政府は、核ミサイル基地をはじめとする「米国の軍事施設が、日本および極東の自由諸国の安全を保障するため重要な役割を果たしている」ことを3年前に続いて再確認した。在沖米軍基地の「自由使用」が施政権の維持に裏づけられると考える米国政府に対して、佐藤首相はワシントンDCのナショナル・プレス・クラブで沖縄の「重要な役割」を全面的に肯定したうえで「沖縄の日本本土復帰と、沖縄の基地がその機能を有効に果すことは決して矛盾しない」と主張した。

 佐藤・ジョンソン首脳会談では、沖縄の施政権を日本に返還するという基本方針に基づいて日米両政府が合意に達した。この日米合意によって、それまで沖縄返還の前提とされてきた「極東の緊張緩和」という条件が明文上から削除され、施政権返還に向けて日米両国が継続的に議論する道が拓かれることになる。南ヴェトナムと米国の訪問から帰国した直後、1967年12月5日に佐藤首相が国会で行なった演説が象徴するように、当時、沖縄返還の代償は自衛隊(=日本の軍事力)の増強と米国の反共「封じ込め」政策(=極東戦略)に対する支持と理解されていた。また、沖縄返還の時期など具体的な点がすべて持ち越されたなかで、「沖縄の住民とその制度の(日本)本土との一体化」を進めてゆくことのみが明記された。

 この1967年の日米共同声明に対して、沖縄ではどのような反応が起こっただろうか。続いて奥田さんの解説を引用する。

 佐藤・ジョンソン共同声明は、「即時無条件全面返還」を掲げる「祖国復帰」運動の目的とは大きくかけ離れたものであった。復帰協はすぐに弔旗を掲げて抗議声明を発表すると、その後、民主主義の基本である主席公選を求めて沖縄の「祖国復帰」運動を推し進めた。そして1968年2月1日、キャラウェイ高等弁務官が同年11月2日の立法院議員選挙と同時に主席公選を実施することを発表するに到った。この初の主席公選に向けて、105団体による「主席、立法院議員選挙革新共闘会議」(革新共闘会議、別名「明るい沖縄をつくる会」)が結成された。政策面では、公約として「アメリカのベトナム侵略戦争、軍事基地及び安保条約に反対し、B52と核基地の撤去を要求して、県民の生命、財産を守り、平和な沖縄を築く」など、7つの「主席、立法院議員選挙統一綱領」が掲げられた。

 このような革新共闘に対して、保守勢力は「基地繁栄論」ないし「基地産業論」を主張して対抗した。沖縄経済がいかに米軍基地に依存しているかを強調することによって、地元住民の生活不安を煽ったのである。USCARと琉球政府もまた、日本復帰/沖縄返還による米軍基地撤去で約10万人の失業者が出るという推定調査報告書を発表した。その結果、主席公選の争点は〈祖国=日本〉復帰路線と米軍基地問題に絞られ、「平和と繁栄」か、それとも「混乱と貧困」か、という選択肢に言い換えられた。

 主席公選の結果、単なる格差是正にすぎない沖縄と(日本)本土の「一体化政策」があたかも復帰/返還の実現であるかのように見せかけていると批判し、経済・社会福祉面のみならずすべての面における差別の撤廃と日本国憲法のもとでの人権回復としての即時・無条件・全面返還を要求した屋良朝苗革新統一候補が当選した。沖縄県民は、27年間にわたる米軍による直接軍事占領を体験して、問題を解決してゆくために現実に妥協するのではなく、革新が掲げた理念に賭けることにしたのである。こうした沖縄の政治的かつ大衆的な動向を背景に、日米両政府の沖縄返還交渉が1969年6月の第一回愛知揆一外相訪米から同年11月の佐藤・ニクソン首脳会談まで続けられた。その結果、核の有事持ちこみ、事前協議の弾力的運用、そして韓国や台湾の防衛に関する日本政府の譲歩によって、沖縄の「核抜き、本土並み返還」という日米合意が生まれたのである。

 この「核抜き、本土並み返還」はその後、沖縄返還をめぐる政治スローガンとして使われるようになったが、その内実はどのようなものだったのだろうか(次回に続く)。
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