2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(16)

沖縄の歴史(13):アメリカ世の沖縄(6)

祖国復帰運動(1)

 沖縄の祖国復帰運動の最初の動きは1952年に始まった。つぎのようである。

 沖縄では、敗戦後数年間、〈祖国=日本〉復帰を唱えることは一種のタブーであった。しかし、対日講和が現実味を帯びて国際政治日程にのぼるようになると、「日本復帰」、「信託統治」、「独立」という三つの主張を軸に琉球諸島の帰属問題が議論されるようになる。そのなかで、〈祖国=日本〉復帰の気運が高まり、沖縄社会大衆党(通称、社大党)と人民党が党大会を開いて「日本復帰促進期成会」を結成した。それにつづいて、社大党の「新進会」が主体となって「日本復帰促進青年同志会」が結成された。

 1952年末、教職員会を中心に青年連合会、婦人連合会、PTA連合会、そして市町村会の社会教育団体が「祖国復帰期成会」を結成した。その初代会長に就任したのが、後に最初で最後の公選主席かつ初代の沖縄県知事となる屋良朝苗職員会長(当時)である。そして翌53年1月18日に「祖国復帰期成会」主催の「第一回祖国復帰総決起大会」が開催された。この大会において、屋良期成会長は「祖国復帰についてはもはやいさゝかの疑点をさしはさむ余地もないこの悲願成就に百万住民の力を結集しよう」と挨拶した。ここで留意すべき点は、大会のスローガンに基地問題への言及がないことである。万場一致で決議された大会決議文や日本ならびに米国への要請文には、復帰を"民族の悲願"とする文言が記され、会場では、「祖国復帰悲願成就」が叫ばれた。

 こうした祖国復帰運動の高まりに危機感を強めたアメリカ政府は、1953年12月24日、奄美群島返還協定を調印(翌25日に発効)し奄美群島を日本に返還すると同時に、沖縄の無期限保有を宣言して民衆運動の沈静化を試みた。同時にUSCARが祖国復帰期成会に対する圧力を強め、解散へと追い込んでいった。

 しかしその後、「島ぐるみ闘争」に直面して、アメリカ政府は在沖アメリカ軍基地の機能を維持するために沖縄占領統治の体制建て直しを余儀なくされてゆくことになった。

 祖国復帰期成会は自然消滅するが、土地闘争や主席公選要求といった運動は継続され、やがて全県民的立場で結集する統一組織をつくる必要性から、1960年4月28日に「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成された。教職員会、沖青協、官公労をはじめ社大党、社会党、人民党、教育長協会、PTA連合会といった教育、福祉団体計47団体が加盟した。新築したばかりの沖縄タイムスホールの会場には、日の丸と「祖国九千万同胞と団結して復帰実現をはかろう」、「復帰に備えてあらゆる立場から体制をつくろう」という標語が掲げられた。

 結成まもない復帰協が統一運動組織として真価を発揮したのが「アイク・デモ」であった。1960年6月19日、アイクの愛称を持つアイゼンハワー米国大統領が安保反対運動で騒然とした東京訪問を突然中止して、那覇に立ち寄った。復帰協は、当日午前9時半に那覇市久茂地(くもじ)の沖縄タイムス前の空き地で「アイゼンハワー米国大統領に祖国復帰を要求する県民大会」を主催するとして、県民への参加を呼びかけた。嘉手納基地に降り立って琉球政府へ向かった大統領一行が那覇市街に入ると歓迎の星条旗よりも日の丸と赤旗が増え、沿道では1万5000人の武装兵と請願デモの隊列が対峙していた。危険を感じた大統領一行は琉球政府とUSCARのある4階建て合同庁舎から予定コースを変更して、裏道を通って那覇空港へと急行した。ここに復帰協は勝利宣言を発して、民衆運動に自信を深めたのである。

 アイゼンハワーが東京訪問を中止したことは、ハガチー事件(6月10日)・樺美智子さんの死(6月15日)・アイゼンハワーの東京訪問中止(6月19日)という一連の事件として、私の記憶に残っている。その後のアイゼンハワーの那覇上陸も含めて、安保闘争に参加していた沖縄の学生の苦悩に満ちた述懐が小熊英二著『<民主>と<愛国>』に掲載されている。多くの沖縄の人たちが持っているであろう日本という「祖国」への疑念を代表していると思うので、それを紹介しよう。

 6月16日、東京訪問を中止したアイゼンハワーが、沖縄を経由してフィリピンヘむかうことが発表された。そのときの運動側の反応を、沖縄出身の学生だった仲宗根勇は、こう記している。
 私は「安保」で死んでもいいと思っていた。文学部の樺美智子さんが国家権力の使徒たちに殺された夜、私は怒りに泣いた。……安保闘争中、私は「半日本人」としてではなく、すっかり「全日本人」=本土日本人として行動していた。この力強いスクラムが、この叫びが、この歓声が日本の未来を、私たちの沖縄をもすっぽりと包み込む時、俺たちの時代は始まるのだと……。だがその日、訪日阻止を叫んで国会前にすわり込んだ巨大な国民大衆に向って執行部は誇らしげに、かつ少々悲憤ぶって訪日阻止の成功を報告した。「……アイゼンハウアーの訪日は阻止されました。我々は勝利しました。卑怯なアイゼンハウアーは沖縄に逃げ去りました!」。大衆は歓呼した。私は気も動転せんばかりに驚いた。これは一体どうしたことだ? 沖縄にアイゼンハウアーが上陸したことはとりもなおさず、確実に日本=沖縄に足を踏み込んだことなのではないのか!

 明らかにここでは、安保闘争の「国民的」な連帯から、沖縄は排除されていた。仲宗根は、
「真実は何も知らずに、いや偏見と先入観をもって前提された知識と意識の形でしか、沖縄は本土日本人、とりわけここに集まったいわゆる革新的な人々の中でさえ存在しているにすぎないのか」
と衝撃をうけ、
「日本国家にとって沖縄とは何か。いや、そもそも『日本国』とは何か。そして、もっと根源的に国家とは何か」
と考えざるを得なかったという。

 さて、沖縄の「祖国復帰」の理念的意味は何だったのか。奥田さんは次のようにまとめている。
『ここで言う「復帰」とは、主権国家における国民としての法的な主権者に保障された権利、つまり基本的人権を獲得することを意味していた。沖縄は、〈祖国=日本〉復帰による国家の回復を通して、国家を持たぬ一種の難民状態に置かれている現状を打破しようと試みたのである。』
 これを「復帰論」と呼べば、これに対して「反復帰」論、さらには「沖縄独立」論と呼べる議論や運動があった。後者二つの議論・運動を奥田さんはつぎのようにまとめている。
「反復帰」論
 日本から「分割された」琉球諸島では、米軍による直接軍事占領のもと、〈祖国=日本〉への帰属を求める「祖国復帰」運動が展開されていった。この運動は、一1972年に沖縄が日本に〈復帰/返還=(再)併合〉されるかたちで、日米両国の国家目的に回収されてゆくことになる。「反復帰」論は、そのような「祖国復帰」運動の思想(イデオロギー)を反芻しつつ、琉球/沖縄独自の理念を追求することを主張した。

 「反復帰」論は、1969年の佐藤・ニクソン共同声明で表明された「72年返還」合意を受けて、「反国家・非国民・反権力」の理念を機軸に〈祖国=日本〉を「あるべき日本」として相対化することを主唱した。近代沖縄の思相(イデオロギー)的な潮流は、〈日本化=皇民化〉を絶対的な前提として、「帝国臣民」への同化を志向する精神構造に支えられていた。そのため、どのような反体制的、反権力的な運動(あるいは闘争)も、やがては体制内に取り込まれてしまうという限界が内在することになる。そこで、「日本国」への統合を疑わず、「日本国民」としての同化を至上目的とする「内なる同化志向」を打破しないかぎり、沖縄の精神的な自立は展望しえないと訴えたのである。

 「反復帰」論における「復帰」という言葉は、「祖国復帰」運動を支える思想(イデオロギー)への批判を内包する。「反復帰」とは、単なる〈復帰/返還=(再)併合〉に対する反対ないし拒否を意味するわけではない。沖縄における「祖国復帰」運動が標語に掲げた「反戦復帰」には、「平和憲法の精神」が含意されている。つまり、〈復帰/返還=(再)併合〉によって強化されるであろう国家の強制に対峙する理念の足場として、思想(イデオロギー)的な課題が批判的に提示されているとも言える。なぜなら、国家の強制は、国民国家における「統合=包摂」の論理に基づいて、同化と異化の枠組みを堅持する手段として機能するからである。

 「反復帰」論は、また、「独立」論とも異なる。なぜなら、国家としての〈祖国=日本〉を相対化するうえで、琉球/沖縄の歴史的、地理的、文化的な独自性に依拠する一方、その異質性や異族性をも相対化するからである。差別(意識)から逃れるために自ら「日本国」への統合を追い求め、「日本人」への憧れをもって同化を内面化してきた精神構造から解き放たれる可能性を見出そうとする。日本への無批判な同化傾向をもつ従来の「復帰」論を相対化することによって、「復帰」の内実を問いなおしてゆこうとしたのである。

「沖縄独立」論
 琉球諸島は、1429年から1879年の「琉球処分」に至るまでの約450年間、琉球国という王国を形成していた。そのため、沖縄は日本国から独立して主権国家をつくるべきであるという沖縄独立論が議論されてきた。

 戦前は主に、琉球王国の復国運動というかたちで沖縄独立論が立ち現われた。1870年代後半から「琉球処分」前後に展開された幸地朝常(こうちちょうじょう)、林世功(りんせいこう)、亀川盛棟(かめかわせいとう)に代表される「琉球救国運動」は琉球、北京、そして福州を中心にした国際的な運動として展開した。戦後は、沖縄が日本から受けてきた差別や抑圧に対する批判的な視線と民族自決に基づく自治権の拡大を求めて、沖縄独立をめぐる議論や運動が展開した。そして〈復帰/返還=(再)併合〉後の沖縄では、「自立経済」という観点から「沖縄自立論」が議論されるようになる。

 沖縄独立の可能性は、歴史的に沖縄が重要な未来の選択を迫られる度に問題提起され、議論されつづけている。

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