2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(14)

沖縄の歴史(11):アメリカ世の沖縄(4)

島ぐるみ闘争

 「銃剣とブルドーザー」を前面に押し立てたアメリカ軍の軍用地強制接収に対して危機感を強めた立法院(琉球政府の立法機関)は、1954年4月30日、軍用地に関して次のような「土地を守る4原則」を決議して、アメリカ国と交渉する方針を明らかにした。

 使用料一括払い反対

 適正完全補償

 損害に対する適正補償の実施

 新規土地接収反対

 しかし、アメリカ軍は「4原則」をめぐる協議要請を無視して、強制的な上地収用を続けた。

 これに対して翌55年6月、住民代表6名が渡米して、アメリカ国下院軍事委員会で沖縄の窮状を訴えた。これを受けて、同年10月にアメリカ議会の調査団(通称、プライス調査団)が沖縄に派遣されることが決まった。

 琉球政府はプライス調査団の「民主的な」判断に最後の希望を託したのだが、「プライス勧告」(調査団の報告書)は、軍用地代の見直しに言及した以外、「4原則」の要求を完全に無視した。かててくわえて、1956年5月、アメリカ議会が沖縄基地建設計画を承認したのである。その概要が琉球政府主席に伝えられたのは、翌年6月9日のことであった。6月20日に公表された勧告全文は、「4原則」が破棄されたと受け止められる内容であった。

 「4原則」が拒否されたことを知った沖縄住民の怒りがついに爆発する。このとき初めて、軍用地問題の枠を超えて大規模かつ組織的な〈抵抗〉が沖縄全域に拡がったのである。これが「島ぐるみ闘争」と呼ばれている民衆運動であり、「祖国復帰」運動以前の基地闘争のなかでは、アメリカ軍による直接軍事占領の27年間における最大の民衆運動であった。その闘争の経緯は次のようである。

 まず、行政府・立法院・市町村長会・土地連合会(軍用地主の連合体)から構成された4者協議会(後に市町村議会議長会が加わった5者協議会)は「4原則」が受け容れられなければ総辞職することを決定し、民政副長官に決意表明書を手交した。

 同日、これに呼応して、全島で結成されていた「土地を守る会」が56市町村で一斉に「4原則貫徹住民大会」を開催し、全人口の半数に及ぶ約40万人が各市町村の住民大会に参加した。さらに、同年7月18日には、革新政党と教職員会が中心となった「軍用地問題解決促進協議会」が「沖縄土地を守る協議会」へと発展し、民衆運動の主要な機能を果たすようになった。そして同月28日に那覇高校の校庭で開催された「4原則貫徹県民大会」には、約15万人の沖縄住民が参加した。奥田さんはこの運動を次のように評価している。

『このとき初めて、「県民」という言葉が公然と使われたのである。それまで「忍従の民」と言われた沖縄の人びとが初めて、〈抵抗〉の民として立ち上がった瞬間でもあった。この大規模な民衆運動は、軍用地問題の枠を超えて、米軍による直接軍事占領に対する〈抵抗〉から〈祖国=日本〉復帰を志向する方向へと展開していった。そこでは同時に、沖縄に対する「潜在主権」を持つ日本政府に対して対米折衝を促す意図も込められていたのである。』

 この「無抵抗の抵抗」を支援するため、東京や大阪をはじめ(日本)本土各地で沖縄支援国民大会が開催され、鳩山一郎内閣もようやく重い腰を上げ始めた。一方、USCARは冷却期間をおくことで問題の早期解決を焦せる沖縄の切り崩しを図った。その切り崩しの経緯は次のようである。

 1956年9月20日に保守勢力主導の「土地を守る会総連合」が結成された。革新勢力の「土地を守る協議会」は「総連合」に吸収され、11月末には正式に解散する。そして12月末、「島ぐるみ闘争」の衰退を象徴するかのように、久志村(現、名護市)が同村辺野古における新規土地収用を承認し、一括払いを容認する契約に応じた。その後、一括払いの是非と地代水準が焦点となってゆくことになる。

 つまり、保守勢力が、軍用地代の引き上げによって、土地問題を経済的な条件交渉に限定する妥協へと転じたのだった。このことによって、アメリカ軍は沖縄島北部で新規土地収用を推進し、新たな基地を建設した。そして(日本)本土から米海兵隊師団を移駐させることから始まって、(日本)本土から次々とアメリカ軍基地を沖縄に移駐させてきたのである。1952年から60年に至るまでに(日本)本土の米軍基地は4分の1に縮小されたが、沖縄の米軍基地の面積は倍増した。それに加え、核兵器が搭載可能な多数のミサイルが沖縄に配備され、その発射基地が建設された。

 こうした理不尽な日米合作の土地強奪の結果、沖縄が追い込まれた状況を、奥田さんは次のようにまとめている。

『こうしてアメリカ軍に集落や農耕地を奪われてやむなく軍作業や基地労働で生計を立てざるをえなくなる沖縄住民のあいだには、「島ぐるみ闘争」の体験と記憶が刻み込まれている。一方で、総面積の14%、全耕地面積の42%を軍用地として強制接収された沖縄は、米軍基地に依存する社会・経済構造へ改変されていった。代表的な基地の街コザ市(現、沖縄市)における基地関係の収入は、全収入の70~80%を占める。また、約6万人の基地労働者の賃金などを含めると、沖縄の県民総生産の約45%が米軍基地関連収入に依存しているということも事実である。』

 この引用文中の「基地関係の収入」の部分の数値には疑問がある。奥田さんは「注」として丁寧に出典を明記している。軍用地の部分は琉球新報(1958年6月9日 夕刊)の記事「軍用地の現状はこうだ」が出典となっている。「基地関係の収入」部分には出典の記載がない。「~も事実である」と現在形で書かれているが勿論1958年頃のことだろう。もしかすると同じ新聞記事が出典かもしれないが確認の仕様がない。で、なぜ疑問を持ったかというと翁長知事の陳述書の記載と食い違っているからだ。その部分を引用すると次のようである。

3 米軍基地について

(3)「沖縄は基地で食べている」 基地経済への誤解

 よく、「沖縄は基地で食べているのではないか」とおっしゃる方がいます。その背後には、「だから少しぐらい我慢しろ」という考えが潜んでいます。

 しかしながら、経済の面で言いますと、米軍基地の存在は、今や沖縄経済発展の最大の阻害要因になっています。米軍基地関連収入は、復帰前には、県民総所得の30%を超えていた時期もありましたが、復帰直後には15.5%まで落ちており、最近では約5%です。駐留軍用地の返還前後の経済状況を比較しますと、那覇新都心地区、小禄金城地区、北谷町の桑江・北前地区では、返還前、軍用地の地代収入等の直接経済効果が、合計で89億円でありましたが、返還後の経済効果は2459億円で、約28倍となっております。また雇用については、返還前の軍雇用者数327人に対し、返還後の雇用者数は2万3564人で、約72倍となっております。税収は7億9千万円から298億円と約35倍に増えました。基地関連収入は、沖縄からするともう問題ではありません。経済の面から見たら、むしろ邪魔なのです。実に迷惑な話になってきているのです。

 日本の安全保障という観点から一定程度我慢し協力しているのであって、基地が私たちを助けてきた、沖縄は基地経済で成り立っている、というような話は、今や過去のものとなり、完全な誤解であることを皆さんに知っていただきたいと思います。基地返還跡地には、多くの企業、店舗が立地し、世界中から問い合わせが来ています。

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