2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《沖縄に学ぶ》(13)

沖縄の歴史(10):アメリカ世の沖縄(3)

3 米軍基地について

(1)基地の成り立ちと基地問題の原点

 沖縄の米軍基地は、戦中・戦後に、住民が収容所に入れられているときに米軍が強制接収を行い形成されました。強制的に有無を言わさず奪われたのです。そして、新しい基地が必要になると、住民を「銃剣とブルドーザー」で追い出し、家も壊して造っていったのです。沖縄は今日まで自ら進んで基地のための土地を提供したことは一度もありません。

 まず、基地問題の原点として思い浮かぶのが1956年のプライス勧告です。プライスという下院議員を議長とする調査団がアメリカから来まして、銃剣とブルドーザーで接収された沖縄県民の土地について、実質的な強制買い上げをすることを勧告したのです。当時沖縄県は大変貧しかったので、喉から手が出るほどお金が欲しかったと思います。それにもかかわらず、県民は心を1つにしてそれをはねのけました。そして当時の政治家も、保守革新みんな1つになって自分たちの故郷の土地は売らないとして、勧告を撤回させたわけです。今よりも政治・経済情勢が厳しい中で、あのようなことが起きたということが、沖縄の基地問題を考える上での原点です。私たちの先輩方は、基地はこれ以上造らせないという、沖縄県の自己決定権といいますか、主張をできるような素地を作られたわけであります。

 また、サンフランシスコ講和条約発効当時は、本土と沖縄の米軍基地の割合は、おおむね9対1であり、本土の方が圧倒的に多かったのです。ところが、本土で米軍基地への反対運動が激しくなると、米軍を沖縄に移し、基地をどんどん強化していったのです。日本国憲法の適用もなく、基本的人権も十分に保障されなかった沖縄の人々には、そのような横暴ともいえる手段に対抗するすべはありませんでした。その結果、国土面積のわずか0.6%しかない沖縄県に、73.8%もの米軍専用施設を集中させるという、理不尽きわまりない状況を生んだのです。

土地強奪令

 奥田さんは米軍基地の建設を三つの時期に大別して解説している。

<第1期>沖縄戦での上陸後
 上陸した米軍は日本(本土)侵攻作戦に向けて、日本軍が構築していたいくつかの飛行場を拡張し、使用した。前回書いたように、この段階では、沖縄住民はアメリカ軍に保護され民間人収容所に隔離されていた。

<第2期>1950年~1952年
 沖縄の長期軍事占領が政策決定され、厖大な基地建設予算が投入されるようになった。米軍は既存の基地拡大・強化のため新たに土地収用を始めた。居住地区の場合には、住民に立ち退きを迫ることもあった。対日講和条約発効(1952年4月28日)前のこの時点では、まだ、住民による組織的な〈抵抗〉はあまり見られなかった。

<第3期>1953年以降
 アメリカ軍は講和条約によって沖縄の直接軍事占領と軍事施設の「自由使用」に関して国際的な黙認を得たが、それまで無条件に使用していた米軍用地を契約関係に基づく使用へと移行しなければならなかった。そこで、USCARは1952年6月から軍用地代の支払いを開始した。しかし、安い地代と18年間という長期契約のために地代支払いのための手続きは難航した。そのため、53年末、米軍は突如として「黙契」(暗黙のうちに合意が成り立つこと、また、その合意)という詭弁による権利獲得を一方的に宣言した。
 それに加え、USCARは1953年4月3日に布令109号「土地収用令」を公布して、地主の同意なしに新しい軍用地を接収できるようにした。この「土地強奪令」はすぐに実行に移され、同年4月から55年7月までに真和志(まわし)村安謝(あじゃ)・銘苅(めかる)、小禄(おろく)村具志(ぎす)、伊江村真謝(まじゃ)・西崎、宜野湾村伊佐浜などで総計土地53万5000坪、家屋447戸が武装兵とブルドーザーによって強制接収された。なかでも、沖縄戦における激戦地で約1500人の犠牲者を出したことで知られる伊江島では、土地を追い出された農民が「無抵抗の抵抗」というスローガンを掲げて米軍の暴虐ぶりを沖縄島において「乞食行進」をして訴えた。

 以上にような強制的な土地収用の結果、アメリカ軍の軍事施設は沖縄島全域の117ヵ所にまで拡がった。また、市町村域に占める基地面積の比率では沖縄島中部が最も密度が高く、嘉手納の78.6%(2006年には83%)を筆頭に市町村域の50%以上をアメリカ軍基地にとられた自治体が6市村にのぼった。

 『沖縄の記憶』に「沖縄の米軍基地の現状」という地図が掲載されている。それを転載する。
沖縄の米軍基地

 奥田さんは
『基地特有の金属フェンスに到る所が囲まれた景観は、まさに「基地のなかに沖縄がある」ことを実感させられる。』
と書いているが、まさに沖縄はそのような実態を強いられているのだ。

 地元住民の反対を抑え込むため武装兵まで動員して行なわれた「銃剣とブルドーザー」による強制接収は沖縄全域に大きな衝撃をもたらしたが、こうしたアメリカ軍の野蛮な占領政策に対して沖縄の人たちはどのように抵抗していったのか。次回はそれ取り上げよう。

(追記)
 翁長知事は今回冒頭に転載した文章に続いて「普天間飛行場返還問題の原点」を取り上げている。その中で「普天間基地の原点は戦後、住民が収容所に入れられているときに米軍に強制接収をされたことにあります。」と述べている。普天間基地と言えば、アベコベ軽薄姑息うそつき政権に媚び諂っている百田という作家が「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」というアベコベに負けず劣らず軽薄で姑息なウソを得意げに語ったことを思い出した。折しも昨日、沖縄タイムズが【誤解だらけの沖縄基地】という連載記事で『(11)普天間飛行場は田んぼの中にできた?』という記事を掲載した。本文は直接読んで戴くことにして、アメリカ軍が基地用の土地として接収した当時の宜野湾村の地図を転載しておく。

1944年頃の宜野湾村

 百田によると宜野湾国民学校や宜野湾村役場は田んぼの中にあったそうだ。
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